これは「善意」か「いじわる」か【高瀬隼子著 おいしいごはんが食べられますように 感想】
久しぶりに面白い作品を読んだ。
この作品自体、
芦川さんが二谷に振る舞う料理であり、
押尾さんが芦川さんの机の上に置く
「お菓子」であると思う。
私はどちらとして受け止めるべきか。
他人の不幸は蜜の味。
作者の高瀬隼子さんはおそらく私達読者に
「おいしいごはんが食べられますように」
と本作を通して語りかけている。
それは本作の登場人物である芦川さんのような「善意」なのか、押尾さんのような「いじわる」なのか分からないし、
どちらともとれるのが面白い。
本作と同じような状況にある人には、
溜飲が下がる薬になるかもしれない。
解説の一穂ミチさんが書くように、
まだ「あなた」に出会ってない私はラッキー
だと自分の境遇を喜べるかもしれない。
登場人物に共感出来なくても納得してしまうような説得力によって、帯に書いてある通り、「わかり過ぎてえぐい」という感想を持ってしまう。
そうやって「他人の不幸」という名の蜜はどんどん味わいを増していく。
また読者は押尾さんと二谷が芦川さんへ
「いじわる」する様を見守るだけの共犯者になってしまうが、それすらもごはんがおいしくなることに繋がってしまう。
安全圏にいるからこそ味わえる愉悦。
その感情に向き合わされる、
とてもいじわるな作品だとも感じた。
重めな内容に対して読後感が悪くないのは、登場人物がそれぞれふさわしい結末を迎えるからだと思われる。
決してハッピーエンドではないが、
理不尽ではない。
全てのバランスがギリギリ吹きこぼれない鍋の中身のように火加減が調節されている。
そういう意味で主要な登場人物達に救いはあったという解釈は出来る。
「おいしいごはん」とはなんなのか。
作中でも食事に対して「自由であるべき」という解釈が提示されている。
「おいしいごはん」は人によって違う。
違って良いし、違って当たり前である。
私は随分昔の話になるが、
日付がもう少しで変わるような時間まで仕事した後に食べていた、楽しむためじゃなく生きるためだけの食事の味を未だに覚えている。
作品を通して、当時味わった苦渋を少し肯定出来ることが出来た。
生きためには食べることは避けられない。
「おいしいごはんが食べられますように」
私が明日から食べる物の傾向が変わってしまうような、または「おいしい」が変わってしまうようなメッセージを放つ作品に出会えたことが嬉しい。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
ページ数が少ないのでサクッと読めるのに
重たい一撃をくらえるのでおすすめです。
本を選ぶ際に自分のアンテナには絶対引っかからないタイプの作品だったので出会えたご縁に感謝です。

