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その恩人、相沢亜季最終話 最後の、どんでん返し


最終話 最後の、どんでん返し
 落成の宴が果てたあと、鵜飼護(うかい まもる)は、ひとり、署の机に向かっていた。
 目の前には、これまで書き留めてきた、覚え書きの束がある。夜ごとの男たち。名を刻む手帳。琥珀色の瓶。街ぐるみの見守り。匿名のハガキ。陽だまりの家。丘の上の影。——そのすべてに、護は、いまや、明るい答えを、書き添えることができた。どれもこれも、悪意かと身構えて、ふたを開ければ、善意だった。
 だが、刑事の性分というのは、始末に負えない。護は、まだ、腕を組んでいた。
 物語の作法でいえば、これほど、何もかもが優しく収まった物語には、必ず、最後の一撃が、用意されている。読者が、ほっと胸をなでおろした、まさにその瞬間。いちばん信じていたものが、ぐらりと崩れ、これまでの優しさが、すべて、おぞましい何かの、仮面だったと知れる——そういう、背筋の凍る、最後のどんでん返しが。
 護は、確かめずにはいられなかった。この、あまりに優しすぎる物語の、いちばん底に、本当に、暗い真相は、ないのか。
 彼は、たったひとつ、残った糸を、たぐった。相沢亜季(あいざわ あき)が、夜ごと配ってきた、あの琥珀色の薬。あれは、本当に、ただの薬湯だったのか。何十人もの人間を、意のままにできる、恐ろしい何かでは、なかったのか。護は、こっそり、その中身を、専門家に、調べさせた。
 数日後、鑑定の結果が、届いた。
 護は、封を切る指が、少しだけ、震えた。ここに、もし、この物語をひっくり返す、たったひとつの毒が、記されていたなら——。
 結果は、こうだった。『成分に、有害なものは、一切、認められず。主たるは、生姜、蜂蜜、なつめ、および数種の薬草。いずれも、身体を温め、痛みをやわらげる、家庭的な民間の処方。特筆すべき点、なし』。
 特筆すべき点、なし。
 護は、その一行を、しばらく、見つめていた。そして——ふっと、肩の力が、抜けた。
 最後の、どんでん返しは、なかった。
 いや。正確に言えば、これこそが、この物語の、最後のどんでん返しだったのだ。——裏など、初めから、なかった。すべては、見えていたとおりだった。優しさは、優しさのままだった。恩人は、ただの、恩人だった。どこまで底をさらっても、そこにあるのは、あたたかな善意ばかりで、暴くべき闇は、ついに、ひとかけらも、出てこなかった。
 いちばん最後の頁で、すべての優しさが崩れ落ちる——そういう物語に、護は、ずっと、身構えていた。その身構えそのものが、空振りに終わること。それが、この街の、いちばん大きな、たったひとつの、種明かしだった。
 護は、鑑定書を、そっと、机に置いた。そして、これまでの覚え書きの束を、ひとまとめにして、抽斗のいちばん奥に、しまった。もう、開くことは、ないだろう。事件は、なかった。最初から、ずっと。
 窓の外を見ると、丘のふもとに、「陽だまりの家」の灯りが、ともっている。今夜も、誰かが、あの火のそばで、あたためられているのだろう。相沢亜季は、あの灯りを守りながら、いつか、隣の街へと、火を運びにいく。兄の相沢巧(あいざわ たくみ)は、もう、姿を隠すことは、ない。桐谷(きりたに)たちは、その火を、絶やさぬように、代わる代わる、薪をくべにいくだろう。
 港南市(こうなんし)の夜は、海から来る風のにおいがする。
 護は、冷めかけたお茶を、ゆっくりと、すすった。かつて、この街のいちばん怪しい女ではないかと疑った、相沢亜季。彼女の正体を、護は、ようやく、ひとことで、言い表せるようになっていた。
 ——その女は、ただの、恩人だった。
 得体の知れない女でも、罪深い女でも、なかった。ただ、幼い日に受けた、あふれるほどのぬくもりを、受けたぶんだけ、律儀に返し続けている、それだけの女だった。この物語には、悪人が、ひとりも、いなかった。そして、それこそが、いちばん静かで、いちばん優しい、最後の反転だった。
 護は、立ち上がり、署の灯りを消した。
 なにも起こらない。誰も傷つかない。それが、この街の、ただひとつの、流儀だった。——そして、その流儀は、最後の頁まで、ただの一度も、裏切られることは、なかった。
(了)









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