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ブラームスは多くを語らない

以前のNoteで、「子どもの頃には苦く感じたコーヒーが、大人になると美味しく感じられるように、私自身もようやくブラームスの本当の魅力が少しずつ分かるようになってきた気がする。」と書きました。

ブラームスの作品には、これまで何度も演奏家の皆さんの表現を通して触れてきました。「これほど多くの演奏家が弾き続け、聴き継がれている作品には、自分がまだ気づけていない魅力が必ずあるはずだ」と、ずっと思っていました。そして最近になって、その魅力の入口からさらに一歩足を踏み入れたような気がしています。

■ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 作品78

その第2楽章と終楽章には、自身の歌曲《雨の歌(Regenlied)》の旋律が引用されています。多くの研究者は、この作品をクララ・シューマンへの思いと重ねて捉えています。

《雨の歌》は「失われた幸福への郷愁」や「思い出」をテーマとした歌曲であり、その旋律が織り込まれることで、作品全体に静かな回想と、言葉では語られない深い情感が漂っているように感じられます。

ブラームスは感情を直接語るのではなく、歌曲の引用や音楽的な暗示、そして親しい人だけが気づくようなモティーフを作品の中へ静かに忍ばせました。

■引き算の美学

今風に言えば、「SNS映え」のような一目で伝わる表現とは対極にあるアプローチです。誰にでも分かりやすく伝えることよりも、本当に伝えたい相手にだけ届けばいい。そんな芸術家としての矜持のようなものを感じました。

これまでは、重厚感があり、緻密に構築された音楽であることは理解していても、ショパンのような詩情やリストの華やかさ、ベートーヴェンの燃え上がるような情熱と比べると、自分の心に真っ先に飛び込んでくる存在ではありませんでした。ところが最近、その印象が少しずつ変わってきました。ブラームスの魅力は、足し算ではなく「引き算」の中にあるのではないか。そう感じるようになったのです。

私はクラシックバレエや歌舞伎といった様式美に惹かれます。決められた型があるからこそ、その積み重ねの中からにじみ出る美しさに心を惹かれます。派手な演出に頼るのではなく、節度の中に宿る表現に魅力を感じるのです。

ブラームスもまた、必要以上に語らない作曲家のように思えます。感情を過剰に見せるのではなく、一つひとつの楽器の音色を際立たせ、一つの和声の変化に意味を持たせ、さらには休符までもが音楽として息づいているように感じられるのです。

音を足すことで感情を伝えるのではなく、必要なものだけを残すことで、本当に伝えたいものを浮かび上がらせる。その緻密で、どこまでも節度ある設計に、ようやく私にとってのブラームスらしさを感じ始めました。

■ブラームスとの共通点

そして驚いたのは、その感覚が自分の写真にも重なっていたことです。私はクラシック音楽家の宣材写真を多く撮影しています。

以前は「何かを加えた方が魅力的になる」と考えていた時期もありました。背景を作り込み、光を増やし、小物を足し、演出を重ねる。もちろん、それが必要な作品もあります。

しかし、経験を重ねるほど、「何を加えるか」ではなく、「何を引くか」を考える時間が圧倒的に増えました。不要なものを削ぎ落とし、本質だけを残す。その人自身が持っている魅力を、写真が邪魔をしないようにする。そんな撮影を目指すようになりました。

ブラームスの音楽を聴いていると、その考え方と不思議なほど重なります。技巧を誇示するための技巧ではなく、感情を叫ぶための音楽でもない。厳格な構造の中に、人間らしい温かさが静かに息づいている。

私はまだブラームスを語れるほど理解できたとは思っていません。ようやく入口に立ち始めたばかりです。それでも、以前とは明らかに違う景色が見えています。ブラームスが音楽の中で追い求めた美学と、私が目指したい写真には、多くの共通点があることに気が付いたのです。

■ブラームスに近づけた

様式美を大切にし、構造を重んじ、余白を生かし、引き算によって本質を浮かび上がらせる。その考え方は、私が写真を撮る上でずっと大切にしてきたことでもあります。ブラームスの音楽にも、その美学が息づいていることに気づいたとき、「だから、これほど多くの人を惹きつけ続けているのか」と、ようやくブラームスを少し身近に感じました。

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