手袋は薄かった。商談は複雑だった。
引き出しの奥から、薄いゴム手袋が一枚出てきた。
包装は破れていて、中身だけが残っている。左右どちらだったかも、もうわからない。指の付け根に小さな粉が残っていて、押すと跡が消える。それくらいの薄さ。
十年前、自分が売っていた頃のものだ。
当時、世界最大の手袋メーカーにいた。日本を担当していた。
自社の名前で売っていた。世界最大、というだけで、相手の表情が変わった。工場は世界中にあった。スリランカ、中国、マレーシア、タイ、リトアニア、ポーランド、スウェーデン、メキシコ。八か国に分散していた。本社はベルギーにあった。
価格表の数字は、コロンボで決まることもあったし、クアラルンプールで決まることもあったし、ビリニュスで決まることもあった。決めるのは現地の工場長で、相談相手はベルギーにいた。時差が、どこかで必ず歪んでいた。
売り方の中心は、揃っていることだった。医療用も、工業用も、食品用も、研究用も、清掃用も、ほぼ全部、自社のカタログに載っていた。顧客が何を欲しがっても、棚から出せる手袋が、たいてい一つはあった。
だから、商談で勝負していたのは、一枚の手袋ではなかった。棚そのものだった。
数年経って、別の会社に呼ばれた。今度は世界最大級のOEMサプライヤーだった。同じ手袋を売る仕事だったけれど、売り方が裏返しになった。自社の名前で売るのではなく、相手のブランドの裏に滑り込ませる仕事だった。表に出るのは相手の会社の名前で、こちらの名前はどこにも出ない。出ないことが、こちらの仕事の前提だった。
担当は、日本、シンガポール、韓国の三か国になった。一人で三か国を見ていた。工場はパキスタンと、スリランカと、バングラデシュにあった。一つだけ、前の会社と重なっていた。同じ国の、別のラインで、別の名前を背負って出ていく手袋を売っていた。
東京で朝、見積もりを直して、昼に羽田から飛び、夕方にシンガポールの倉庫を歩いていた、ということが、本当にあった。翌週には金浦からソウルに入り、現地代理店の事務所で価格表を広げていた。どこの国に立っていても、相手が困っている顔は同じだった。困らせている工場の場所だけが、毎回違った。
外から見ると、簡単な仕事に見えた。
安く作って、品質を守って、納期通りに出す。
三つでいい。
実際は、その三つが互いに引っ張り合っていた。安くすると品質が落ちる。品質を上げるとコストが上がる。納期を詰めると工場が嫌がる。三角形のどこを引いても、別の角が歪む。歪んだまま顧客に出すと、現場が止まる。手袋がないと、検査ラインも、調剤室も、食品工場も、止まる。
止まると、相手の会社の中で、誰かが責任を取る。その誰かを作らないために、こちらが先に動く。
商談の机に座っているのは購買の担当者だったけれど、後ろには品質保証がいて、その後ろに商品企画がいて、もっと後ろに経営層がいた。目の前の担当者を説得しても、後ろの誰かで止まる。止まる場所が、案件ごとに違うだけだった。
だから、こちらの仕事は、説得ではなくなった。
相手の社内で、相手が自分で説明できるようにすること。なぜこの仕様なのか。なぜこの価格なのか。切り替えるときに何が起きるのか。問題が出たら誰が引き受けるのか。それを担当者の手元に、整った順序で置いておくこと。
橋を架ける仕事だった。
橋は、こちらが渡るためのものではなかった。相手が、相手の会社の中を渡るためのものだった。 橋がないと、担当者は途中で立ち止まる。立ち止まると、案件も止まる。
手袋は、一枚いくらの世界だ。
一枚の値段は、コーヒー一杯にも届かない。届かないのに、決裁には品質保証と購買と経営が並ぶ。単価は低いのに、意思決定は複雑だった。商品はシンプルなのに、商談は複雑だった。差別化は難しいのに、責任は重かった。
入社して二週間で、二百種類の手袋サンプルを受け取った。机の上に積まれた手袋を、一枚ずつはめていった。三日目には、実際に売れるのは五種類くらいだと、わかった。理由は単純で、手型が違ったからだった。日本の手に合っていなかった。
はめた瞬間にわかった。指の付け根が余る。手首がだぶつく。親指の角度が違う。数字にする前に、手が知っていた。
前の会社なら、別のラインから別の手袋を出せた。棚があった。
ここには、その棚がなかった。一品一品で売る会社だった。だから、一品の手型が合っていないことは、そのまま売れないということだった。
社内に言った。手型を作り直さないと売れない、と。
通らなかった。手型のサイズは関係ない、と言われた。
数字にならない違和感は、会議では言葉にならなかった。一枚はめてもらえば伝わったかもしれない。でも、社内の会議には、サンプルは持ち込まれなかった。
一年経って、二百種類のうち、売れたのは一種類だった。最初に思った数より、四つ少なかった。
三年で切られた。
橋を架ける仕事の話は、その会社でも何度かしたけれど、最後まで通じなかった気がする。橋を架けるより、橋がなくても渡れる人が、評価される会社だった。
今になって、引き出しから出てきた一枚を見ていると、なぜあの仕事が難しかったのかが、少しわかる。
手袋が難しかったのではない。
世界最大の名前で売っていたときも、名前を消して売っていたときも、手袋の薄さは同じだった。違っていたのは、薄さの裏に立ち並んでいた人たちの数と、その人たちが何を見ていたか、だけだった。 あの橋は、もうどこにも残っていない。
粉の跡を指で押すと、また消える。
