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クロード・シャブロル「甘い罠」(2000)

あらすじ(ネタバレなし)
天才ピアニストのアンドレ・ポレ(ジャック・デュトロン)は、妻ミカ(イザベル・ユペール)と裕福な家庭で暮らしている。そこへ、若いピアニスト志望のジャンヌ(アンナ・ムグラリス)が現れる。ジャンヌには自分の出生に疑問があり、実はアンドレの娘なのではないかという疑惑を持っている。一方、ミカが息子が飲むココアに睡眠薬を混ぜようとしたのではないかという疑いも生じる。二つの謎を残したまま、ポレ一家の日常は静かに揺らいでいく。

シャブロルでは後期の作品。「肉屋」や「不貞の女」という中期の傑作とはまた違った、大変洗練された映像である。ピアニスト二人が弾くフランツ・リストの「葬送曲」などが全編に流れる。

ピアニストの妻ミカ役のイザベル・ユペールが、表情が乏しく何を考えているかよく分からない感じである。中期だと、ステファーヌ・オードランがこういう役をしていた。
最初は、この役なら大ファンのオードランがいいなぁ、などと勝手なことを思っていた。ところが、進むにつれてユペールの凄みが段々分かってきて、どんどん引き込まれてゆく。

オードランの方は無表情でも、ああいう女性としての圧倒的な華があるし、内面には色々な豊かなものが潜んでいるのを感じさせる。
一方、ユペールの方は、いわゆる女のセックスアピールのようなものを感じさせるタイプでは全然ない。表情に乏しいのだが、本当に空虚な感じで、その内面にも何かがあるというよりは、空洞の限りない深い闇が拡がっているような感じなのだ。
それがこの作品の本質に深く適合している。

ピアニスト志望のジャンヌ役のアンナ・ムグラリスが、完全にユペールと対照的な若い娘である。
ピアノもうまく、スポーツや車の運転も器用にこなしてきわめて活動的、刺すよう強い目が印象的である。

単純化すると、ユペール=死、ムグラリス=生というきわめて対照的な存在なのである。

ジャンヌ(ムグラリス)は、生まれた際に病院で、天才ピアニストのアンドレ・ポレ(ジャック・デュトロン)の赤ん坊と取り違えられかけたという話を偶然耳にしてしまう。普通ちょっとショックでもそれで終わりにするのだろうが、ジャンヌはポレの自宅に予約もなく乗り込んで、堂々とその話をする。そういうきわめて強い性格なのだ。
ポレは困惑するが、自分と同じピアニストを目指していることを知って興味を持ち、ピアノのレッスンを彼女にすることを思い立つ。

その際に、ポレの二人目の妻であるミカ(イザベル・ユペール)が、前妻で既に死亡しているリズベット(リディア・アンドレイ)の写真をジャンヌに見せる。リズベットも生命力に満ちた活動的な感じの美貌の女性で、その感じがジャンヌによく似ているのだ。
つまり、この二人が似ていること、ジャンヌにポレと同様にピアノの才能があることから、ジャンヌ本人だけでなく、我々観客も、病院でミスがあって二人が本当の父娘ではないかと考えたくなる。

ポレ家にはギヨーム・ポロンスキー (ロドルフ・ポリー)という息子が住んでいる。取り違え疑惑のある男の子なわけだが、これがボンヤリした冴えない感じでピアノの才能も全くないのである。
後妻のミカ(ユペール)が世話をしているわけだが、ミカがギヨームに飲まそうとしていたココアをなぜかわざとこぼすのをジャンヌ(ムグラリス)が目撃してしまう。ジャンヌは不審に思って服についたココアの成分を自分の恋人の薬物分析の専門家に調べさせたら、強い睡眠薬の成分が発見される。

なおかつ、前妻のリズベットが睡眠薬によるかもしれない不審な運転事故死をしていたのが分かる。
ミカにとっては、義息のギョームは血のつながりのない他人で、前妻のリズベット同様に邪魔な存在かもしれないのだ。
勘がきわめて鋭いジャンヌは大胆にもギヨームに注意した方がよいとアドバイスするのだが、ギヨームは信じず受け入れない。

この赤ん坊取り違えと睡眠薬利用の二つの疑惑が、映画のかなり早い段階で提示される。そして、その二つの疑惑が全く解決されない宙づりの状態のまま、終盤まで続く。
我々観客は真相が一刻も早く知りたくてイライラしっぱなしになる。シャブロルの巧みな演出である。

中期のシャブロルは映画として傑作でも、映像自体はそれほど洗練されているわけではないし美的感覚に溢れていることもなく、わりと無造作な感じではある。むしろ、シャブロルが尊敬するヒッチコックの方が、そういう映像センスは卓越しているとも感じる。

ところが、この「甘い罠」はかなり映像が洗練されている。ピアニストという登場人物舞台、時代の違いもあるのだろうが、この映画の撮影はレナート・ベルタが担当している。
様々な名監督と仕事をしている名カメラマンなのだが、特にストローブ=ユイレを数多く担当しているのが目を引く。
ストローブ=ユイレは、画面構成にきわめて強いこだわりがあったが、その作業にレナート・ベルタも積極的に参画していた。

この「甘い罠」でもそういうこだわりが随所に感じられる。
例えば、主演のユペールを画面の中心に置かないことが多くて、むしろ空間の中の端などにぽつんと置いたりする。それなのに、そのユペールが異様に気になる。画面の中心ではないのに、画面全体を支配してしまう。
シャブロルの意図もあるのかもしれないが、レナート・ベルタの果たした役割が大きいのかもしれない。

特にこの「甘い罠」はその洗練された感じが、ちょっとシャブロルでは珍しくもあるので。しかも、その映像表現はヒッチコックのように計算され尽くされていながらどこか作為的なものではなく、計算されていながら自然さのあるものなのである。

ラスト近くになって、ようやく真相が分かり、ミカ(ユペール)が息子に飲まそうとした睡眠薬入りのコーヒーをジャンヌ(ムグラリス)が誤飲してしまい、車の運転中に事故を起こしてしまう。

ミカ(ユペール)がコーヒーカップや容器を必死に洗っているのを目撃したポレ(ジャック・デュトロン)もようやく真相を理解して、ミカに問いただす。

その際に、イザベル・ユペールが、「わたしは悪にたけているの」と、その独特な無表情でポツリと言うところはゾッとしてしまった。
自分の悪を思いきって告白する感じでもなく、淡々とただ事実を述べるように言うのだ。

その後も、イザベル・ユペールが自分の中には根強い悪が存在すること、人に愛されずに育ち、自分も本当には全く人を愛せないことなどを、やはり空虚な感じで語りつづける。
内容よりも、イザベル・ユペールという希有な役者の、完全な虚無や空洞や深淵の身体表現に圧倒される。それも雄弁に表現するのではなく、何も表現しないという逆説的な雄弁さなのである。

こういう説明的なセリフは中期の傑作のシャブロルでは注意深く禁欲的に排除されていたので、人によっては後退に思えるかもしれないが、ユペールの場合はセリフによる説明というよりは、身体的なほとんど本能的な深い表現になっているので、セリフの説明も全く邪魔にならないのである。

中期のシャブロルでは悪を単純には裁かない善悪を相対化する視点が際立っていた。しかし、この映画ではそういう相対化すら突き抜けて、善悪すら消えてしまうただの虚無にまで達してしまっている。それがこの映画の凄みである。
それには、イザベル・ユペールというきわめて異能の役者が必要だった。オードランにも彼女の良さがあるわけだが、この映画ではユペールでなくてはいけないと最後には心底納得させられたのである。

中期の「肉屋」や「不貞の女」とは別種でありながら、それに引けをとらない傑作だと感じた。

エンディングクレジットでは、奥でポレがリストの「葬送曲」を弾き始める。
イザベル・ユペールが、ソファーに無表情な虚無のまま座っている。涙がポロポロと頬を落ちる。しかし、感情的な涙などでは全くなく、涙さえ空虚で意味がなく単なる物理現象に過ぎない。

ユペールが膝を抱えてソファーに倒れこんで顔を隠す。それをカメラが少しずつ引きながら回転して上方に移動してゆき、ユペールを映し出す。人間ではなく、もはやただのもの、空でしかない。
リストが静かに終わる。

このエンディングクレジットの部分が、この映画の最上の映像表現になっている特異な例で、まるである種の宗教画を観ているかのようだった。


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