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【第3話】人はなぜ、聞いたことのない文を作れるのか__チョムスキーと生成文法


第1回では、ソシュールを手がかりにして、ことばは「ものに貼られた名札」ではない、という話をしました。

ことばは、音や文字と概念が社会の中で結びついた記号であり、ひとつひとつの単語がばらばらに存在しているのではなく、ことば同士の関係の中で意味を持つものです。

そこから、私たちは「ことばを体系として見る」視点を学びました。


第2回では、ブルームフィールドを手がかりにして、学習者の発話をまず観察することの大切さを考えました。

学習者が「昨日、学校へ行きます」と言ったとき、ただ「行きましたが正しい」と直すだけではなく、その発話の中で何が使えていて、何がまだ安定していないのかを見る。

発話は、訂正の対象である前に、観察の対象なのだという話でした。


では、その観察された発話の奥には、何があるのでしょうか。
学習者は、ただ教師の言った例文をまねているだけなのでしょうか。
それとも、自分の中で語彙や文法を組み合わせ、新しい文を作り出しているのでしょうか。

この問いに進むとき、避けて通れない人物がいます。アメリカの言語学者、ノーム・チョムスキーです。

チョムスキーは1928年にフィラデルフィアに生まれ、1955年にペンシルベニア大学で博士号を取得し、その後MITに移りました。

彼の言語理論は、博士論文や1957年の『Syntactic Structures』によって広く知られるようになりました。

チョムスキー自身の経歴紹介でも、1957年の『Syntactic Structures』が彼の主要な理論的視点を示した著作として説明されています。

チョムスキーの問いを、とてもやさしく言えばこうです。

人間は、なぜ聞いたことのない文を理解し、言ったことのない文を作れるのか。

これは、日本語教師にとっても、とても大切な問いです。

日本語の授業では、文型を教えます。
私は学校へ行きます。
私はごはんを食べます。
これは本です。
昨日、映画を見ました。

こうした文型練習は必要です。
学習者が日本語の基本的な形に慣れるためには、例文を聞き、まねし、入れ替え練習をすることが大切です。

いきなり自由に話してくださいと言われても、学習者は何をどう組み立てればよいのかわかりません。

文型は、学習者が日本語の世界に入るための足場になります。


けれども、日本語教育の目的は、例文をそのまま覚えさせることではありません。

学習者は、教室で聞いた文だけを再生しているのではありません。ある時点から、自分で語を選び、助詞を選び、文末を選び、文と文をつなぎ、自分の経験や気持ちを表そうとします。

たとえば、学習者がこう言ったとします。
「 先生、私は昨日、会社で日本語をたくさん話しました。でも、まだ上手じゃないと思いました。」

この文は、教科書の例文をひとつ暗記しただけでは出てきません。

この発話の中には、いくつもの要素が組み合わさっています。
「先生」という呼びかけがあります。
「私は」という主題があります。
「昨日」という時間表現があります。
「会社で」という場所の表現があります。
「日本語を」という対象があります。
「たくさん」という副詞があります。
「話しました」という過去の丁寧形があります。

さらに、「でも」で文をつなぎ、「まだ上手じゃないと思いました」と、自分の評価や気持ちを表しています。

ここには、単なるまねでは説明しきれないものがあります。

学習者は、自分の中にある日本語の知識を使って、まだ完全ではないかもしれないけれど、自分の言いたいことを新しく組み立てているのです。

このとき、日本語教師が見ているものは、ひとつの完成文だけではありません。

学習者の内側で、語彙、助詞、時制、文末表現、接続、気持ちの表し方が、どのように結びつき始めているかを見ているのです。

チョムスキーが切り開いた生成文法の考え方は、まさにこの「文を作り出す仕組み」に目を向けました。


1956年の論文「Three Models for the Description of Language」では、有限状態モデル、句構造文法、変形文法といった言語記述のモデルが検討され、文を生成する形式的な仕組みが問題にされています。

ここで注意したいのは、「生成文法」の「生成」という言葉です。

これは、いま私たちがよく聞く「生成AI」のように、自由に文章を創作するという意味ではありません。

言語学でいう「生成」とは、限られた規則や要素から、無数の文を作り出せる仕組みを説明しようとする考え方です。

MIT Pressの『Aspects of the Theory of Syntax』の紹介でも、チョムスキーが変形生成文法の理論を再構成し、特に統語論、つまり文の構造に重点を置いたことが説明されています。

日本語教育の現場に戻して考えると、これはとても重要です。

学習者が「私は学校へ行きます」という文型を覚えたとします。

そこから、「私は会社へ行きます」「私は昨日、会社へ行きました」「私は明日、友だちと会社の近くのレストランへ行きます」と広げていく。

さらに、「行きます」だけでなく、「行きたいです」「行かなければなりません」「行ってもいいですか」「行けませんでした」と変化させていく。

ここで起きているのは、例文の暗記だけではありません。

学習者は、「私は」「場所へ」「動詞ます」という形を土台にしながら、時間、相手、目的、気持ち、可能、不可能、許可、義務などを組み合わせています。つまり、文を作る力を少しずつ育てているのです。


もちろん、学習者は途中で間違えます。

友だちを会いました。

第2回でも扱ったこの発話は、チョムスキー的な視点から見ると、また少し違って見えてきます。

この学習者は、ただ適当に助詞を使っているのではないかもしれません。「本を読みます」「ごはんを食べます」「映画を見ます」のように、「名詞+を+動詞」という形を学び、それを自分なりに広げて使っている可能性があります。

つまり、この誤用は、学習者が何も考えずに出した失敗ではありません。学習者の内側にある規則が、まだ日本語の実際の使い方に十分合っていない状態なのです。

この見方は、教師の姿勢を変えます。
「どうしてまた間違えたのか」と見るのではなく、「この学習者は、どんな規則を使おうとしているのか」と見るようになります。

そして、その規則がどこまで有効で、どこから修正が必要なのかを考えるようになります。
「名詞+を+動詞」は、多くの動詞で使えます。
「本を読みます」「水を飲みます」「映画を見ます」は自然です。

しかし、「会う」は通常「人に会う」と言います。
「友だちに会いました」「先生に会いました」「家族に会いました」と結びつきます。

こうして、教師は単に「違います」と言うのではなく、学習者がすでに持っている規則を認めたうえで、「会う」という動詞には別の結びつきがあることを示せます。

これは、文型練習を否定することではありません。むしろ、文型練習を深くすることです。

文型練習は、学習者が文を作るための材料を与えます。しかし、その材料をどう組み合わせ、どの場面でどう使うかは、さらに別の学びです。教師が文型を「暗記する形」としてだけ扱うと、学習者は例文の外に出にくくなります。

けれども、文型を「文を作るための仕組み」として扱えば、学習者は自分のことばを作り始めます。

たとえば、「私は〇〇へ行きます」を教えるとき、ただ「学校」「会社」「スーパー」を入れ替えるだけで終わらせるのではなく、「いつ行きますか」「だれと行きますか」「何をしに行きますか」「行きたいですか」「行かなければなりませんか」と広げていくことができます。

すると、文型は単なる穴埋めではなくなります。
私は明日、友だちとスーパーへ買い物に行きます。

私は来週、市役所へ在留カードの手続きに行かなければなりません。

私は昨日、会社の人と居酒屋へ行きましたが、あまり話せませんでした。

このように、ひとつの文型が、学習者の生活や経験と結びついていきます。

日本語教師が教えているのは、例文そのものではありません。
例文を通して、学習者が自分で文を作るための仕組みを教えているのです。


チョムスキーは、行動主義的な言語観、つまり人間のことばを刺激と反応、模倣と強化だけで説明しようとする考え方に対して強い批判を行いました。

1959年のスキナー『Verbal Behavior』への書評では、言語行動を環境からの刺激と反応だけで説明する試みに対して、詳細な検討を加えています。

日本語教育にそのまま理論を持ち込む必要ないとは思います。チョムスキーの生成文法は、もともと授業方法を作るための理論ではなく、言語の構造や人間の言語能力を説明しようとする理論です。

ですから、「チョムスキーを知れば授業がすぐ上手になる」という話ではありません。

それでも、日本語教師にとって大切な示唆があります。

学習者は、ただ教師の言葉をまねる存在ではない。

学習者は、自分の中でことばの仕組みを作りながら、文を生み出そうとしている。

教師は、その内側の仕組みが育つように、例文、文型、練習、対話、訂正を設計する必要がある。ここが、とても大切です。

「私は〇〇へ行きます」という文型を教えることは、決して小さなことではありません。その文型が、やがて「私は昨日、会社で日本語をたくさん話しました。でも、まだ上手じゃないと思いました」という発話へ広がっていくからです。

ひとつの文型は、ひとつの例文で終わるものではありません。

学習者の中で、別の語彙と結びつき、別の場面と結びつき、別の気持ちと結びついていきます。
教師は、その広がりを見ていく人です。  

第2回で、私たちはブルームフィールドから「発話をまず観察する」ことを学びました。

第3回では、チョムスキーから「その発話の奥に、文を生み出す仕組みがある」と考える視点を学びます。

この二つは、対立するものではありません。

まず、発話を観察する。
そして、その発話の奥で、学習者がどんな規則を使い、どんな文を作ろうとしているのかを考える。

そうすると、誤用も、未完成な文も、短い発話も、ただの失敗には見えなくなります。

それは、学習者の内側で日本語が育っている途中の姿です。


次回、第4回では、この流れをさらに進めて、「知っている日本語」と「使える日本語」はどう違うのかを考えます。

ここで、第1回のソシュールに戻り、ラングとパロールを扱います。そして、チョムスキーの能力と運用という考え方にもふれながら、日本語教育にとっての「知識」と「使用」の違いを整理していきます。

チョムスキーは別の場面で、言語に関して「私たちは何を知っているのか」「それはどのように獲得されるのか」「その知識はどのように使われるのか」という問いを重視していると述べています。

日本語教師が育てているのは、例文を覚える力だけではありません。

学習者が、自分の経験を、自分の考えを、自分の気持ちを、日本語で組み立てていく力です。

ことばを教えるとは、文を覚えさせることではない。ことばを教えるとは、文を生み出す力が育つように支えることです。

学習者が、教科書にない文を自分で作ったとき、あなたはその文をどのように見ますか?

正しいか間違っているかの前に、その文の中で、どんな語彙、助詞、時制、文型、気持ちの表現が組み合わさっているかを観察してみてください。


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