唯一無二を目指しての決断
皆さん、こんにちは。常松広太郎です。
1月15日にシカゴ・カブスとのマイナー契約合意の報を受け、驚きの声、そして温かい言葉をいただきました。
「なぜ、世界最高峰の金融機関であるゴールドマン・サックス(GS)の内定を辞退してまで、保証のないマイナーリーグの世界へ飛び込むのか」
この問いに対する答えは、私自身の22年間の歩みに集約されています。常に支えてくれた両親、優秀且つ刺激的な多くの友人、私を導いてくれた数々の先輩達、これまでの人生はそんな方々の関与あってこその物です。このNoteは様々な人との関わりを細かく映し出し、私自身のこれまでの人生、これからのビジョン、渡米後の現実も含めてより多くの皆様に文字媒体でお届けしようと考えています。
第1回のNoteとしては幼少期からの歩みをざっと紹介し、報道では語りきれなかった葛藤と、私の決断の詳細を、熱量を持ってここに記したいと思います。
第1章:虎になれなかった「広太郎」と、ニューヨークの原体験
私は、2003年10月27日に生まれました。父は大の阪神タイガースファンで、その日はダイエー(現・ソフトバンク)との日本シリーズ第7戦が行われていました。もし阪神が勝ち、日本一に輝いていたら、私の名前は「虎之助」になる予定だったそうです。結局、阪神は敗れ、私は父の名前(広一)から一文字取った「広太郎」としてこの世に生を受けました。
野球を始めたのは小学1年生の時でした。野球一家の中で育ち、自宅のテレビでは常に阪神戦が流れ、鳥谷敬選手や新井貴浩選手のプレーを追いかける毎日の中で、自然と「聖地・甲子園」は私の憧れの場所となりました。
大きな転機が訪れたのは、小学3年生の時です。父の転勤に伴い、アメリカ・ニューヨークでの生活が始まりました。これが、私の「日本人としてのアイデンティティ」を形成する最初の、そして最大の衝撃となりました。
当時のヤンキースタジアムには、イチローさんがいました。異国の地で、自分たちよりも遥かに大きな体躯の選手たちを相手に、技術と精神力で凌駕していくその姿。小学4年生だった私の目に焼き付いたのは、野球の技術以上に「日本人として世界と対峙する誇り」でした。
同時に、現地の学校に通う中で「英語が話せない日本人は、どれだけ能力があっても透明な存在として扱われる」という現実を身に染みて理解しました。より積極的な姿勢で人と接するようになったのもこの時期からだと思います。

「ここで負けたくない」
その一心で英語を学び、野球ではアメリカ人のパワーに負けない打撃を追求し始めました。この3年間のニューヨーク生活があったからこそ、「いつか必ず、この国に戻ってくる」と、野球以外の分野でも何でも良いから、将来的に米国や世界に羽ばたきたいという野望を胸の奥底に抱くようになりました。
第2章:慶應野球部と「下剋上」の二年間
帰国後、慶應湘南藤沢(SFC)の中等部・高等部に進学しました。SFC中高は間違いなく現在の「常松広太郎」の大部分が形成された場所です。多くの帰国生が在籍し、共学でもあり、非常に充実したいわゆる「青春」を6年間満喫することができました。
もちろん私は野球一色の生活を送ることはなく、強豪校に行っていればできなかったであろう、中高生として余裕のあるとにかく楽しい生活をしていました。学校が休みの日には男女問わず皆でディズニーや富士急ハイランドに行って遊んだり、誰かの家に集まってハウスパーティーをすることもありました。学校として先輩との繋がりも強かったため、将来のキャリアを考え、夜な夜な私の実家の庭で友人たちと語り合うようなこともありました。

野球に関して言うならば、高校2年生の夏には強豪とされる日大藤沢高校を相手にホームランを放つなど、チームの中では主軸としての自負はありました。しかし、大学野球の最高峰・東京六大学の世界では、もちろん最初から上手くいくわけもなく、慶應義塾大学野球部に入部してから最初の2年間。私は一度も神宮球場の土を踏むことができませんでした。
日吉の下田グラウンドで、朝から晩まで泥にまみれ、バットを振り続ける日々。周囲には甲子園で名を馳せたエリートたちが私を囲み、2軍、3軍の試合にすら出られない時期もありました。普通なら「野球は趣味にして、慶應という看板を武器に就活へ切り替えよう」と考える人も多いと思います。
「せっかく入れた夢の慶應野球部でどうせなら試合に出たい。」そんな思いで 2年生の冬を迎えました。鹿児島での1軍キャンプのチケットを掴むためのセレクション。そこが私のラストチャンスでした。Aチームに上がるためのそのセレクション、良い打球もこれでもかと言うほど、相手の正面を突いてしまい、全く結果が出ていませんでした。
セレクションも終盤に差し掛かり、最終戦の最終回のツーアウトランナー無しからたまたま私の前にランナーが2人出塁し、打席が回ってきました。絶体絶命の場面で、私は高めのまっすぐを叩いてスリーランHRを放ちました。

あの一振りが、私の野球人生の歯車を動かしたと言っても過言ではないと思います。その春シーズンでスタメンを掴むきっかけにもなりました。
第3章:資本主義の入口
慶應湘南藤沢(SFC)の中等部・高等部時代の多くの友人達は、いわゆる「バイリンガルで情報感度の高い」人達でした。将来は外資系投資銀行、戦略コンサル、総合商社といった、分かりやすく華やかなキャリアを目指すのが「王道」とされる環境でした。野球に打ち込む傍ら、私も例外に漏れず「ビジネスマンとしての挑戦」にも妥協しませんでした。野球部で培った経験と帰国生バックグラウンドを武器に、就職活動では最難関とされる外資系投資銀行・ゴールドマン・サックスのグローバルマーケッツ部門やその他複数の外銀IBDから内定をいただきました。
GSやその他の会社でのインターンや選考プロセスを通じて出会った社員さんたちや就活仲間は、本当に魅力的でした。若いうちから大きな責任を背負い、資本主義の最前線で戦う。そこでの成功は、経済的な自由だけでなく、社会的な地位も約束してくれるものでした。就活に関しては、また別途詳しく記事を書こうと思います。
カブスとの契約を決めた際に、父からは「GSに行けば、いい車に乗って、いい家に住んで、いい生活が待っているぞ」とも冗談風に言われました。それは嘘偽りのない、親としての優しさからの言葉だったでしょう。私自身も、ドラフト会議当日までは「プロに行けなければ、ビジネスの世界で一番高い山に登ろう」と、その覚悟を固めていました。
運命のドラフト会議。私の名前は呼ばれませんでした。

目の前には、世界一の金融機関への片道切符。出れるとも思っていなかった六大学に出場し、夢にまで見た慶應野球部で4番を打った私には未練は1ミリもありませんでした。最後は「華の早慶戦」に出場するという締めくくりを迎える準備はできていました。このタイミングで、私はネクタイを締め、虎ノ門ヒルズステーションタワーでビジネスマンとして生きる決意を固めました。
第4章:シカゴ・カブスからの電撃オファー
事態が急転したのは、ドラフト指名漏れから間もなくのことです。 米国メジャーリーグ、シカゴ・カブスのスカウトから監督に連絡が入りました。
「再面談をしよう」
カブスは私の六大学野球でのパフォーマンスを専用データを用いて追っていて、以前にも堀井監督を含めて面談をしたことが何度かありました。その際、金融に進むつもりであることを伝えていました。そのため、再面談だとしてもオファーがあるとは全く考えていませんでした。
カブスとの面談はすべて英語で行われました。スカウトは言いました。「君はマイナーからのスタートになる。給料も、GSで貰える額には見劣りするかもしれない。それでも、君以外こんな選択肢を持てる奴は周りにいないぞ。」その言葉を聞いた瞬間、私の中でなにかがビビッと動きました。

GSでのキャリアはもちろん刺激的だと思う一方、確かにカブスでのキャリアに比べれば「再現性のある成功」かもしれません。しかし、カブスが提示したのは「再現性のない、轍のない道」です。20代という、人生で最も体力があり、最もリスクを取れる貴重な時間を、私はどちらに投資したいのか。「いい車、いい家」を手に入れることか。それとも、幼い日の自分が見上げたヤンキースタジアムのあの熱狂の中に、今度はプレイヤーとして飛び込むことか。
出した答えは明白でした。私は「唯一無二の存在」でありたい。 資本主義の中心地で日本人として世界に挑むことには、確かに大きな価値があります。
しかし、「今、この瞬間にしかできないことは何か」と自問自答しました。その答えこそが、シカゴ・カブスとの契約でした。 よくメディアでは「GSの内定を蹴ってカブスへ」と表現されますが、決して蹴ったわけではありません。ただ、今このタイミングで掴むべき挑戦が、カブスでの野球だった。それだけのことなのです。
第5章:決断の瞬間——胸中と周りの「背中押し」
心の中ではカブスに行こうと決めていた一方、その場での回答としては、「全員が納得できる形でしか決断はできない。」と担当者の方に伝えました。その後、私はまず父に電話をしました。 「俺、カブスへ行こうかと思っているんだよね」
少しの間を置いて、父は言いました。「……おお、まじか」 それは、驚きと、そして息子が「修羅の道」を選んだことへの、ある種の諦めと尊敬が混じった反応でした。父は最後にこう言ってくれました。「それなら思い切って行ってこい」
チーム内で1番の親友である現慶應野球部主将の今津慶介にもその話をしたところ、家族ぐるみで仲がいいこともあり彼の家族とビデオ通話をしました。旭川市長である彼の親父さん、今津寛介さんから「絶対挑戦しろ。しなかったら縁を切る!」と言われました。
もうそりゃ挑戦するしかありませんよね。笑

堀井慶大監督も非常に面白がっていて、「ツネ、行きなよ。おもしれーじゃん。」と言われました。非常にかわいい監督です。笑
次の日、私はゴールドマン・サックスのオフィスへと足を運びました。内定を辞退するということは、私のために採用枠を空け、時間を割いてくれた企業に対して多大な迷惑をかける行為です。誠意を持って直接、思いを伝えたいと考えました。
驚いたことに、一緒に働くはずだった同部署のGSの社員の方々は、私の決断を心から支持してくださいました。「全力で頑張ってこい」と。その器の大きさに触れ、私は改めて自分が選んだ「GSという選択」が間違っていなかったこと、そして、その素晴らしい組織に認められた人間として、アメリカで恥ずかしいプレーはできないと強く思いました。だからこそ、私は「日本で働くならばこの会社しかない」と思っています。

おわりに:轍なき道を歩む覚悟
マイナーからのスタート。カテゴリすら決まっていない現状。客観的に見れば、メジャーの舞台に立てる確率は極めて低いでしょう。慣れ親しんだ日本食も、東京のような清潔なインフラも、十分な睡眠時間もないかもしれません。パンダエクスプレスを食べながら、バスで10時間移動する日々が待っているかもしれません。その上で、プレー面では厳しい競争環境に晒されます。

それでもその「下積み」こそが今後のアセットになると信じて、日本人としてアメリカで歯を食いしばって行きたいです。
再現性のないこの轍なき道こそが、私にとっては最高のスタートラインだった、といつか言えるような毎日を過ごしたいです。
応援してくださる皆様。 これから私が歩む道は、決して華やかなものばかりではありません。挫折し、泥を啜る姿を見せることもあるでしょう。しかし、その「リアルなマイナーリーガーの人生」をNoteで包み隠さず発信していきたいと考えています。
このスタートとなる第一回目を読んでいただいた皆様には、これからの私のチャレンジを見守ってもらえれば嬉しく思います。2回目以降は渡米後に私が五感で感じたものを「その場」からお伝えできればと思います。
長くに及ぶこの拙い文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 コメント欄で多くのご感想やご要望をお待ちしております。
常松 広太郎
