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吉永小百合様主演映画「キューポラのある街」で描かれた「地上の楽園」の嘘


映画「キューポラのある街」予告編

AI解説:「地上の楽園」の嘘〜帰国事業の真相

資料は、かつて北朝鮮を「地上の楽園」と謳って在日コリアンらの帰還を促した「帰国事業」の虚構と、その裏に隠された歴史的真実を紐解いています。当時、北朝鮮政府は体制の優位性を誇示するために偽りの宣伝を行い、日本政府も国内の社会的・経済的負担を減らすという思惑から、この移住を積極的に後押ししました。しかし、実際に渡航した人々を待ち受けていたのは、過酷な貧困や監視、そして凄惨な人権侵害という過酷な現実でした。近年の訴訟や新たに公開された機密文書は、この悲劇が個人の自発的な意思ではなく、両国の政治的利害によって仕組まれたものであったことを浮き彫りにしています。現在は、この長きにわたる沈黙を破り、真相解明と被害者への賠償を求める動きが加速しています。

北朝鮮の帰国事業において日本政府はどのような役割を果たしたか?

北朝鮮の帰国事業において、日本政府は表面上の人道的な支援という名目の裏で、在日コリアンを日本国内から排除しようとする政治的な思惑を持ってこの事業を後押ししていました。

具体的な役割と背景は以下の通りです。

  • 表向きの後押し: 日本政府は公的には「貧しい人たちが故郷へ帰るのだから、温かく送りだす」という姿勢を示し、事業を推進しました。

  • 在日コリアンの排除: 当時の岸信介内閣の外務大臣が米国大使に説明した資料によると、日本政府は困窮する在日コリアンが日本の「政治的経済的な負担」になっていると考えていました。そのため、この事業を通じて「朝鮮人を国内から排除できる」という見込みを強く支持していました。

  • 利害の一致: 併合政策の結果として日本に留まっていた在日コリアンを排除したいという日本側の思惑と、自国の優越性を宣伝したい北朝鮮側の思惑が一致したことが、多くの人々を帰国船へと向かわせる要因となりました。

このように、日本政府は在日コリアンが抱える生活上の困窮を解消するというよりも、国内の負担を減らすための手段として帰国事業を積極的に利用・支援する役割を果たしていました。

帰国した人たちを現地で待ち受けていた実態は?

北朝鮮に帰国した人々を待ち受けていたのは、「地上の楽園」という事前の宣伝とはかけ離れた、過酷な実態でした。

  • 「地上の楽園」という嘘: 帰国前は、食べ物、家、服、仕事などを自由に選ぶことができ、豊かな生活ができる「地上の楽園」であると説得されていました。しかし、これらはすべてであり、実際には自らの意思で生活を選ぶ自由はありませんでした。

  • 到着時の衝撃: 帰国船が北朝鮮の港に到着した際、現地の人々は「日本で差別され、やせ細った人々が来る」と思っていたのに対し、日本からの帰国者は「まるで天国から降りてくる人たち」のように見えたほど、現地の生活水準は低いものでした。逆に帰国者たちは、現地の北朝鮮の人々がやせ衰えている姿を見て仰天したといいます。

  • 激烈な貧困と監視: 帰国者を待っていたのは、激烈な貧困と絶え間ない監視の目でした。

  • 収容所送り: 場合によっては、「民族反逆者」というレッテルを貼られ、収容所へ送られることもありました。

  • 繰り返される差別: 日本での差別から逃れるために北朝鮮へ渡ったにもかかわらず、渡航先の北朝鮮でもまた別の形での差別を受けるという、悲劇的な状況に置かれました。

このように、多くの在日コリアンとその家族(日本人妻などを含む)が、国の思惑によって作られた「地上の楽園」という物語に翻弄され、現地で苦難の道を歩むこととなりました。

朝鮮総連はこの事業でどのような役割を果たしたか?

帰国事業において、朝鮮総連は北朝鮮政府の意向を日本国内で実行に移す、実務的かつ扇動的な役割を果たしました。

具体的な役割は以下の通りです。

  • 「地上の楽園」キャンペーンの展開: 北朝鮮政府を支持する団体として、「北朝鮮は地上の楽園である」「祖国へ帰ろう」と在日コリアンに強く呼びかけました。食べ物、衣類、住居、仕事などが自由に選べ、豊かな生活が送れるという虚偽の宣伝を行い、多くの人々を帰国へと促しました。

  • 帰国の勧誘と強制: 在日コリアンに対して帰国を促したり、説得したりしただけでなく、場合によっては帰国を強いるような役割も担っていました。

  • 「自発的な運動」の演出: この事業は、1958年に川崎の朝鮮総連から始まった「在日コリアンによる自発的な運動」であると長年されてきました。しかし、旧ソ連の資料から、実際には金日成が「総連が要望し、北朝鮮政府がそれに応える声明を出す」という筋書きを事前に描いていたことが判明しており、朝鮮総連はその計画に沿って運動を主導していました。

このように、朝鮮総連は北朝鮮が韓国に対する優越性を宣伝したいという政治的思惑に基づき、日本国内で帰国者を募り、送り出すための窓口としての役割を徹底して果たしました。

この事業で北朝鮮へ渡った日本人の状況は?

帰国事業によって北朝鮮へ渡った日本人については、以下の状況が記録されています。

  • 人数と立場: 1959年から1984年の間に北朝鮮へ渡った9万3,340人のうち、約6,800人の日本人が含まれていました。その多くは、在日コリアンの家族や配偶者(日本人妻など)としての渡航でした。

  • 虚偽の宣伝: 彼らもまた、北朝鮮は「地上の楽園」であり、食べ物や住居、仕事などを自由に選んで豊かな生活ができるという嘘の宣伝を信じて、あるいは説得されて海を渡りました。

  • 過酷な生活環境: 現地で彼らを待ち受けていたのは、宣伝とはかけ離れた激烈な貧困でした。北朝鮮に到着した際、日本からの帰国者は現地の北朝鮮の人々がやせ衰えている姿を見て仰天したとされています。

  • 監視と弾圧: 帰国後は絶え間ない監視の目にさらされました。場合によっては「民族反逆者」というレッテルを貼られ、収容所へ送られることもありました。

  • 繰り返される差別: 日本での差別から逃れるために渡航したにもかかわらず、北朝鮮でもまた別の形での差別に直面するという、非常に厳しい状況に置かれました。

このように、日本人を含む帰国者たちは、国家間の政治的な思惑や虚偽のプロパガンダによって、自由のない過酷な人生を余儀なくされました。

当時の岸内閣が米国に語った帰国事業の裏の目的とは

当時の岸信介内閣が米国側に語った帰国事業の裏の目的は、在日コリアンを日本国内から排除することでした。

米国側の資料によると、当時の外務大臣は米国大使に対し困窮する在日コリアンが日本の「政治的経済的な負担」になっているという現状を説明していました。そのため、日本政府内ではこの事業を通じて「朝鮮人を国内から排除できる」という見込みが強く支持されており、これが事業を後押しする真の動機となっていました。

公的には「貧しい人たちが故郷へ帰るのだから、温かく送りだす」という人道的な姿勢を装っていましたが、その裏側には、朝鮮併合政策の結果として日本に留まることになった在日コリアンを国内から一掃したいという政治的な思惑が隠されていました。

当時の米国は日本政府の排除計画をどう評価した?

日本政府の「排除計画」に対して当時の米国政府がどのような評価を下したかという直接的な記述はありません。

資料から確認できるのは、以下の事実までです。

  • 日本政府から米国への説明: 当時の岸内閣の外務大臣が米国大使に対し、在日コリアンが日本の「政治的経済的な負担」になっているという現状を説明していたこと。

  • 情報の出所: 日本政府の「在日コリアンを国内から排除できる」という本音が、米国側の資料によって明らかになったということ。

つまり、米国は日本政府の真の動機(国内からの排除)を把握し、記録していたことは確かですが、それに対して米国が賛成したのか、あるいは懸念を示したのかといった「評価」については、今回の範囲内では言及されていません。

もしこの点について、当時の国際情勢や米国の公式な立場など、資料外の情報を含めた一般的な歴史的背景を知りたい場合は、別途資料の探索が必要です。

金日成がソ連に伝えていた帰国事業の「筋書き」の内容は

金日成が旧ソ連に伝えていた「筋書き」の内容は、「まず朝鮮総連が帰国の要望を出し、それに対して北朝鮮政府(共和国)が歓迎の声明を出す」というプランでした。

この「筋書き」について、以下の事実が判明しています。

  • 事前の計画: このプランは、実際に川崎の朝鮮総連から要望が上がる1カ月前に、金日成からソ連側へ伝えられていました。

  • 「自発的運動」の演出: 帰国事業は長年、1958年に川崎の総連から始まった「在日コリアンによる自発的な運動」であるとされてきましたが、実際には北朝鮮側が主導して作り上げた筋書き通りに動いていたことが、旧ソ連の資料によって裏付けられました。

このように、北朝鮮政府は帰国事業が在日コリアン自身の意志による運動であるかのように装うための、綿密な計画を立てていたことが示されています。

川崎の朝鮮総連から始まった運動はどのように演出されたか?

1958年に川崎の朝鮮総連から始まった帰国運動は、長らく「在日コリアンによる自発的な運動」であるとされてきましたが、実際には北朝鮮側によって周到に仕組まれた「筋書き」通りの演出であったことが判明しています。

具体的な演出の手法は以下の通りです。

  • あらかじめ決められた「筋書き」: 川崎の朝鮮総連から実際に要望が上がる1カ月も前に、金日成はソ連に対し、「総連が要望を出し、それに続いて共和国(北朝鮮)が歓迎の声明を出す」という具体的なプランを伝えていました。

  • 自発性の偽装: この計画に沿って、まず朝鮮総連が「祖国へ帰ろう」という声を上げ、それに応える形で北朝鮮政府が歓迎を表明するという形をとることで、あたかも在日コリアンの切実な願いに北朝鮮政府が応じたかのような物語を作り上げました。

  • 「地上の楽園」キャンペーンとの連動: 同時に、朝鮮総連は「北朝鮮は地上の楽園である」という虚偽の宣伝を日本国内で展開し、人々の帰国意欲を煽る役割を担いました。

このように、川崎から始まった運動は、北朝鮮が韓国に対する優越性を誇示したいという政治的な思惑に基づき、「民意による自発的な盛り上がり」を装って演出されたものでした。

金日成はなぜこの筋書きを描いたのか

金日成が「朝鮮総連が帰国を要望し、それに対して北朝鮮政府が歓迎の声明を出す」という筋書きを描いた最大の理由は、韓国(大韓民国)に対する北朝鮮(共和国)の優越性を世界に宣伝するためでした。

この戦略的な筋書きには、以下の狙いがあったと考えられます。

  • 「自発的な運動」の演出: 帰国事業が北朝鮮政府による強制ではなく、在日コリアン自らが望んだ「自発的な運動」であるという形をとることで、北朝鮮の体制が人々から支持されていることを示そうとしました。

  • 体制の優位性の誇示: 当時、日本に残っていた在日コリアンの9割以上は朝鮮半島南部の出身でした。彼らが、あえて出身地ではない北朝鮮へ行くことを望むという構図を作ることで、「南(韓国)よりも北(北朝鮮)の方が優れた社会である」という強力なプロパガンダ(宣伝)として利用しようとしたのです。

  • 「地上の楽園」という物語の補強: 食べ物や仕事が自由に選べる豊かな「地上の楽園」であるという虚偽の物語を広める中で、人々がその楽園を求めて自ら帰ってくるという演出は、物語の信憑性を高める装置として機能しました。

このように、金日成にとってこの筋書きは、単に人を集めるための手段ではなく、北朝鮮の体制の正当性と優越性を内外にアピールするための高度な政治工作の一環でした。

当時の在日コリアンの法的地位はどう変化した?

当時の在日コリアンの法的地位は、戦前・戦中から戦後にかけて以下のように大きく変化しました。

  • 戦前・戦中の地位: 在日コリアンはかつて「日本人」という立場にありました。日本人として生まれた人や、朝鮮半島が日本の支配下に置かれたことで、人生の途中で日本人になった人々です。

  • 戦後の変化: しかし戦後になると、彼らの日本国籍は剥奪されました。

  • 剥奪後の状況: 日本国籍を失った後、約60万人の在日コリアンが日本に残りました。彼らの多くは日本での差別に苦しみ、「朝鮮人と言ったらみんな嫌いやから」と当時を振り返る証言もあります。

  • 日本政府の認識: 国籍を剥奪し、植民地政策の結果として日本に留まることになった在日コリアンに対し、当時の日本政府(岸信介内閣)は、彼らが日本の「政治的経済的な負担」になっていると考えていました。この認識が、彼らを「国内から排除」しようとする帰国事業の後押しへとつながっていきました。

このように、在日コリアンは時代の変遷とともに「日本人」としての地位を失い、戦後は日本政府によって「排除」の対象とされるほど不安定な法的・社会的立場に置かれていました。

在日コリアンの日本国籍が剥奪された経緯は?

在日コリアンの日本国籍が剥奪された経緯について、出典には以下の通り記されています。

  • 戦前・戦中の状況: 在日コリアンはもともと「日本人」という立場にありました。これには、日本人として生まれた人だけでなく、朝鮮半島が日本の支配下に置かれたこと(朝鮮併合政策)によって日本人になった人々も含まれます。

  • 戦後の剥奪: しかし、第二次世界大戦が終わった後、彼らの日本国籍は剥奪されました

  • 剥奪後の背景: 国籍を剥奪された後、約60万人の在日コリアンが日本に残ることになりましたが、彼らは日本国内で強い差別にさらされました。また、当時の日本政府(岸信介内閣)は、国籍を失い困窮する彼らを日本の「政治的経済的な負担」と見なし、帰国事業を利用して「国内から排除」しようとする動きを強めることとなりました。

なお、出典資料には、どのような法的根拠や具体的な手続き(法律の発効など)によって国籍剥奪が行われたのかという詳細なプロセスについては記載されていません。

(出典外の情報:歴史的には、1952年のサンフランシスコ平和条約の発効に合わせ、法務府(当時)の通達によって在日コリアンの日本国籍が喪失したとされています。この情報は出典には含まれていないため、正確な詳細については別途歴史資料などで確認することをお勧めします。)

なぜ日本国籍が剥奪されたのか知りたい

資料によると、在日コリアンの日本国籍が剥奪された経緯やその背景にある日本政府の思惑について、以下の通り記されています。

  • 戦前・戦中の背景: 在日コリアンは、日本人として生まれた人や、併合政策によって朝鮮半島が日本の支配下に置かれたことで日本人になった人を含め、戦前・戦中は「日本人」という立場にありました。

  • 戦後の国籍剥奪: しかし、第二次世界大戦が終わった後(戦後)、彼らの日本国籍は剥奪されました。

  • 日本政府の「排除」の論理: 日本政府(当時の岸信介内閣)が国籍を剥奪し、その後の帰国事業を後押しした裏には、在日コリアンを「政治的経済的な負担」と見なす考えがありました。

  • 「国内からの排除」: 米国の資料によると、日本政府は困窮する在日コリアンを日本の負担と考え、帰国事業を通じて「朝鮮人を国内から排除できる」という見込みを強く支持していました。つまり、日本側には「植民地政策の結果である在日コリアンを排除したい」という明確な思惑があったことが示されています。

以上の通り、ソース資料では、具体的な法律名などの法的プロセスについては触れられていませんが、日本政府が彼らを「国内の負担」として排除しようとした政治的な背景が、国籍剥奪とその後の帰国事業へと繋がった理由として描かれています。

この国籍剥奪の具体的な法的根拠(1952年のサンフランシスコ平和条約発効時の通達など)について、ソース以外の一般的な歴史情報が必要です。

帰国者が起こした裁判の目的や内容

帰国事業によって北朝鮮へ渡り、その後に脱北して日本へ戻った在日コリアンら5人が起こした裁判の目的や内容は、以下の通りです。

裁判の目的

この裁判の大きな目的は、以下の2点に集約されます。

  • 損害賠償の請求: 北朝鮮政府を被告とし、虚偽の宣伝によって帰国させられ、過酷な生活を強いられたことに対する損害賠償を求めています。

  • 帰国事業の真相解明: 実態に不明な点が多い「帰国事業」を告発し、その真相を明らかにすることも裁判の重要な狙いの一つです。

裁判の内容

裁判で訴えられている主な内容は、当時の北朝鮮政府による「嘘」と、それによって引き起こされた悲劇についてです。

  • 虚偽宣伝への訴え: 「北朝鮮は地上の楽園であり、食べ物、家、服、仕事などを自由に選んで豊かな生活ができる」という60年前の嘘に基づいて、帰国を促されたり、説得・強制されたりした事実を訴えています。

  • 過酷な実態の告発: 「地上の楽園」という言葉とは裏腹に、現地で待ち受けていたのは激烈な貧困、監視、そして「民族反逆者」としての収容所送りといった凄惨な現実であったことが背景にあります。

  • 原告: 在日コリアンら5人が、日本の裁判所へ提訴しました。

この裁判は、単なる金銭的な賠償を求めるだけでなく、国家の思惑によって多くの人々の人生が翻弄された帰国事業そのものを問い直すという意味合いを持っています。

裁判の結果や北朝鮮政府の反応

出典(2019年6月時点の記事)に基づくと、裁判の結果や北朝鮮政府の具体的な反応については以下の通りです。

  • 裁判の状況(出典の記述時点): この裁判は、2018年の夏に在日コリアンら5人が日本の裁判所に提訴したもので、出典である2019年6月の記事の段階では、「真相の解明は始まったばかり」であるとされています。

  • 裁判の結果: したがって、出典には裁判の判決内容や最終的な結果についての記載はありません

  • 北朝鮮政府の反応: 訴訟に対する北朝鮮政府の具体的な反応についても、出典の中には記されていません

出典の範囲外の情報となりますが、この「北朝鮮帰国事業訴訟」については、その後の日本での裁判経過や、北朝鮮側が主権免除などを理由に裁判を無視あるいは批判したといった内容が報じられている場合があります。最新の正確な状況を確認するためには、別途報道資料などを参照されることが必要です。

映画「キューポラのある街」企画・脚本〜Wikiより

1961年(昭和36年)4月、単行本化されたばかりの『キューポラのある街』を浦山桐郎は見つける。会社は吉永小百合を主役に使うならという条件で、浦山の初監督作品として撮影を許可した。浦山は「ある日、暇つぶしで入った本屋で、児童図書の棚の地味な一冊の本が目についた。拾い読みしているうちに、体中にビリビリッと電気が走ったんです。すぐに本を買い、家へ戻り夢中で読みました。それが『キューポラのある街』でした。日活のプロデューサーに、原作者の早船ちよをおさえてもらい、プロットを書き始めました。いろいろな障害はありましたが、会社側の承諾を得てシナリオを作り、昭和36年の暮れに監督第一作の撮影に入ったんです。当時の監督のギャラは一本30万円でした」などと述べている[8]。同年夏、浦山は今村昌平とシナリオを完成させた。共同脚本の今村は晩年、本作について、「当時は食えなかったんで(略)“北朝鮮は天国のような大変良いところだ”とデタラメを書いてた」と述懐している[9]。

作品の評価

第36回キネマ旬報ベスト・テン2位に選出され、『映画評論』の同年度の日本映画ベストテンで1位に選出された。第13回ブルーリボン賞で作品賞を受賞[2]。浦山が新人賞を、吉永が主演女優賞を受賞。浦山は第3回日本映画監督協会新人賞も受賞した[2]。

同年5月の第15回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品された[1]。アンセルモ・ドゥアルテの『サンタ・バルバラの誓い』がパルム・ドールを獲得したが、審査委員の一人だったフランソワ・トリュフォーは、1963年4月に第3回フランス映画祭参加のため来日した際のインタビューで「私は文句なく『キューポラのある街』を推した。だが映画祭に集まる人たちは、最も俗な観客でもあるのです。彼等は文字通りお祭り騒ぎに浮かれていて、こうした多様な主題をもつ作品の価値を認めることを怠っていたのです」と述べている[13]。

「ヨシエちゃん、お父さんの国に帰れて良かったね。」                            

在日朝鮮人の帰還事業を肯定的に描いた続編『未成年 続・キューポラのある街』においても、日本に残った日本人妻を主人公が説得して北朝鮮に渡らせるという原作にないストーリーが加えられている[要出典])として批判されることがある。これに対し、全国日刊紙などが率先して帰還事業を歓迎した製作当時の日本の社会情勢を考慮すれば、この描写はやむを得ないとして弁護する意見もある。

撮影当時、川口市役所の職員としてロケ地を紹介した永瀬洋治元川口市長は「ラストに北朝鮮の労働者がみんな万歳三唱されて帰っていくが、日本は当時は貧しく、当時の北朝鮮にはユートピアがあると信じてみんな帰って行ったという描写は、改めて映画を観ると感慨深いものがある」などと評している[10]。

『キネマ旬報』は、2005年2月上旬下旬号で行った吉永小百合特集で、本作を「吉永小百合の代表作のみならず日本映画史に残る1本。鋳物工場が集まる川口で、貧しくも明るく前向きに生きるヒロイン・ジュンは、時代を超えて観客を魅了しつづける」などと[6]、西脇英夫は「吉永小百合すべての出演映画の中で、作品的にも演技的にも『キューポラのある街』を超える映画はないと断言する。厳しい時代状況と社会環境をしっかりと踏まえた脚本、演出の見事さは勿論だが、けなげに逞しく生きていく一少女の姿を、吉永は全身全霊で表現していた。完璧主義の浦山桐郎に徹底的にしごかれたからだろう。まるでこの一本ですべてを出し切ってしまったかのように、以後、これを超える作品はない(中略)若き時代の吉永はとてつもなく可愛らしく、キラキラと輝いていた。しかし後年になるにつれ演技は次第にパターン化し、とりすました表情には親しみが感じられず、やがてそれが彼女のトレードマークになってしまった」などと[6]、品田雄吉は「吉永小百合のベスト作品は何か、といろいろ考えたが、結局、落ち着く先は『キューポラのある街』になってしまった。私にとっての吉永小百合は『キューポラのある街』の、快活で聡明でしっかりした少女に勝るものはない、というのが偽らざる実感なのである」などと評している[6]。

テレビ放送

1985年10月20日に浦山桐郎監督が死去、そのためTBS系列の『月曜ロードショー』で「浦山桐郎監督を偲ぶ感動の名作」と銘打ち、追悼企画として本作を放送されたが、「朝鮮人」「組合」「アカ」「ニコヨン」「ダボハゼ」といった表現のある箇所の音声と映像が約30か所にわたってカットされた。

「ダボハゼの子はダボハゼだ!!」

関係者の話によると、TBSは完全版を放送する予定であったが、差別用語に敏感な大阪(毎日放送)と福岡(RKB毎日)の系列局から、問題個所をカットしない限りネットは受けられない、と強く主張されたために折れたもので、共同脚本の今村昌平も、せっぱつまった事情から不本意ながらカットする事を了承したという[16]。

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