見出し画像

掌編|本番三分前

本番三分前に、主演女優が消えた。代役として、私が舞台に立つことを迫られる。選ばれたのは、才能があったからではない。端役は、代わりになるためにいる。

演出が、いけるか、と訊く。正気の沙汰とは思えない。劇団員たちが私のほんの些細な表情も見逃さないよう、距離を詰める。無理と叫べば、通るのか。

幕の向こうから、ざわざわと音が漏れてくる。満席ではないが、空席が目立つほどでもない。上出来の入りだった。椅子を引く音、咳払い、公演チラシの擦れる音が、薄い布一枚を隔てて押し寄せてくる。

劇団員たちが息を殺している。誰も声を出さない。視線だけが私を押さえつける。この公演に賭けていたのは、皆同じだった。動員も、資金も、存続も、今夜に懸かっている。幕が上がれば、誰が立っていようと関係ない。
台本は頭に入っている。だが、それは自分の役ではなかった。私と彼女では役の重さが違った。稽古場でもそれは変わらなかった。

稽古場で一度だけ、彼女が演出を止めたことがあった。床のテープを、ほんの少し貼り直した。そこは台詞を言い切る位置だった。一歩違うだけで、相手役との間も、客席へ向く顔の角度も変わる。演出は無言でそれを見て、頷いた。誰も異を唱えなかった。

その日から、彼女は毎回その位置に立った。稽古が終わると、彼女は一人で残り、床のテープを踏み直していた。剥がれかけた端を、爪で押さえながら。

ベルが一度、短く鳴った。客席のざわめきが、潮が引くように静まっていく。演出がもう一度、私を見る。問いではなく確認だ。

私は小さく頷いた。引き受ける覚悟か、断ることを諦めた絶望か、自分でも曖昧だ。

幕が上がる直前まで、舞台袖でスマホを強く握りしめていた。震えが止まらず、指先は冷たい。画面を開く。

「ごめん、逃げる」と主演女優の名前。

その文面を見ても、もう驚きはしなかった。驚かなかった自分に、少しだけ驚いた。送信したメッセージが、既読にならないまま、居座っている。彼女が逃げた理由を、私は知っていた。主演であることは、期待ではなく、期限つきの猶予だった。

逃げたのは、弱さではない。限界だった。理解してしまった瞬間、彼女を責める資格を失った。同時に、代わりに立つ理由も失った。

幕が上がる。理解したかどうかなど、舞台には関係ない。スマホの電源を切り、袖に置く。逃げた人間と逃げられなかった人間が、今夜ここで役を分けた。照明が入る。足元に舞台の明かりが落ちてきた。

最初の台詞は、思っていたよりも声が出なかった。客席の誰かが、小さく咳をした。その音だけが本物だった。言葉を一つ落としても、舞台は止まらない。次の台詞が来るまでの数秒が、ひどく長い。袖へ逃げ込める場面は、ほとんどない。

白いテープを踏むたび、彼女が何度も踏み直していた理由を身体で理解する。ほんの数センチの違いで、相手役の呼吸まで変わる。私は彼女の立ち位置を借りる。

相手役と視線が絡む。その目はもう主演女優を探していない。私を見て、次の台詞を渡す。舞台の上では、誰も迷わない。迷えば芝居が止まることを、全員が知っている。気づけば、次の立ち位置へ足が向いていた。身体が先に動く。考えるより先に、身体だけが彼女を続ける。場面が進むにつれて、台本は頭から消え、覚えてきた順序だけが残った。

舞台はまずまずの出来だった。無難に終えた舞台ほど、失敗した人間が見えなくなる。客席の笑いが、沈黙が、拍手が、私たちを包んだ。だが、私は役を満足に演じられなかった。崩れないよう、空いた場所を埋めるだけで精一杯だった。

カーテンコールで拍手を浴びるころには、観客の熱はもう私を通り過ぎていた。幕の前に立っているのに、舞台の外へ押し出されているようだった。
終演後、楽屋へ戻ると、主演女優がいた。壁際に立ち、深く頭を下げている。

「何やってたんだ」誰かが怒鳴った。

「身勝手な」別の誰かも続く。

「代わりがいたからよかったものを」

そこで彼女が泣き崩れた。張りつめていたものが切れたように、肩を震わせて泣いた。

怒鳴っていた劇団員らが黙る。

「無事でよかった」誰かがそう言った。私もそう思った。だから、その場で何も失えなくなった。その一言で、楽屋の空気が変わった。怒りは心配に名前を変え、責める言葉は居場所を失った。

誰かが背中をさすり、誰かが水を渡す。演出までが、「今日はもう帰れ」と静かな声で言った。

私はその輪の外に立っていた。そこで初めて気づく。今夜、一番心配されなかったのは、舞台に立った私だった。

けれど、不思議と腹は立たなかった。彼女が戻ってきて、よかったと思ってしまった。そう思った瞬間、私もまた、この劇団の一人に戻っていた。

「ありがとう。助かった」彼女は私を見ないまま言った。

その言葉だけが、今日初めて私の名前を持っていた。私は、うん、とだけ答えた。その返事が誰に向いたものだったのか、自分でも分からなかった。

劇団員たちが帰り支度を始める。誰も悪くなかった。誰も嘘をついていなかった。だからこそ、誰も私を見なかった。

一人、受付へ向かった。芝居小屋の公演チラシが、壁に貼られている。主演女優の名前。その文字を指でなぞる。そこへ演出がやって来る。私は少しだけ顔を上げた。

「明日は通常稽古な」それだけ言って通り過ぎた。

私はその背中を見送った。あの人が、一度も私の名前を呼ばなかったことに、そのとき初めて気づいた。礼も、労いもなかった。ミスを責められもしなかった。代役は、終われば端役に戻る。今日だけ存在して、明日には必要がなくなる。

もう一度、主演女優の名前をなぞった。舞台床には、まだ熱が残っている。私が立っていた場所にも。けれど、その熱はもう誰のものでもない。
照明は人を照らさない。名前も照らさない。立ち位置だけを照らす。そこに、誰かが立ってさえいればよかったのだ。

私は今日、彼女の代わりを演じた。そして明日には、何事もなかったように、また私の場所へ戻る。
最初からいなかったことになる。

(了)


@2026-1-Aug 國仲寛治 All Rights Reserved. 本作品の著作権は著者に帰属します。



いいなと思ったら応援しよう!