掌編|晴れが続く町
今日も雨が降ったので、妻はもう一度死んだ。雨の日だけ、過去が戻ってくる。だから別れは、晴れの日より雨の日のほうがつらい。
この町では、記憶は雨が預かっている。天気予報は、降水確率ではなく、記憶の生存率だ。
毎朝、テレビの前で傘ではなく妻の名前を用意する。六十パーセントの日は、食卓を二人分並べたことまで戻る。七十パーセントまで上がると、味噌汁が少し薄い、と妻が笑う。
雨が上がるたび、妻は過去へ帰っていく。私はその背中を何度も見送った。引き留める方法はない。だから雨から返してもらったものを、私たちは静かにしまう。町の人は、雨上がりに泣かない。涙まで、過去に持っていかれるからだ。
週間予報には、雲ひとつない青空が並んでいた。
翌朝も、雲ひとつなかった。会社を休み、駅へ向かった。町から二駅先の山あいでは、午後だけ俄雨が降る。そんな噂を、天気予報より信じる人がいる。ホームには同じ方角へ向かう人が何人もいる。皆、誰かの名前を胸にしまっている。若い男は花束を抱え、老婦人は風呂敷の包みを膝に載せ、小さな女の子は赤い長靴を履いていた。互いに何も話さない。この町では、雨宿りは一人でするものではないからだ。発車を告げるベルが鳴る直前、赤い長靴の女の子が突然ホームの端へ駆け出した。
「お母さん、降ってきたよ」
空は青かった。女の子は両手を広げ、何もない空を見上げて笑っている。若い男が静かに駆け寄り、その小さな肩を抱いた。
「今日はまだだよ」
女の子は不思議そうに手のひらを見つめる。そこには何も落ちていない。電車が滑り込み、誰もその親子を見なかったことにした。
山へ着いても空は晴れたままだった。それでも人は帰らない。誰もが空だけを見ていた。やがて一粒、手の甲へ落ちる。反射的に妻の名を呼ぶ。しかし、それは鳥が枝を揺らした雫だった。呼びかけた名前だけが、濡れないまま喉に貼りつく。名前だけが空へ届かなった。帰りの電車で、窓に映る自分へ問いかける。
「何を忘れたなくないのだろう」
返事は聞こえなかった。スマホが震える。気象庁から通知が届く。
《予報を修正します》
続きを読む。
《降雨の見込みはありません》
雨が降らない日が十五日続くと、人は自分から忘れていくらしい。町ではそんな噂で溢れた。十六日目の朝、私はいつものように妻の名前を書こうとして、ペンを止めた。最初の一画が思い出せない。ひらがななら書ける。声に出して呼ぶこともできる。なのに、何度書き直しても妻の漢字が他人のように感じる。
私は机を離れ、押し入れの奥からアルバムを引っぱり出す。雨の日だけ開くアルバム。最初の頁には、笑っている女がいた。私は写真を見つめる。笑顔だけは、知らない人のものになっても愛おしかった。もうそれが誰なのか分からない。息を吸うたび、胸の奥で誰かの椅子が軋む。名前も、声も、好きだった仕草も思い出せないのに、その人を失いたくないという痛みだけが残っている。私は震える指で写真を裏返す。そこには見慣れた丸い字が並んでいた。
『忘れてもいいよ』
思わず首を振る。言葉にならなかった。その字をなぞる指先だけが、妻を知っていた。
ああ、と私は息を呑む。雨が返してくれていたのは妻ではない。妻を失った日の私だった。アルバムを閉じる。傘を持たずに家を飛び出す。
駅へ向かうと、あの日と同じホームで人々が空を見上げていた。花束の青年も、風呂敷を抱えた老婦人も、赤い長靴の女の子もいる。
「帰ろう」私は女の子の前にしゃがみ込み言った。
女の子は少しだけ寂しそうに笑って、それでも空を見上げた。その視線の先には雲ひとつない青空が広がっていた。誰も空を見上げていなかった。
その日も雨は降らなかった。私は台所へ立ち、食器棚から珈琲カップを二つ取り出す。いつもの癖だった。しばらく見つめてから、一つだけを棚へ戻した。不思議と寂しくはなかった。寂しさまで過去になったのかもしれない。
窓を開ける。乾いた風が部屋を通り抜ける。雨の匂いはしない。それでも私は妻の名前を書こうとは思わなかった。代わりに、何も書いていない便箋を机へ置く。白い紙は、誰も失っていない朝のようだった。
翌朝、駅へ向かう途中、あの赤い長靴の女の子とすれ違った。長靴はもう履いていない。小さな手には折り畳み傘だけが握られていた。女の子は私を見ると、「今日は晴れだね」と笑った。私も笑い返した。どこか懐かしい笑い声だったが、確かめるすべはない。
私は初めて、傘を開かずに家へ帰る。玄関の前で足を止める。妻の顔は思い出せない。声も、名前の漢字も、もう戻らない。それでも、靴を脱ぐときに揃える向きだけは、なぜか昔から変わっていなかった。誰に教わったのかは思い出せない。それでも自然に手が動く。その仕草だけが、静かに今日まで生き残っている。
遠くで雷が鳴る。雨はまだ降らない。やがて雨は、何も返してくれなくなった。
(了)
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