悩みは、かき混ぜるほど仕事が増える
人生でいちばん濁っているのは、川の水ではない。
午前一時に悩み始めた人間の検索履歴である。
「仕事 辞めるべき」 「返信 遅い 嫌われた」 「人生 正解」 「さっきの言い方 失礼だったか」
調べるたびに答えへ近づいているつもりなのに、気づけば最初より不安が増えている。悩みを解決しようとしていたはずが、悩みの子会社を三社くらい設立しているのである。
ブルガリアの山奥を旅していたとき、僕もそんな状態だった。
頭の中には、これからの旅のこと、仕事のこと、人間関係のことが浮かんでは消え、消えては別名義で再登場していた。脳内会議は二十四時間営業。しかも参加者は全員僕なので、誰も議事録を取らない。
山奥の小さな教会の近くを歩いていると、川辺に一人の修道士がいた。
彼は両手で水をすくい、じっと見つめていた。朝の静かな川、修道士、差し込む光。どこを切り取っても絵になる。
僕は思わず声をかけた。
「きれいな水ですね」
すると修道士は首を横に振った。
「いや、濁っている」
いや、そこは雰囲気で「そうだね」と言ってくれてもいい。
こちらは今、旅番組の美しい場面を作ろうとしているのに、急に水質検査が始まった。
よく見ると、水には細かな泥が混じっていた。修道士はそれを眺めながら言った。
「悩みは、この濁った水と同じだ。焦ってかき混ぜるほど濁る。置いておけば、勝手に澄んでいく」
その言葉が、妙に胸に残った。
僕たちは悩むと、すぐに何かをしようとする。
誰かに相談し、検索し、メモを書き、長文のメッセージを作る。そして送信直前になって、「この文章、重くないかな」と、今度は『長文を送るべきか問題』で悩み始める。
悩みを解決するための行動が、新しい悩みを製造している。
僕は修道士に聞いた。
「じゃあ、放っておけばいいんですか?」
すると彼は笑った。
「違う。待つんだ」
この二つは、似ているようで全然違う。
放っておくのは、見ないふりをすることだ。
待つというのは、そこにあると知りながら、むやみに手を突っ込まないことである。
僕はそれまで、すぐに答えを出すことが誠実だと思っていた。早く返信する。早く決断する。早く立ち直る。「まだ決められない自分」は、弱くて遅れている気がしていた。
けれど、心には心の沈殿速度がある。
泥が底へ落ちる前に何度も揺らせば、水はいつまでも濁ったままだ。人間も同じで、「早く元気になれ」「もう忘れろ」「結論を出せ」と自分を急かすほど、本当は何に傷つき、何を望んでいるのかが見えなくなる。
待つことは、何もしないことではない。
自分の中で起きている変化を、邪魔せず見守ることなのだ。
それ以来、僕は夜に大きな決断をしそうになったら、一度だけ止まるようにしている。
答えを書くのではなく、悩みを紙に一行だけ書く。
メッセージを作っても、すぐには送らない。
温かいものを飲んで、少し歩いて、眠る。
翌朝になっても同じ言葉を送りたいなら、そのとき送ればいい。朝になると、昨夜あれほど重大だった問題が、「なんでこれに遺言みたいな文章を書いていたんだろう」と思えることもある。
日本で暮らしていると、「即レス」「即決」「即行動」が立派に見える。
もちろん、急いだほうがいいこともある。火事と締め切りと、閉店五分前のスーパーである。
でも、心の問題まで全部急ぐ必要はない。
今日、答えの出ないことがあるなら、無理に結論を出さず、「これは明日の自分に預ける」と決めてみてほしい。それは逃げではない。心の水を、机の上に静かに置く作業である。
修道士と別れたあと、僕はもう一度川を覗いた。
確かに、さっきより水が澄んで見えた。
「なるほど。待つって、こういうことか」
少し悟ったような顔で川を渡ろうとした、その瞬間。
足を滑らせ、僕は見事に川へ落ちた。
全身びしょ濡れで立ち上がる僕に、遠くの修道士が笑いながら言った。
「焦らず待てば、服も乾く」
悩みは澄んだ。
僕だけが、濁った。

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