何に命を使うのか
自分の存在意義をふと考えた時に、毎回頭に浮かぶのは「人生の使命は何か」である。
「使命」とは、「命を使う」ということ。
若干スピってる自信はある。でも大事なことだと思うのでそのまま続けさせてほしい。
つまり自分の人生の中で、自分の命をどう使うのか?何を目的に人生を果たすのか?を考えることが、自分の存在意義だと思っている。
私はなぜ生きたいのだろう、何のために生きることを選択しているのだろう、と人生の中で何回もこの疑問に出会う。現在進行形で。
私は過去に自分のために「生きた」試しがない。

母子家庭だった私は、家族5人を一人で支える母を物心ついたときから尊敬している。
後に母から聞いた話だが、母が離婚した理由は父の借金が膨れ上がったことで生活が回らなかったから。「(父のことを)嫌いではないけど、子どものために別れた。」と話していた。高校生の時にたまたま探し物をしていたら、母が当時破産しているという書類を見つけてしまってとても辛くなった。このことは母に直接聞く勇気がなく今も隠している。
このように、一生懸命私たちのために働いてくれた母を私は今でも尊敬し、子ども優先に自分の人生を決断できる大人に憧れた。
そんな環境下で育った私は、必然的に母へ恩返しをするべく自分の人生を捧げた。

学生時代は勉強に必死になり、学年上位を獲得し続ける努力をした。母が大学や海外に行くことを憧れていたので、国立大学にも進学した。大学生の間、短期間の海外留学にも行くことができた。運動はだめだったけど、芸術においてはセンスが意外にもあったので(自負する)、美術や書道でもたくさん賞状を獲得した。
得意なことは努力をすれば上を目指せたので、その過程を母は喜んでくれた。
もちろん挫折しそうな時も何回もあったが、ただ一つ、母のために!と考えることで「自分の人生(存在意義)」を保つことが出来た。
このように、10代の私の「人生の使命」は、
「母のためにできることをやり尽くす」であった。
しかし社会人になり、その糸はぷつんと切れた。
なぜなら、相手のために全身全霊かけて生きてきたけど、「自分のこと」は置き去りにしすぎていたと振り返ったから。
つまり、大事な青春時代を孤立して生きてきたということ。
学生時代は勉強に明け暮れ、高校1年生で出来た親友と呼べるような友達も、高校2年生の進路別によるクラス替え後あっけなく疎遠になった。それを寂しいとは思わず、勉強で頭が一杯だった。
他にも今の自分に必要なことだけ、利益となることだけ選び進んだ。気づけば要らないものは切り捨ててきた。
まるで芸の道を極めるべく他者を疎外し孤高に生きる「国宝」の主人公のような。
少し脱線するが、国宝のラストを観た時、自分の人生と重なってすごく泣けた。
本題に戻ります。
その時、振り返った。
私は何のために生きたいんだろう。もう母のためにやれることはやり切れたような気がしていた。
立ち止まり考える。
そして次に見つけた「生きる使命」は、
「温かい死を迎えるには」。
まだ20代だけど、ここ最近家族や親族の死に遭遇してきたこと、母も老いてきていることを踏まえて、「生きること」を考える時に「死ぬこと」も同時に考えるようになった。それは母が死ぬこともだし、自分が死ぬことについても思うようになった。
母が死んだら私は何にすがって生きていけば良いのだろう。自分が死ぬ時、誰か悲しんでくれる人はその時いるのだろうか。このままだと自分の存在意義が示せない。これからの自分の人生の使命は、一体何のためにあればよいのか。
「人生の使命」を考え直すターンに入った。

生きることはどういうことかを深く追求したジブリ作品、「君たちはどう生きるか」。
私はこの作品が大好きだ。
"母を亡くした少年が、新しい母のもとに生まれる新しい生命に戸惑い・葛藤をしながらも、全てを受け入れ強く生きることを別世界で学んでいくストーリー。"
言葉にうまく表現できないが、体が素直に死を受け入れ新しい生を受け入れるためには、根本的な自分の人生の考え方を再構築させなければならない。
いつかは、母のために生きるということができなくなる日が訪れる。
私は母が老い死にゆくという確実な運命を受け入れ、自分を見つめ直し、母のいない世界で生きるためには新しい生を生み出していく必要があると思った。
20代も後半。
あっという間に歳をとるはず。
その中でまた何度も「自分の使命って何だろう」と立ち止まることがあると思う。
その時はこれからの自分と、新しく受け入れた生を優先して使命を考えていくだろう。
みんなの「人生の使命」って何だろうか。
