見出し画像

明日もきみを選ぶ-REV.02「鏡の向こうの男」

-REV.02「鏡の向こうの男」


-REV.01 「まだ名前のない入口」


PERSPECTIVE / HARUTO KUGA


「あの、無理をさせてしまったようで、すみません」

「いえ。少し急ぎますが、雑にはしないんで」

言い方には、少しだけ棘があった。
愛想のいい美容師ではない。
それなのに、不思議と嫌な感じはしない。

男は白いクロスを広げ、俺の首元へ巻いた。
細い、少し冷たい指が、喉の近くを通る。

わずかに身体へ力が入ったのは、慣れない場所にいるせいだと思うことにした。
鏡越しに見る男の顔は、遠くから眺めていたときよりも、さらに整って見えた。

「どうしたいですか?」

「短めに。仕事の邪魔にならなければ」

「普段、ワックスとか使いますか?」

「あまり」

「朝、髪に使える時間はどのくらいですか?」

少し考える。
「二、三分くらいです」

男は鏡越しに俺の顔を見た。
呆れたような、それでいて少し面白がっているような目だった。

「短いですか?」

「想像していたより、だいぶ」

「髪に時間をかける習慣がないので」

「それなら、乾かすだけで形になるようにします」

「あ、はい」

指が、髪の中へ入る。
何度か、根元から毛先まで触れられる。
一度、前髪を持ち上げられた。

鏡の中で、自分の顔がいつもよりはっきりと見える。
男の視線は俺ではなく、髪へ向いている。
何かを確かめるように、指先が動く。

仕事をしている真剣な顔だ。さっき受付に立っていたときとは、少し違う。

「お仕事、聞いてもいいですか?」

「建築関係です。設計の仕事をしています」

「ああ……それで」

「え?」

「細かそうだなと思って」
男は悪びれた様子もなく、ハサミを動かす。

「え…どういう意味ですか?」
鏡越しに男を見る。

「店に入ってから、ずっと天井とか壁とか見ていた気がしたので。違ってたらすみません」

視線を逸らした。
見られていたとは思わなかった。

「職業病です」
思わず少し笑う。

男も、わずかに口元を緩めた。

「初対面の客に、細かそうとか言うんですね」

「悪い意味ではありません」
ハサミの音が続く。

「細かいところを見られる人なんだなと、思っただけです」
鏡越しに、もう一度目が合った。

男は迷いなく切っていく。
急いでいるはずなのに、慌ただしくはない。
一度ハサミを入れるたび、次にどこを切るのか最初から決まっているように見える。

「少し顔を下げてください」
言われたとおりに顎を引く。

「もう少し」
後頭部に手を添えられ、頭の角度を変えられた。

年下かもしれない男に、指示されるまま従っている。
悪い気分はしなかった。
声に迷いがないからだろうか。

「少し待っててください」

「はい」 

男は別の席へ向かった。

そこに座っていた女性客へ何か話している、若いスタッフへカルテのようなものを渡す。
女性が楽しそうに笑う。
男も、それに合わせるように笑った。
さっきまで俺の髪を切っていた時とは、また別の顔だった。

「お待たせしてすみません」

「いえ」
男は必要以上に話しかけてこない。

けれど、沈黙が気まずいわけでもない。

「設計の仕事って、ずっと図面を描いているんですか?」
髪を切りながら聞かれる。

「いえ。現場へ行くことも多いです」

「だからなんですね」
男の視線が下へ動いた。

俺の足元。
履き慣れた靴の、すり減った踵。
また見られていた。

「意外と体力仕事なんですね」

「まあ……でも多少は鍛えているので」
答えてから、少し変な気分になった。

俺は初対面の人間と、こんなに話す方だっただろうか。
美容室では必要なことだけ答えて、あとは黙っていることの方が多い。
なのに、この男との会話は苦ではなかった。

鏡越しに視線が向けられる。
何かを確かめるような目だった。

「お兄さんは、何歳ですか?」
あまりに何気ない口調だった。

“お兄さん”という言葉に気を取られて、何を聞かれたのか一瞬分からなかった。

「あ……えっと、三十五です」
髪を切っていた手が止まった。

「……三十五?」
あまりにも率直な反応に、鏡越しに顔を見る。

「そんなに驚きます?」

「俺と同じくらいだと思っていました」

「それは、さすがに言いすぎでしょう」

「本当です」

たしかに、同年代より若く見られることはある。
あるけれど…
かなり嬉しかった。

「あなたはいくつですか?」

「二十五です」
もう少し上だと思っていた。

十歳違う。

数字にしてしまえば大きい。
それなのに、目の前にいる男との間に、その十年分の距離を感じなかった。
仕事に迷いがないからだろうか。

客の髪に触れるときの真剣な目。
堂々とした態度。
自分が思うことをそのまま口にする話し方。
そういうものが、実際の年齢より大人びて見せているのかもしれない。

「前髪を整えます。目を閉じてください」

「はい」
言われたとおり、目を閉じる。

すぐ近くで、ハサミの乾いた音が響いた。
額に触れる指先。
頬の前を、短い髪が落ちていく。

顔を近づけていることが、目を閉じていても分かる。
呼吸が触れるほどではない。
前髪を切るには必要な距離。

それだけのはずだった。

不意に、ハサミの音が止まる。

一秒か、二秒。
ほんの短い沈黙だった。

なぜ止まったのか気になった。
目を開きそうになる。
けれど、その前に再びハサミが動き始めた。
何事もなかったように。

「開けていいですよ」
目を開ける。
鏡の中で、男と視線が重なった。
ほんの一瞬。
彼はすぐに髪へ視線を戻した。

さっき止まったのは、ただ長さを確認していただけなのかもしれない。
そう思うことにした。

「そういえば」
男が言った。

「名前、聞いてませんでした」

久我くがです」

「いえ」
鏡越しにこちらを見る。

「名前の方です」
一瞬、戸惑った。
苗字では駄目なのだろうか。

「……春途はると

男が小さく繰り返す。

「春途さん、ですね」

ただ、名前を呼ばれただけだった。
それなのに、自分の名前がいつもと少し違って聞こえた。

「俺の名前は、りつといいます」

「律」
口にしかけて、止める。
どうしてわざわざ下の名前を教えてくれたのか分からない。

「名前で呼んでいいですよ」
少し間を置き、

「呼び捨てでも」
と言った。

「いや、さすがに会ったばかりの人なので……」

「俺がいいと言っているので、大丈夫です」

十歳も年下の男を呼び捨てにする方が、俺には変な感じがした。

それでも…
その名前を、心の中で一度だけ繰り返した。


_____律。


NEXT REV.
REV.03 隠れていたところ



※この物語はフィクションです。作中の登場人物、会社名や建物名、地名、駅名などの固有名詞はすべて架空のものです。
※作中のイラストは全てAI画像生成です。


いいなと思ったら応援しよう!

架空彼氏製作所|AIイラスト 次の彼を生み出す燃料になります。 🖤 架空の彼氏製作所