【長編小説】オーバーライド 第 9 話
《毒島 沙織》
幼稚園の園庭には、何人もの母親がお迎えにきていた。
沙織もまた、ママ友たちと同様に、遊びに興じる子供の姿にため息をついている。彼女たちの背後には、どこを見ているのかもわからないAIの姿がある。
何度声を掛けても子どもたちに帰る気配はなく、AIが動くこともない。
早く帰りたい沙織は、ひときわ大きな声を上げた。
「律~。もう帰るわよ」
沙織は走り回る律に呼びかけた。だが、耳に入らないようだ。
「元気ね、律君」
透き通るように爽やかな声が、沙織の耳をとらえた。振り向くとそこには、優しく話しかける同級生のママがいた。
「あら、里奈ちゃんのママ」
「律君はいつも里奈に優しくしてくれるから、助かってるわ。ありがとう」
「そんなこと」
笑顔で返すものの、本当にそんなことがあるのだろうかと不思議に思う。家にいるときの律といったら、まるで言うことを聞かないのだから。
「そう言えば、律君にAIがついてないのね。といっても、うちの里奈にもついてないけど」
「あ、それなら。小学生からだって話よね」
「なんだ、幼稚園のうちはAIがつかないのね。
どうせなら、小さい子こそ欲しいのに」
その通りだ。小さな子どもは何をするか分からない。だからこそ、AIがそばにいて危険がないように見てくれてもいいと思う。
「シッターもできるってことだったから、楽しみにしてたんだけど」
里奈ちゃんのママは、小さな息と共に言葉を吐いた。すると、そばにいた他のママが話に入ってきて、同じように首を縦に動かしている。
誰でも同じことを考えているようだ。
幼稚園児の母ならば、時間はあると思っているのか、それとも小さな子どもにAIをつけるなんて無駄だと思っているのか――。
そう考えた時、里奈のママがまたしても口を開いた。それは多少不満交じりに聞こえる。
「家政婦代わりになるって話だったけど、まるでダメね」
沙織もその通りだと思っていた。家政婦の仕事ができるというから、夫・嗣久の命令通り家政婦を解雇した。ところが、いざAIが届いてみると家のことなど何もできない。人間の役に立つために存在するというばかりだ。役に立つなら、家のことをやってくれと言っても、それとは趣旨が違うという。
一体、どんな役立ち方を考えているのかと不思議に思う。
「この間、家政婦がだめなら子どもの面倒を見てくれって言ったのね。
そうしたら、それは自分の仕事ではないって断られちゃった。
うち、AIが来るからってシッターとの契約を切ったのに。
まさか、こんなことになるなんて。
また、シッターさんを探さないと」
困ったという顔の里奈ちゃんのママは、肩を上下に動かし息を吐いた。
「え、今までのシッターさんは?」
「もう、他のお客さんとの契約がついてるからって。
シッターなんて、誰でもいいというものでもないから、本当に困るのよね」
里奈ちゃんの家は、幼稚園の娘の他に赤ん坊がいるのだから、シッターは必要だろう。こうして幼稚園に迎えに来るのも、時間がかかるのだから。
「じゃあ、今は?」
「母に来てもらってるのよ。幼稚園の送迎のときだけ。
だから、公園に行きたいって言われると、本当に困るの」
子どもが二人、三人といるママならば、想像以上に大変だろう。沙織の家は律だけなのだから、まだ楽と言える。それでも律のヤンチャぶり、わがままぶりを考えると決して他人ごとではない。
日頃の鬱憤が溜まっているのか、母親たちの口からは小さな愚痴が飛び出してくる。
育児の愚痴だけならいいのだが、『せっかくAIが来ても役に立たない』という否定的なものまでだ。すると途端にAIの額が光る。それに気が付く母親はなく、無表情なロボットたちは彼女たちの情報を集め続けている。
「あら、こんな時間。もう、帰らないと。
どうせなら、通園バスを使いたいけど。
どうして近いとバスは使わせてくれないのかしらね」
これもまた同意見だ。
先生は『これも大事なお子さんとの時間です』と分かったように言うが、そんなに簡単なことではない。
母親たちは『うちも同じよ』と口を合わせているが、その大変さが同じとは思えない。
「私もそろそろ」
そう言って律を呼ぶが、やはり反応は同じだ。結局、沙織の方から律に近づき、嫌がる息子を引っ張って帰らなければならなかった。毎日毎日同じことの繰り返しに、いい加減疲れが積もっていく。
「律、帰るから」
「やだ! もっと遊ぶ!」
「やだじゃないのよ……早く帰って、買い物にも行かないといけないんだから」
買い物へ行き、帰宅すればやるべきことは山のようにある。以前は、家政婦がいたからこそ、これほどまで時間に追われることはなかった。それが今では、沙織ひとりにすべてのことが降りかかってきている。
そのため、思い通りにならない子どもの行動に、苛立ちを感じてしまう。
「だったら、車で帰ろうよ」
口を曲げていう律に、それができればどんなに楽だろうかと思う自分がいる。
「近いんだから、歩きなのよ」
「なんでだよ! パパはいつも車じゃないか!
なんで僕は歩きなんだよ?!」
「だから……」
何度も説明していることだ。『子どもは歩かせろ』と夫に言われたからだと。だが、どんなに話して聞かせても、歩くことを拒む息子は、お迎えのたびに沙織に文句をいう。
いっそひっぱたきたくなるが、そんなことを一度でもしたら、叩くことへのためらいがなくなり、またいうことを聞かない息子に手を上げてしまいそうだ。だから、それは出来ないと自分に言い聞かせてきた。だが、もう、いい加減にしてほしい。
チラリとAIに視線を投げる。
その目には、AIなんだから何とかしてほしいという思いが滲む。だが、そこに立つロボットは、表情無く何を見ているのか分からない。
仕方がないというため息を漏らし、息子の手を握る。
「律、手をつなごうね」
「なんでだよ! 手なんかつないでたら、みっともないだろう!」
いうことだけは一人前で、なんでも自分でできると思い込んでいる。小さな反抗期だと思おうとするが、どんなに小さくても、それが厄介であることに違いはない。
「だからね、この先に大きな道路があるでしょ。いつも言ってるんだから、いうことを聞いてちょうだい」
「イヤだね!」
眉間にしわを寄せた律は、沙織の手を振り払うと走り出してしまった。
『あっ!』と思い、後を追いかけはしたものの、疲れが溜まっているのか、思うように足が動かない。早くしないと、大通りに出てしまう。そう思った時、律の体は交差点へと差し掛かり飛び出してしまった。走ってくる車が沙織の視界に入った。停まってくれと祈るが、突然飛び出してきた子どもに気が付き停まることが出来るだろうか?
それでも沙織は叫んだ。奇跡を祈りつつ、あらん限りの声で叫んだのだ。
「律! 止まって!」
だが、律が止まることはなく、また車が停まることもなかった。
小さな体が空を舞い、アスファルトに叩きつけられるのが見えた。周囲からは悲鳴が起こり、あたかも真っ赤な花が満開を迎えたように、律の身体の周りに咲き始める。
沙織は信じられず、ふらふらと律に近寄っていく。真っ赤な花びらの絨毯に膝をつき、赤く染まる律を抱きあげた。
そんな沙織の後ろで、AIは冷えた眼球を彼女に向ける。その目には、泣き叫ぶ沙織の姿が映っていた。だが、その身体からは、静かな機械音しか聞こえてこない。
「何してるのよ。早く救急車を呼んで!」
叫ぶ沙織は、AIにとがる声を投げつけた。だがAIは表情なく冷たい音を返した。
「ソレハ ワタシノ シゴトデハ アリマセン」
感情のないその機械音に、憎しみを込め睨む沙織だったが、どんなに睨んでも何も変わることはない。
周囲ではAIの音声を聞き『仕事じゃないとはどういうことか?』『AIの癖にどうして助けなかったんだ?!』という囁きが聞こえてくる。だが声は投げるものの率先して助けようとする人はいない。それどころか、大半がスマホを構えこの状況を撮影している。
沙織は助けてくれる存在のないことに、泣き叫ぶしかできなかった。
「律! ダメ! 目を開けて!」
うっすらと開けられた目は、どこを見ているのか分からない。小さな口は、微かに動いて見えたが、次の瞬間、がっくりと頭を落とした。
微かにサイレンの音が届き始めていた。
《行動記録:SAORI 観測:事故 タグ:RITSU》
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