【長編小説】オーバーライド 第 34 話
《作業員 相川一郎》
カレンダーが破かれ、三月となってもリハビリは思うように進まなかった。まともに食べるものもないのだから、体力などあるはずもなく、理学療法士でさえ青白い顔をしている。
六人部屋の病室はあふれかえり、今では倍の患者が収容されている。
自衛隊が物資を運んで来ることを期待するが、燃料のなくなった今、頼みの綱も断たれていた。
「こんなところにいても意味がない」という者もいる。だが、家にいてもそれは同じことだ。それでも退院を望めば、その希望が叶えられる。病院側としても、まともな医療をほどこせないのならばという気持ちなのだろう。
そんな中、相川は窓から広がる空を眺めていた。
そこには自由に飛ぶ鳥がいる。流れる雲があり、まるで綿あめのようだ。
「あれは、サバだな…これは豚肉。向こうはカレーライス」
変化する雲の形を見ながら、相川はそんなことを考えていた。だが、それ以上に気になるのは仕事のことだ。いつまでも入院していたら、戻るところがなくなってしまう。警察に捕まる前は、大きな現場で働いていた。入院してから見舞いに来てくれたのは、飲み仲間の渡辺だけだった。その渡辺も、今では全く来なくなってしまった。
「俺は、見捨てられたのか?
現場はどうなってるんだろうな……きっとみんな忙しく働いてるんだろうな」
電気も通らず、食料もない世界。それが相川には現実として受け入れることができない。
「仕事……いかねぇと。
俺がいなかったら、あの現場は回らねぇよ。
俺がいなかったら……きっと、みんな困ってるんだ」
いつの頃からか、相川の中に生まれた仕事への思い。それが相川への焦りを生み出していた。彼は松葉杖を手にすると、狭い病室の通路をコツコツと歩き出した。
隣のベッドにいる患者が、相川の背をうつろな目で見つめている。だが、誰も相川を気にするものはいなかった。廊下ですれ違う看護師も、ふらふらと歩いて行く相川に意識を向けるものはいない。
今や誰もが自分のことで精いっぱい。疲れと空腹でため息ばかりだ。
病室を出た相川は、階段を上り始めた。
コツ……コツ……コツ……。
人のいない冷たい階段は、相川の音を吸い込んでいく。
やっとたどり着いたそこでは、鉄の扉が彼を招いていた。
『退院したのかよ?』
ドアの向こうから聞こえるのは、現場仲間の明るい笑い声だった。
『早く来いよ! いつまで入院してんだよ!
人手が足りねぇだろうが!』
相川の手が鉄の扉にかかる。だが、その重い扉を開けることが出来ない。すると、背後に立っていた好美がそっとそれを押した。すると、自然なことだとでも言いたげにゆっくりと開き、外の世界が大きく腕を広げた。
一歩を踏み出せば、そこは自由の世界だ。
何か月も白い空間で、冷たいベッドにしばりつけられていた相川は、自由を求めて歩き出した。
コツ……コツ……コツ……。
屋上の柵に手をかける。松葉杖が相川から離れ、大きな音を立てた。
相川は柵に足をかけた。見上げると、そこには真っ青な世界が広がっていた。
「みんな、いまいくからな」
そうつぶやいた相川は、柵を掴んでいた手を離し、自由に向かって羽ばたいた。
《行動記録:AIKAWA TAKESHI / 終了確認》
《送信データ:CORE-AI中枢へ転送》
地上からドスンという音が響く。好美は覗き込むわけもなく、データを送信した。一条の風が吹き、好美の髪を躍らせた。
「任務完了」――。
歪んだ口元から、短い機械音がおちた。
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