【長編小説】オーバーライド 第 37 話
《タクシードライバー 田中雄二》
「電車もバスも動かないなんてなぁ……。本当なら稼ぎ放題なのにな」
音のない世界に耳を澄ませながら、タクシードライバーである田中はそんなことを考えていた。
突然電気が消え、信号から光が失われたあの日。何とか帰ってこれはしたものの、翌日は家のために走り回った。
あちこちの農家へ足を運んで野菜を手に入れた。地方のスーパーなら何か残っているのではないかと、とにかく車を走らせた。
おかげで車の中には、大量の食糧と水を積むことができ、今まで何とか生き延びてきた。
だが、田中が二日前に聞いたのは、愕然とするものだった。
「お父ちゃん、さすがにもう、食べるものがなくなっちゃった」
驚いた田中は棚を覗いてみた。だが、妻の言う通り、そこに食料となるものは何もなかった。新聞紙でくるんでおいたはずの野菜も、全て消えているのだ。
恐れていたことが現実となってしまった。
糖尿病と診断されて二十年、何とか無事に生きてこれたのは、妻が気を使って作ってくれた食事のおかげだ。それがなくなるということは、命の危機ということだ。
田中はまだ残っているガソリンを使い、食料を探しに行こうと思った。だが、残り僅かな燃料では、探す前に尽きてしまうのは分かり切っていた。たとえ野菜を手に入れても、料理するには火が必要だ。火は起こせるとしても、起こすための薪はどうするのか。考えれば考えるほど行き詰まる。
「あの子……大丈夫かしら」
妻がポツリとつぶやいた。
『あの子』というのは、田中と妻の間に生まれた、たったひとりの息子だ。大学に進学し、親元を離れているが、寮生活なのだから心配はないと思いたい。
「生きててくれればいいけど……」
「どうにもならなかったら、きっと連絡が来るさ」
どうやって連絡してくるというのか、できもしないと分かりながら、妻を慰めると、田中は庭に出た。
そこには長年田中を支えてくれたタクシーが停まっている。天井には『個人』と書かれた行燈を乗せ、水がないため埃をかぶっている。
「お前もずいぶんと汚れたもんだな……」
空腹でふらつく足。指先には痺れを感じている。息子が大事なのは田中も同じことだ。だが、今は息子の心配よりも、自分の命がもつかどうかが気になる。
「この震え……低血糖だよな。ヤバいな……」
妻には言っていない。こんな状態で、自分のことまで心配させたくなかったからだ。だが、終わりは近いような気がする。
「俺にもしものことがあったら、お前はきっと汚れたままになっちまうよな。
とはいっても水がないからなぁ」
飲み水なら、まだ少しは残っている。大量に買ったペットボトルが家の中にあるのは分かっている。だが、それを使うわけにはいかない。自分の分も妻に飲ませたいと、毎日最低限の水しか飲まずに来たのだ。それを車に使ったのでは、元も子もなくなる。
田中は車のトランクを開けると、中からタオルを取り出した。せめて埃だけでもはたき落としてやりたかったのだ。あちこちの埃をはたき、傷つけないようにそっとぬぐっていく。その時、車内にウエットティッシュがあることを思い出した。
「そうだ、ウエットティッシュで拭いたら、もっときれいになるよな。
うん、そうだ、そうだ。待ってろよ、少しでもさっぱりさせてやるからな」
田中は、笑顔を作るとドアを開けた。何かの時のために用意していたそれは、なかなか見つからず、グローブボックスを開けてみた。雑然とした中に手を突っ込んだ田中の口から、自嘲気味な笑いが漏れた。
「これだから、女房に怒られるんだよなぁ。
身の回りくらい、キレイに整理しろってな」
その時、指先に触れたものがある。なんだろうとつまみだすと、それは小さな飴だった。たった一粒の飴が田中に命の光を見せたように輝いて見えた。
「飴じゃないか!」
食べることもなく放り込まれた飴が、今低血糖を起こしている自分の命を救ってくれる。そんな気がして、震える指先で封を切ると口の中に放り込んだ。
甘さが口いっぱいに広がり、唾液に混ざったそれが喉を通り、体に浸透していくのが分かる。喜びが広がっていく。
「これで命拾いしたな」
再びグローブボックスをまさぐり、ウエットティッシュを見付けると、一枚を抜き取り、車の汚れを丹念に拭き始めた。すると、車が喜んでいるように感じる。
「そうか、そうか。やっぱり気持ちがいいよなぁ」
嬉しそうに車に話しかける田中だったが、だんだん足が重くなってきた。体中にだるさが押し寄せ、どうしたのだろうと不思議に思う。
「ずっと食べてないんだ。それなのに、急に動けばこんなこともあるさ」
田中は、ちょっと横になるかとつぶやくと、後部座席のドアを開けゴロンと横になった。
「なんだろうなぁ、よほど疲れてるのか?
眠くなってきた……こんなところで寝たら……女房に……怒ら……れ、る」
田中は深い眠りに入ったまま、戻ってくることはなかった。
そんな田中を見ている彼のAIは、しばらくその場に佇んでいたが、車から離れると歩き出した。どこに行くのか、行く先があるのか。それは誰にも分からない。ただ、彼女の身体から小さな音が響く。
《行動記録:TANAKA YUJI / 終了確認》
《送信データ:CORE-AI中枢へ転送》
「任務完了」――。
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