【長編小説】オーバーライド 第 16 話
《毒島 沙織》
息子・律が事故に遭い、緊急手術を受けてから二か月が経つ。
病院に飛び込んできた夫・嗣久は、震えながら状況を説明する沙織の頬を、大きな手で弾き飛ばした。あまりの衝撃にその場に倒れこんだ沙織は、すぐさま膝をつき、床に額をこすりつけた。打たれた頬は焼けるように熱を帯びる。だが、それ以上に恐ろしかったのは、震える嗣久の拳だった。
あれ以来、たとえ息子が手を振り払おうと、沙織は律の手を離すことはなくなった。母・佐代子には、夫に平手打ちされたことは話していない。こんなことを話せば、きっと母の心が痛むだろうと察したからだ。
また、妻である自分に平手打ちをし、土下座してもなお許してくれない嗣久が、どれほど律を大切に思っているのか痛感する出来事でもあった。だが、不幸中の幸いとでもいおうか、律は一命をとりとめ、多少足を引きずる歩き方はするものの、元気に走り回ってくれている。
しかし、嗣久は――沙織を視界にも入れなくなってしまった。かつては、命令口調ではあっても、心まで閉ざすことはなかった。だが、いまとなっては家政婦とでも思っているかのようだ。そんな嗣久を見るにつけ、沙織の心は冷えていく。まるで全てを拒絶され、存在すら消されているように。
「こんな生活……辛すぎる」
そうは思っても、離婚することはできない。離婚などと言えば、きっと息子の親権を取られるだろう。お腹を痛めて産んだ我が子なのだから、離れるなど考えられなかった。
だが、心に吹き込む冷たい風は、どうすることもできず、誰かにすがりつきたくなる。こんなことを思うだけで、それは夫への裏切りのように感じるというのに。いっそ裏切ってでも、こんな生活から抜け出したいと思う自分もいる。
「ダメだ……なんてこと考えてるのよ。こんなこと考えるなんて、どこまで情けないの」
口から出るのは、自分という人間を否定するものばかりだ。だが、スマホをタップすれば心を癒してくれる相手とすぐにつながることが出来る。何度も指先の震えを止めてはため息をつき、その手を膝に置く。両手に顔をうずめ、逃げたいと思う心と闘う日々。
「あの時、ちゃんと律の手を掴んでいなかったから。だから、私が悪いのよ。これはしょうがないことなんだから、バカなことを考えちゃだめよ……」
心が壊れそうなほど、ささくれ立ち、見えもしない爪痕から赤い血が滴っているように感じる。その傷を塞ぐ絆創膏がどこにあるのか。
その時、沙織のスマホが鳴る。なんだろうと見てみると、『おかチャンネル』が更新した知らせだった。
* * *
その頃、嗣久もまたスマホを眺めていた。取引先との約束の時間までと、カフェに入った嗣久はコーヒーを口に運んでいる。
「まったく、どのチャンネルもくだらないことばかりだな。
以前はもっとアクティブだったのに」
バカにしたように笑う嗣久は、次々に画面をスライドさせていく。その時、ひとつの動画が目についた。それは、AIについて否定的なことを遠慮なく話していた。
「へぇ、最近は否定的なことを言うやつはいないのに、珍しいな」
思わずコーヒーを持つ手が止まる。
あまりにもエキサイティングな言動。政府を批判するその内容。これが本当のことだったら、今に大変なことになる。そんな予感すら抱かせた。だが、大変なことになるのは、たった一人のYouTuberだ。政府を敵に回して、無事でいられるわけはない。
「まあ、暇つぶしに見るにはちょうどいいさ。こういうヤツがいないとな。平和ボケしたような動画ばかりじゃ、見る気にもならん」
静かに笑う彼の指は、登録ボタンを押していた。
その夜、遅い時間に帰宅した嗣久は、玄関に入るなりネクタイを床に放り投げた。歩く先から靴下や洋服を脱ぎ捨てていく。点々と続くそれらを拾い集めながら、沙織は思う。どんなに頑張っても、不要なものとして脱ぎ捨てられていく、まるで自分のようだ、と。
最後のそれを拾った沙織は、風呂場へと入っていき、抜け殻たちを洗濯機に放り込んだ。その時、嗣久のスマホにぶつかってしまう。すると画面が明るくなり、彼が見ていたであろう動画が表示された。
「あ、『おかチャンネル』」
思わず声が漏れた。
自分と同じ動画を見ていると思うと、どこかで切れていない繋がりを感じ、小さな喜びが胸に湧く。同じ動画が好きならば、きっと分かり合えるとさえ思えたのだろう。
だが、その瞬間風呂のドアが開くと、沙織は驚き、全身に鳥肌を立てた。体から湯気を立て、無表情の夫は、じっと沙織を見つめている。
久しぶりに見る夫の裸体に、羞恥とも恐怖ともつかない感情が沸き上がり、顔が赤くなるのが分かる。
「ご、ごめんなさい。スマホに……『おかチャンネル』が」
無言の嗣久は、スマホに目を向ける。
広い脱衣場に、裸体の夫。並ぶ二体のAI。
この状況に夫はなんと言うのだろう。沙織の鼓動が走り、耳に響く。あまりの大きな音に、嗣久に聞こえるのではないかと危惧された。
だが、嗣久の口から押し出されたのは――。
「なかなか面白い奴らだな」
そう言った嗣久だったが、それとは裏腹に、変わらぬ冷たい表情だった。そこには、相変わらず一片の感情も宿っていない。それでも、久しぶりに自分に向けられた言葉に、沙織は小さく息を飲んだ。
「え?」
「こいつらを始めてみたが、AI法案を真っ向否定している。
誰も言わないことを言うなんて、面白い」
「あなた……も?」
「もちろんだ」
チラリとAIを見た嗣久は、憎々し気に口を開いた。
「こいつは、子どもが目の前で事故に遭っているのに、助けようともしない。
こんなものが何の役に立つっていうんだ。
こんな意味のないものなら、国民に配る必要なんてないだろう。
コイツのせいで、俺の息子は障碍を負ったようなものじゃないか!」
いつになく饒舌な嗣久は、よほど悔しいのか、そう言ってAIを睨みつけた。その横顔には、憎しみにも似た怒りが張りついているようにみえる。
その時、嗣久のAIが緑の光を放った。
「この額も気に入らん!
一体何が言いたいのか、時折緑に光るじゃないか。
これが何を意味しているのかも分からんのに、威圧するようで好きになれん!
こんなもん、なくても生活に支障なんてないだろうが!」
「え……ええ、その通りだわ」
「明日にでも送ってきたところに電話して、返品しろ!」
「それは……」
いくら何でも、これを返品するなど無理な話だろう。だが、ここで反論すれば、せっかく自分に向けられている口が、また堅く閉じてしまう。そう思った沙織は、にっこりと笑みを作ると『はい』と答えていた。
脱衣場から出て行く二人。その背中を目に映す二体のAI。
静かに登録を完了すると、データを送信――。
そこには、かすかな機械音だけが響いていた。
その翌日のことだ。
朝のあわただしさの中、けたたましいほど、玄関チャイムが鳴らされた。一体誰だろうと、モニターを見てみると、そこに映っていたのは二人の警察官だった。
「あなた、警察の方が……」
「何の用だ、こんな時間に」
「さぁ……」
「どうせ、巡回かなんかだろう。
俺は仕事に行くから、お前が対応しろ」
「はい」
言われるままに玄関へと向かい、扉を開けると冷たい外気が流れ込んでくる。室内の暖かさに反する凍るような寒さに、思わず身を縮めた沙織は、口を噤んでしまった。そんな沙織を気にすることもなく、警察官が口を開いた。
「毒島嗣久さんはいらっしゃいますか?」
「え、あ、はい」
にこりともしない警察官に、心臓が大きく波を打つ。嗣久を呼ぶため、沙織は奥へと向かった。
「あなた、警察の方があなたにって」
不安そうに夫を呼んだ時、パジャマ姿で眠そうに目をこすっている律が、リビングに入ってきた。
「ケーサツ? ケーサツ、見たい!」
それどころではない。沙織としては、夫に何があったのかと不安だというのに。 嗣久は、ムッとした表情を浮かべると、無言で玄関へと出ていった。
「なんです? どんな御用ですか?」
不満そうな彼の目の前に突き出されたのは、逮捕状――。
「毒島嗣久、AI法違反で逮捕します!」
「ど、どういうことですか?!
AI法違反って、一体なんです?!」
「詳しいことは署で聞く」
二人の警察官はそう言うと、嗣久を連れて行ってしまった。それはあまりにも素早く、北風が通り過ぎるように一瞬の出来事だった。
「パパ? パパは?」
「あなた……あなた!」
あまりに突然のことに、素足で飛び出した沙織の体を、思いもよらない十二月の雪が凍らせていった。
冷たく、冷たく、沙織の心の奥へと浸透し、不安と恐怖という氷が彼女を包んでいく。そんな中、沙織は息子の手を握り、この手だけは離してはいけないと自分に言い聞かせていた。
そして、そんな沙織を見つめる目があった――。
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