【ショートショート】腹
ある日、風呂に入っていた男は、自分の腹に目を止めた。
「なんだよ、随分と太ってるな」
妙に腹だけが出っ張っていることに気が付き、中年太りかとため息をついた。
「こんな腹じゃ、恋愛対象として見られなくなるな」
苦笑が滲む。
しかし、恋愛対象とはいっても、男は五十に手が届く年齢だ。
白髪も増え、皺も刻まれている。
周りの若い子からは、おじさんとしか見られていないだろう。
男は自分の腹をさすると、ジムにでも通うかとうそぶき、風呂から上がった。
その翌日、学生時代からの悪友と飲みに行くと、ふと腹の話となった。
「なるほどね、中年太りもそこまで行くと、救いようがないな」
友人は男の出っ張った腹に視線を向けると、その腹を撫でた。
「妊娠何か月だ?
そろそろ、7か月って感じだと思うが。
ちゃんと認知してもらえよ」
バカにしたように笑う。
「冗談はやめてくれよ。
男が妊娠なんかしてたまるかよ」
「そいつは分からないぞ。
妊婦を見て、みっともないとバカにした男が妊娠したって話を聞いたことが……」
「あるのか?!」
「ないな」
思わず真剣に聞いてしまった自分が情けなく、男は乗り出した身体を元に戻した。
そんな男の脳裏には、妻が妊娠した時のことが蘇っていた。
自分の子を宿してくれているというのに、みっともないと笑い。
こんな腹では、もう抱く気にもならないとバカにし、恥ずかしいから一緒に歩くなと毒づいた。
夫に言われた妻は、悲しそうに俯いていた。
それでも妻は離婚を口にすることはなかった。
ただ、二人目を生みたいとは言わなかった。
俺はそんな妻に言った。
「あんなデカいのを抱えてるなんて。
女ってのはやっぱり化け物なんだな。
気持ちが悪いな」
眉根を寄せた妻は、生まれてきたたった一人の子どもだけを可愛がっていた。
今でもあの頃の言葉を反省することはない。
俺は自分が思ったことを、素直に言っただけなのだから。
それが突然、妊婦をバカにしたからと言われ、恐怖が襲ってきたのだ。
「そ、そうだよな。
そんなことがあるはずないよな」
「どうせ、ビールの飲み過ぎとかだろう?
妊娠だったら、面白いけどな」
「あ、ああ。そうだな……」
中年太りなのか、ビールの飲み過ぎなのか。
どちらにしても、腹はどんどん大きくなっていく。
「そうだな、ビールの飲みすぎかもしれん。
だったら、アルコールを控えてみるか」
グラスに注がれたビールを煽ると、コップを逆さにふせた。
家に帰った男は、服を抜いだ。
昨日よりもさらに前に突き出して見える。
昨日までしまっていたボタンも、はちきれそうだ。
男は酒臭い息を吐き、鏡に映る自分の腹を眺めた。
その時、背後からバカにしたように笑う妻の声がした。
「みっともないわねぇ。
そんなに大きなお腹しちゃって」
振り向くと、妻がスーツケースを脇に置き立っていた。
「なんだ? スーツケースなんて」
「あら、旅行に行くって言ってあったでしょ。
寝台車に乗ったことないから、友達と一緒にって」
言われてみればそんな話も聞いた気がする。
自分のことばかりを気にしていた男は、妻の言葉が耳に入っていなかったようだ。
「戻りは3日後。
その時までに、少しは痩せてるといいわね。
じゃないとみっともなくて、一緒になんて歩けないもの」
妻はそういうと楽しそうに出て行った。
ひとり残った男は、腹筋でもするかなと呟いた。
その時、男の腹の中で何かが動いた。
「え? ……胎動?
な、何言ってんだよ。
妊娠のはずないのに、胎動なんてあるかよ」
乾いた笑い声を立てた。
しかし、腹の中は幾度もうごめく。
その動きが大きくなり、腹に痛みを感じだすと、男の額に汗が滲みだした。
「い、痛い……痛い。い、いー! いてぇー!」
立っていることもできなくなり、腹を抱えて床に倒れこんだ。
「助けてくれ。助けて……」
妻に電話してみたが、つながらない。
なんでつながらないんだと、唇を噛む。
だが、またしても襲ってくる激痛に男は吠えた。
「うわぁ! イテェ! イ、イ、イ、イテエエエエ!」
このままではどうにかなってしまう。
そう思った男は、救急車を呼ぼうと試みた。
だが、あまりの痛みに指は震え画面をタップすることができない。
こんなことなら、妻に電話するより救急車を呼ぶべきだったという後悔が押し寄せる。
しかし、どんなに後悔しても、時間を戻すことはできない。
腹の中でうごめくそれは、一瞬も止まることなく男を苦しめ続けている。
男は悲鳴を上げ続け、とうとう意識を失ってしまった。
その時、ベリッという音が――。
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