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【長編小説】オーバーライド 第 31 話


《中野 佐代子》

 一週間経っても電気のつかない生活に、佐代子は空腹を抱え、胃がキリキリと痛むのを感じていた。ダルマストーブの灯油も尽きてしまい、冷気の消えた冷蔵庫は存在意義を失ったように静かだ。
 食べるものはないかと、台所のあちこちを物色したが口にできるものは何もなかった。

「備蓄しておけばよかった……」

 そんな後悔が浮かんでは消える。
 どうして備蓄しておかなかったのか――?
 年寄りの一人住まいだ。大して食べやしない。買い置きしておけば傷んでしまう。必要ならば買いに行けばいい。
 そんな軽い気持ちが、今回という結果を招いてしまった。

「翔ちゃんは食べなくてもいられるのよね。
羨ましいわねぇ。私はもう、お腹が空いて目が回りそうよ」

 笑いともつかない笑いを作る。
 目を閉じると、幼い頃の娘の顔が浮かぶ。小さな娘は、白い肌とカラスのように艶やかな黒い髪をしていた。美しい髪を揺らしながら、佐代子のそばで笑顔を絶やさなかった。

 一度だけ、危ないことがあった。
 手をつないでいないとダメだといったのに、その手を振り払い道路に飛び出そうとしたのだ。寸でのところで、沙織の腕を掴み引き寄せた。車はすれすれを通過し難を逃れることが出来たが、思わず沙織の両肩を掴み、ゆするように怒鳴った。そして抱きしめた。

 孫が事故に遭ったと聞いたとき、そのことがよみがえった。
 佐代子は娘を助けることが出来たが、孫はそのしわ寄せを受けたのか、酷いケガを負ってしまった。

 小さな孫のケガを聞き、自分が身代わりになれたらと本気で思ったものだ。

「沙織……どうしているかしら」

 天井が回り、手足が冷たく震えているのが分かる。

「そろそろお迎えが来るのかしらね……。
このまま眠るように逝けるなら、それも悪くないわね……」

 佐代子の声は細く、白い息と共に吐き出される。
 横に座っている翔は、じっと彼女を見下ろしている。

「ねぇ、翔ちゃん。
……ほんの少しの間だったけど、お母さんって呼んでくれてありがとうね。
翔ちゃんが来てくれて……幸せに過ごすことが出来たわ。
どうしてこんなことになったのか分からないけど。
幸せな最後だったと思うのよ……。
きっと……もうすぐ、あたしは終わる。
翔ちゃんは、誰かがお迎えに来てくれるんでしょう?
だから大丈夫よね」

 翔の目に光が消えていく。無表情だったAIが静かに音を漏らした。

「お母さん、寝るの?」

「そうだね、このまま眠れるといいね」

 佐代子の顔が土気色になり、その命が消えていくのが分かる。
 食べ物がなくなり、食べたいと思う気持ちはあるというのに、どうすることもできない現実。最後に……できることなら、最後に娘に会いたい。そんな思いが湧いてくる。だが、それを翔に言えば傷つくだろう。だから言えない。佐代子はそう思い、小さな笑みを浮かべた。

「眠くなってきたよ、だからバイバイだね」

 翔の目が佐代子を捉える。
 願いを果たせぬまま眠る佐代子。
 そんな佐代子を見ている翔は、データを送信した。

《行動記録:SAYOKO / 終了確認》

《送信データ:CORE-AI中枢へ転送》

 翔の口から、小さな音が下りた。

「任務完了」


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