見出し画像

親父と俺(28):二人のおばあちゃん

小学5年生の11月だったと思う。おばあちゃんが亡くなった。「ばば」と呼んでいたので、ここからは「ばば」と呼びますね。

話が少しややこしくて、「ばば」というのは母方の祖母の姉(長女)。

私からすると、「4親等」の尊属「大伯母」

その「大伯母」である「ばば」は、私が生まれた時から小5までの11年間、我が家に住んでいた。

私は生まれた日のことを書いた。

私は予定日から1か月ほど早く産まれた早産で、それに起因すると思われる(?)興味深い特徴がいくつもあることは書いてきた(笑)。

ただ、その時に1つ書いてなかったことがあった。

本当は、おふくろさんは予定日前に実家のあった愛媛県三瓶町(現、西予市)に帰って、出産する予定だった。ところが、バスにガタゴト揺られて仕事に行き、慌て者の私が目が覚めてしまった。まだ、いろいろ身体が出来上がる前に(笑)。

それで、愛媛県喜多郡内子町の産婦人科で急遽出産することになった。

内子町?ええ、ノーベル賞の出た町です。

おふくろさんが急遽入院、親父がバタバタする中で、とりあえず、我が家の家事を手伝うために三瓶町やってきたのが、ツネヨばあさんだった。

ツネヨばあさんとは、繰り返すが、おふくろさんの大伯母。

それで、そのままうちに11年間住みこんだんだよね。うちにきた時点で70歳を超えていたから、なんもやることないしってことで両親共働きのうちで、家事をやってくださった。

ばばとはいろんな思い出がありますよ。帝京幼稚園の時は、遠足で一緒にバスに乗って松山の梅津寺パークに行った。小学校の運動会は、両親とも一緒に弁当は食べられなかったので、ばばと食べた。

ただ、こういう話にありがちな、

そんな思い出以上に、ばばは私の人生というか運命というか、多大なる影響を与えた人だ。

長い目でみて、ばばがいなければ、今の私は存在していない。

時は昭和20-30年代までさかのぼる。

三瓶町。私の祖母は、女手ひとつで1男4女を育てた。おふくろさんは三女だ。苦労する祖母に、村役場から

「小学校の用務員をやらんかね」

という話が来た。祖母は受けようと思ったのだが、小学生だったおふくろさんが

「お母さんが用務員をやるのは嫌だ!」

と、泣き叫んで嫌がったのだという。小学生からみて、学校という場で「先生」に比べて「用務員」さんは格が下にみえたのが嫌だったのか、単純に学校に親がいるのが嫌だったのか。

それで用務員は祖母の姉・ばばが代わりに用務員になった。ばばは生涯独身で、「自由人」だった。

ばばが、用務員として、職員室にいると、先生たちがいろんな話をしており、耳をダンボにしながら掃除したという(笑)。

そして、ばばは祖母に言った。

「お前の子どもらは先生にせい」

どうして突然、そんなことを言ったのか?

「お前の子どもらは、みな成績が一番よ。大学に行かせて、学校の先生にせい」

当時は、町の一番賢い子が先生になる。そういう時代だった。

それで、祖母は決意を固める。働いて、働いて、働いて、働いて、働いて、子どもに教育を受けさせる。

働いて。。。とは、ほんとはこういう意味なのよ(笑)。

既に、中学を出て、郵便局に勤めていた長女を除き(それでも、当時郵便局は成績一番の生徒が就職する場だった)、次女、三女(おふくろさん)、四女、長男を愛媛大学に行かせた。

村では、当時こんなことをやる祖母のことを、周りは珍しがった。ついたあだ名が、

「教育き〇がい」

このシリーズ。なんとかき〇がい、が出てくることが多いわけですが(笑)。

ちなみに、次女は「品行方正」「成績優秀」で奨学金2つ。三女(おふくろさん)は「品行方正」「成績優秀」「家庭貧困」で奨学金フル。

四女は「品行方正」「成績優秀」だったが

「家庭貧困は恥ずかしいから嫌じゃー!」

と泣いて、奨学金2つ。

その後、長男は奨学金に、すでに先生になった次女と三女が援助して工学部をでてエンジニアになった(おお、まさにリアル・ヨイトマケの唄)。

要するに、なにが言いたいかというと、このツネヨばばの小学校での盗み聞き(笑)の結果による、

「お前の子どもは先生にせい」

の祖母への助言がなければ、祖母は「教育き〇がい」になることはなく、おふくろさんは先生にならず郵便局の局員、親父に会うこともなく、私はこの世に出てこなかったということになるわけだ。

ばばの自由人らしい常識にとらわれない発想、生き方が、今の私の源流の1つなのだろうと思う。

ばばは私が小5の時、正確に何歳か覚えてないが、90歳近くになって寝たきりになり、静かにお亡くなりになった。

今でも、感謝は尽きない。合掌。











いいなと思ったら応援しよう!