映画「火垂るの墓」(1988年:高畑勲監督)
「どまんなかアニメ映画祭」で「火垂るの墓」(トークイベント付き)を観てきました。
自分の中で、「火垂るの墓」は岡田斗司夫ゼミの「火垂るの墓」解説回を中心に、映画を観ていこうと思っていました。
Youtuberサイコパスおじさんの切り抜き動画です。
自分も「火垂るの墓」はとても苦手でした。
西ノ宮のおばちゃんにイラ立ち、セイタに同情し、セツコのけな気さに泣いていました。
でも、岡田斗司夫ゼミの「火垂るの墓」解説回(全長版)を観たあとは、
「ほぉほぉ、高畑勲ってここまで書いているんだ」と、自分で気づいたわけでもないのに感心したりしています。
つまり「泣く」事がなくなりました。
「泣く」ことよりも、興味深い描写の なんと多いこと。
それが、いいことなのか、損したことなのかはわかりません。
「どまんなかアニメ映画祭」の「火垂るの墓(トークイベント付き)」の上映回は、それほど客が入っていたわけではありません。
それでも、各シーンでズズッとすすり泣く音が聞こえました。
そんなすすり泣く声を耳にしながら、岡田斗司夫さんが言われるように、
これはセイタがいかんだろ、と極端に思って観ていました。
例えば、西ノ宮のおばちゃんの家で、「学校が焼けてしまって」とセイタは言いますが、だからといってセツコと家で遊んでいたり海にまで行くなんて、「当時の状況」からしても、普通に居候と考えても、一言も言いたくなります。
いくら子どもと言っても、皿洗いとか掃除とか家事の手伝いはできるでしょう。戦時中ですので「オトコがすることではない」かもしれませんが、
せめて「おばちゃん、何かできることありますか」とか言えばよかったじゃないですか。
「喰っちゃ寝」されていては気分が悪いです。
おばちゃん自身も、娘たちからの苦言に、言い訳がましく、キツクあたっていることを言っています。
また、畑のおじちゃんも、優しく諭すようにセイタに言っています。
「意地悪で言ってるんじゃない」みたいなことを。
つまり、西ノ宮のおばちゃんと話し合え、と。
それらに対して、勝手にキレているセイタなのです。
岡田斗司夫さんは「セイタはコミ症」みたいなことを言われてますが、
自分は「セイタは、ボンボン育ちで幼い男子」だと思います。
セイタは、海軍の巡洋艦乗りの父に、大きな憧れとプライドを持っていて、そのプライドはとても高いモノだったでしょう。
そんなプライドが邪魔したのかどうかわかりませんが、「お願いします」とちゃんと頭を下げれば、そして「隣組」に入り皆と一緒にしていれば、セツコも長生きができたと思います。
いま書いた「当時の状況」とか「隣組」、「皆と一緒に」なんて書くと、そういうことに「アレルギー反応」を示す人もみえますが、大前提として「人はひとりでは生きていけない」ことを忘れていないでしょうか。
戦時中の過剰なモノを肯定しているのではありません。
自分自身、コミ症で、ひきこもりなのですが、やはり「独りで生きていける」ほど強くはありません。人間関係に鬱にもなりますが、それでも「支え」が大事と思います。
西ノ宮のおばちゃんが「いい人」とは言いませんが、自分に正直な人だとは思います。
セイタの母の着物を闇市でお米に替えてきてくれたのはおばちゃんです。
セイタたちの食事を作ってくれた(たとえすいとんだったとしても)のはおばちゃんです。
セイタとの売り言葉に買い言葉で、食事は別々にとるようになりますが、その食事の後片付けをおばちゃんはしてくれました。
そういう映像がしっかり映っていました。
初見(劇場公開)時から何年もの間、そのことには気づかず、「おばちゃん憎し」と思っていました。
岡田斗司夫ゼミを観たことで、観方・視点が変わったのは事実です。
その観方・視点が正しいとは思いません。
監督の意思はどうであれ、本にしろ映画にしろ、作者の手を離れれば、読者・視聴者の気持ちが優先されていいと思っています。
今回、トークイベントに登壇されたのは、編集を担当された瀬山武司さんでした。
正直、お話の上手な方ではなく、また「編集」という作業が、自分たちにとってなじみのない、あるいは動画や原画、キャラクタデザイン程派手さのない仕事でもあり、聞くこちら側も(大変失礼な話しですが)どう興味持てばいいのかわかりませんでした。
結局、瀬山さんのお話は、高畑勲監督とテレビアニメ「アルプスの少女 ハイジ」で知り合い、そこからご自身の編集の技術・センスを高畑勲監督にかわれて長くお付き合いをしてきた、という話しがメインで、
「パクさん(高畑勲さんのこと)はね、よく私にね、話してくれたんですよ、優しい人ですから悪口はいいません、でも仕事になると厳しい方で、動画や原画のこと、私にはよくわかりませんが、よく話されていました」
みたいなことを話されていました。
そんな話しの中で、「火垂るの墓」は当初(一番初めの原案的なところ)では「影絵アニメーション」を高畑監督は構想されていた、と瀬山さんは振り返っていました。
「影絵アニメーション」。
「ほーほけきょ、となりの山田くん」(1999年)や「かぐや姫の物語」(2013年)で水彩調のアニメーションに挑戦された高畑勲監督です。
まさか「影絵」なんて。ちょっとビックリし興味を持ちました。
影絵風アニメーションはないこともないのですが、その演出となると、高畑勲監督や宮崎駿監督のようにキャラクタの表情などを活かすような演出はできません。
いったいどういう構想だったのでしょうか。
興味はありますが、もう叶わないモノとなりました。
岡田斗司夫さんが、「『反戦映画』とか『かわいそう』が優先されて、観ている側もいろいろと見落としている」というようなことを言われていたので、今回はブッチャケ物語よりも映像描写の方に夢中になっていました。
そのおかげか、セイタがお母さんの遺骨を抱いて電車に乗っている時、幽霊のセイタとセツコが一緒に乗っていて、泣いているセイタを静かに見ているリーンを見つけることができました。
幽霊セイタとセツコは、西ノ宮の駅で電車からちゃんと降りて、西ノ宮のおばちゃんの家に向かうセイタを見ているのに気づくことができました。
この「火垂るの墓」の映画は、幽霊セイタの見ている世界を一緒に見ている映画だったのでしょう。
岡田斗司夫さんは、冒頭の幽霊セイタ、そしてラストの幽霊セイタが 観客席を見ている、と言って、そこの演出意図は、と解説しています。
その辺りは、有料放送部分なのか、切り抜き動画では詳しく語られていないようです。
どなたかも言われていましたが、「アニメはすべて製作側(監督)の想いのまま。実写のような偶然とかはない。風の向きも光の入り方も水の流れも、全て意図したこと」だそうです。
全ての映像に必ず意味がある、とまでは言いません。
手抜きもあれば、妥協もあるでしょう。
でも、「偶然」はないことは理解できます。
「なぜ」「どうして」って細かく観ていくことができれば、さらに興味深い世界があるのではないでしょうか。
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