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あばよ、椅子残しゲーム

齢を重ねるにつれ、
人の死に触れることがぽつぽつ増えます。

この2年くらいでも、
知っていた人が何人か亡くなっています。

長くこの仕事(FP)をしているため、
わたしのお客様でも
(もう)何人もの人が旅立たれています。

たとえば
もう15年くらい、
4月と10月に
定期面談を受けていた人からの連絡が、昨年途絶えました。

「もしや・・」と思って確認してみると、
やはり(すでに)逝かれていました。
(しばらく落ち込みました)。

私たちは
ただ『順番』が違うだけで、
長い目でみれば
みな旅立ってしまうものです。

それは、
映像でイメージするなら、
椅子取りゲームならぬ、
『椅子残しゲーム』のようにわたしには見えます。

あなたがいて、
あなたを見知っている人がいて、
みんな『椅子』に座っていて、
ときに会釈したり、
ときに談笑したり、
ときに不機嫌になったりするのですが、

長い歳月が流れて、
やがて一人、
またひとり、
椅子から立ち上がって離れていくのです。

それが「死」です。

『順番』が違うだけで、
遅かれ早かれ皆、椅子から立ち上がり、
現世から退いていく・・

当り前のことなのですが、
老いに関しては、
私たちは最終打つ手がありません。

自分の周りの椅子はただ空いていくばかりです。

それで
わたしは時々思うのですが、

椅子に
何人か知り合いが座っているうちに、
「じゃあお先に」
サヨナラできるのって、
案外悪いことではないのではないか、と。

妙な表現かもしれません。

逝くのが早すぎると、
かえって周りから驚かれたり、
自身もやりたかったことがまだたくさん残っていたりと、多少厄介かもしれませんが、

ちょうど真ん中あたりで
椅子から立ち上がれれば、
(それは)ままよいことではないかと最近思うのです。

長く生きる。ことに、
自分自身が執着していないからかもしれません。

それに、
あまり長く生き過ぎると、

周りを見渡したとき
椅子に座っている人が誰もいなくなり、
「あれ、ぼく最後?」みたいな状態になってしまいます。

(それはそれでどうなのでしょう・・)

現状分析をしますと、
人は身体だけがより長生きになり、
こころの感覚、
つまり遺伝的に培った記憶的感覚では、昨今の「長生き」にまだ全然適応できていません。

ですので、
何だか宙ぶらりんの
10年20年の時間をやり過ごしてしまう人が、
案外多いのではないでしょうか。

わたしはわりに
田舎のほうに住んでいるのですが、
スーパーマーケットに行くと、
自分では歩けているのですが、
おじいちゃんがひとり
ゆっくりカートを押しながら、

通路の途中、
何かの拍子にふと立ち止まって、
宙を見据えてじーっとしている光景に出くわすことがあります。

身体的に生きてるだけ。というのも、
それはそれで辛いだろうなと感じてしまうのです。

中盤で述べたお客様、

―15年くらい
定期面談で会い続けたお客様―の、
若かった頃を昨晩思い出したりしていました。

それはそのまま、
かつての若かった自分を
思い出すことでもありました。

「死」を間近に感じると、
「生きる」のお行儀の良さについて考えさせられます。

私たちはいろいろと気にし過ぎて、
お行儀よく生きてしまいがちです。

「もっと自分本位にやればよかった」と、
大抵の人は
死の直前に振り返ったりするのではないでしょうか。

タイトル『わたしの人生』

主役・・あなた
脚本・・あなた
監督・・あなた

ですから、
もっと気ままに「脚本」を書いても構わないわけです。

近くの椅子に座っている、
両親や友だちや、
学校や会社に関係する人や、
近所の人たちや、世間という名の人たちも、

やがて、
ひとり残らず『椅子』から離れていくわけですし。

"周りが見えなくなって
気付いたら、こんなことしてたよ。"

という行動こそが、
あなたの本能に基づく行いなのかもしれません。

それをやっておかないと、
『椅子』から立ち上がるとき悔いが残るかもしれません。


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カン・チュンド サポートありがとうございます!あなたのチップがわたしのガソリンです(笑)