映画「平行と垂直」について
1. 劇映画としての手触りとリアリズム
(1) 堺の生活感と関西弁の呼吸
映画「平行と垂直」は、大阪府堺市を舞台に据え、自閉スペクトラム症(ASD)の兄・大貴(安田章大)と、カウンセラーとして働きながら彼を支え続ける妹・希(のん)の関わり合いを描いた作品である。
幼少期に母を亡くし、残された父親は家庭を顧みない無責任な人物である。ふたりは過酷な環境の中でもグレることなく、互いに助け合って真面目に生きてきた。今は同じ屋根の下で暮らしているわけではないが、判で押したように毎週水曜日19時から、兄のアパートで一緒に夕食を食べることになっている。
本作を観てまず引き込まれるのは、全編を覆う空気の自然さである。関西にルーツを持つ俳優陣が話す言葉のリズムや間合いは、作られた台詞の硬さを感じさせない。生活の場としての堺市の街並みと相まって、登場人物たちがその土地で息をして暮らしている実感が無理なく立ち上がっている。 重い主題を扱いながらも、陰鬱な悲壮感に終始するのではなく、日常のちょっとしたやり取りの中にクスッと笑える軽妙さを挟み込む塩梅も心地よい。
(2) 表現者たちの説得力
妹・希を演じた女優のんの佇まいがとりわけ印象に残る。彼女はかつて朝の連続テレビ小説で一世を風靡したのち、業界の複雑な事情によって表舞台から遠ざかる不遇の時期を経験した。
その間、声優、舞台、音楽、映画制作など多様な表現活動を自力で積み重ねてきた歩みがある。 本作で見せる演技には、かつての瑞々しい透明感に加え、ままならない現実に直面したときの苛立ちや諦念、覚悟といった陰影がしっかりと宿っている。逆境を潜り抜けてきた表現者としての厚みが、重荷を背負いながら前を向こうとする妹の姿に確かな説得力を与えていた。
また、作中に登場する少女を演じた子役・河野咲良の演技も見事であった。技巧を誇示するようなあざとさがなく、大人の俳優陣と対等に渡り合いながら、物語に純粋な風を吹き込んでいた。

2. 美談に回収されない「きょうだい児」の葛藤
(1) 呼び名に滲む精神的逆転と「支える側」の疲弊
本作の優れた点は、障害者とその家族を巡る物語を安易な美談や「支え合いの感動物語」に仕立て上げていない点にある。 象徴的なのは、妹が兄を呼ぶ際の言葉遣いだ。劇中で彼女が兄を「お兄ちゃん」と呼ぶ場面はほぼ一回きりで、それ以外は常に「大貴」と名前で呼び捨てにしている。
血縁上は兄であっても、保護者代わりに世話し、社会との間を取り持ってきた歳月の中で、精神的な関係性は事実上「姉と弟」のように逆転してしまっていたのだ。頼るべき兄ではなく、自分が守り管理しなければならない対象として兄を見ていた彼女の無意識が、その呼び名一つに凝縮されている。
妹は兄を心から大切に思い、献身的に世話を焼いている。だが同時に、自らの結婚や独立という人生の転機を前にして、兄の存在を重荷に感じてしまう自分自身に激しく苦悩する。 「自分が家庭を持ったら、兄はどうなるのか」「新しい家族は兄を受け容れてくれるのか」という不安は尽きない。
そして、誰よりも身近に寄り添ってきたはずの自分が、実は心の底で兄のことを重荷に感じていて、兄から離れたいと願っていることに気づいたとき、彼女は「自分こそが一番の偽善者ではないか」と自問自答し、激しい自己嫌悪に陥る。
(2) 「平行」という関係性の獲得
この割り切れない感情から逃げずに描写したからこそ、終盤の展開が観客の胸を打つ。 迎えた結婚式の日、バージンロードを歩む妹の隣には兄が並び立つ。相手側の両親も兄の存在を温かく受け容れている様子が示される。
タイトルにある「垂直」が互いの人生を絡め取り、時に鋭角に衝突する関係を象徴していたとすれば、ラストシーンのふたりは、それぞれが独立した個として同じ方向を向いて歩き出す「平行」の関係に達している。
保護者として抱え込む関係から脱し、ひとりの自立した兄として隣に並んだからこそ、彼女の心にも真の安らぎが訪れたのだろう。もちろん、結婚によってすべての現実的な困難が消え去るわけではない。それでも、共依存や自己犠牲によって共倒れになるのではなく、互いの人生を尊重しながら並走していく地点に辿り着いたことに、この作品が提示する誠実な救いがある。

3. 「でこぼこ」を抱える人間と現代社会の不寛容
(1) 認知のスタイルと社会的な摩擦
自閉スペクトラム症の本質は、病気というよりも「世界の捉え方や情報処理の様式(認知の特性)」の違いにある。
言葉を文字通りに受け取る傾向、文脈や暗黙の了解を察する難しさ、決まった順序や規則性への強いこだわりなどは、その典型的な現れである。 知能の遅れを伴わない場合、高い論理的思考力や特定分野への並外れた集中力を発揮する人物も珍しくない。
かつての映画「レインマン」で描かれた記憶力や計算能力はその極端な例(サヴァン症候群)だが、そこまで特異でなくとも、難関大学を出て高い専門知識を持つ人材が身近な職場に存在することはよくある。
僕自身、銀行時代を振り返っても、有名大学を卒業して高い処理能力を持ちながら、顧客との対人折衝でトラブルを頻発させていた部下がいた。彼は悪気があって無礼な態度を取っているわけではない。曖昧な指示やお茶を濁すような社交辞令が理解できず、事実や規程通りの「正論」をそのまま突きつけてしまうために、相手の感情を逆撫でしてしまうのである。いま思えば、彼も軽度のASDだったのかもしれない。
(2) 曖昧さを嫌う気質とカモフラージュの負荷
白黒をはっきりさせたい、スケジュール通りに物事を進めたい、曖昧で判然としない状態に強い居心地の悪さを感じるといった性質は、程度の差こそあれ僕自身の中にも実は存在する。
僕を含めた多くの人間は、社会や組織の中で波風を立てないよう、素の自分をある程度抑え、周囲の空気やグレーゾーンに合わせて同調しながら生きている。しかし、異なる論理体系で動いている世界に無理に合わせて振る舞い続けることは、本人の精神エネルギーを大きく消耗させる。
人間は誰しもが得手不得手や独特のこだわりといった「でこぼこ」を抱えて生きている。その多様なグラデーションこそが自然な人間の姿であるはずだ。
(3) 早期ラベリングと管理主義への疑問
ところが昨今の教育や社会を見渡すと、幼児期や就学前の早い段階で安易に診断名をつけ、通常学級から特別支援学級へと子どもを振り分けようとする傾向が目につく。
もちろん、早期に特性を把握して本人の困難を軽減し、二次障害を防ぐという支援の意義を全否定するものではない。しかし、現場の効率的な学級運営や管理の都合を優先し、一斉指導からはみ出る者を「病気」として別枠に切り離している側面はないだろうか。
集団を均質に揃えようとすることは、残された側の「普通」の基準をさらに狭め、少しの逸脱も許さない過剰な同調圧力を生み出す。多様な人間が同じ空間で過ごし、互いに摩擦を経験しながら折り合いをつけるという「共生」の学びを放棄して分離を進める行為は、本来のインクルーシブ(包摂)の理念とは真逆の方向へ進んでいるように思えてならない。

4. 結び:本人の幸福を原点に置くということ
ただし、この映画の主人公のようにこだわりや過敏さが極めて強い場合、理解のない通常社会の真ん中に無理やり放り込まれることが必ずしも幸福であるとは限らない。
作中には、体面だけでわかったような口を利く職場の課長や、行動の真意を理解できず誤解に基づき一方的な敵意を向ける人物も登場する。そうした無理解と摩擦の嵐に晒され続けることは、本人にとって耐えがたい疲弊をもたらす。
社会全体の同調圧力を緩め、凸凹を受け入れる柔軟な環境を育てる努力は不可欠である。それと同時に、制度や観念論を押し付けるのではなく、「目の前の一人の人間が、どういう環境で生きるのが最も心穏やかで幸せなのか」という実利的な視点を判断の軸に置かねばならない。
きれいごとの美談を排し、身内のシビアな本音と社会の冷たい現実を直視した上で、人間が心地よく息のできる距離感を描き出した本作は、我々が生きる社会の息苦しさと、その先にある折り合いのつけ方を静かに問いかけている。
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