心励まされる日
なんとなく心励まされるカンタータは、この67番の冒頭の合唱曲。
とくに何の変哲もない、と言ってしまえばそれまでなのだけれども、
明るくて祝福ムードがあって、なんとなく気持ちが上がる感じの一曲なので――
何かあると、このCDをかけて出勤している。
昨年のきょうは、朝これをかけて気持ちを整えようとしていた。
「泣きながら夜を過ごす人にも、
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(詩編30:6・新共同訳)
それを期待していたのだけれど、うまくはいかなかった。
でも……
不思議なことに、夜には整えられることになって、
一日を無事に終えることができたのだよね。
それはもちろん、この曲のおかげということではなく、
祈りが聞かれたから、ということ。
神様は祈りを聞いてくださる。
折に触れて、そのことを思い起こさせてくれるのがこの1曲。
今朝は「過去のこの日」そのものだったので、なおいっそう、
いろいろ思い返すことになりながら、出勤した。
まだまだ道のりは続くけど、神様にはあらためて
感謝することになったきょう、この日。
これからの歩みも、必要なつとめがいっぱいあるんだろう。
想像以上にいやなことも起こるのだろうな。
つらい気持ちも繰り返し抱えることになるだろう。
でも、でも、真摯に正直に誠実に進むしかない。
テーマにしたように「強く雄々しく」いけるかわからなくても、
何があっても逃げずにしっかり向き合えるように、
祈りながら進んでいこう。
あらためて覚悟する。
だって、拾われた命なのだから。
なぜこの日、最後に「拾われた命なのだから」と書いたのか。
もちろんキリスト教的な意味でのことなんだけれども、どうしてだったか。
まあ、少しばかりプレッシャーを感じていた時期だから、そういうことばでまとめたのかも。
この年はとにかく、自分を奮い立たせるよう気持ちを整えて一日を始めていたことが多かったし。
あらためて、バッハの音楽による”効果”を思う。
心を保たせてくれるもの、切り替えさせてくれるもの。
奥底にある喜びを思い起こさせてくれたり、励ましてくれたり――ことばでなくても、その緻密な構成で整然とさせてくれたり。
保守的である自分を意識させられることが多い。イノベーションとか斬新な発想とかができるでもなく、といって、緻密に丁寧な作業ができるでもなく、常に思いだけ。
そういう”常に思いだけ”で、中身の伴わない自分については、みっともなさや情けなさを感じずにもいられない。しかも、そんなこともまた、口にする必要もないのに、ついつい勝手に吐露してしまう。
言い訳じみている――?かもしれない。あるいは自虐的?
ことばにするということで可視化して、自戒する――ことばから受ける衝撃が大きいから、自分のことばで自分を打つ、みたいな。
そんなふうに心のしたのほうでぐるぐる渦巻いた気持ちを、それでもすくいあげてくれるのが、バッハなのである。
そして――この思い出投稿をきっかけに、この67番を聴いてみて、また心励まされ、落ち着かせてもらっている。
