第1話 新しい職場—— 最初の違和感と、胸に刻まれた信条
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◆ 第1話◆ 12:30 駐車場の静けさ 夏の陽射しがアスファルトの上で揺れていた。
加藤元は、約束の時間より少し早く駐車場に着いた。
派遣元の営業マン・貞富も、同じように早めに来ていた。
「お疲れさまです、加藤さん」
貞富はいつものように、当たり障りのない柔らかい声で挨拶した。
彼は派遣社員に寄り添うタイプで、余計なことは言わない。
ただ、静かに横に立ってくれる人だった。
面接は13:10。 二人はほとんど言葉を交わさず、
ただ時間が流れるのを待った。
その静けさが、加藤には心地よかった。
◆ 面接室 ― 張りつめた空気の中で 面接室に入ると、
空気が一段階重くなった。
テーブルの向こうには三名の正社員
―― 冷却技術開発部の重鎮・佐久間、 派遣を軽視する吉口、
そして貧乏ゆすりが癖の飯野課長。
加藤は落ち着いていた。
緊張よりも、ただ静かに状況を観察していた。
「では、加藤さん。SolidWorksの経験について教えてください」
佐久間が口を開いた。
加藤は一度うなずき、言葉を選んだ。
「6年前に最初に覚えた3D CADです。
直近はCATIA V5ですが、職業訓練でSolidWorksを再度学び直しました。
ブランクはほぼ埋まっています」
吉口が、どこか威圧的な声で続ける。
「前職ではどんな業務を?」
「自動車部品の吸排気系です。
配管図面も問題ありません。
それと……IDEA‑Xの実務経験もあります」
三人の表情がわずかに動いた。
経験値は十分だと判断したのだろう。
飯野課長が言った。
「冷却機の開発業務を担当していただきます。
旧機種の図面改正、新機種の開発もあります」
加藤は静かにうなずいた。
自分の力が活かせる――そう感じていた。
◆ 入社日の朝 ― 不安と責任 入社日の朝。
母が突然、体調不良を訴えた。
「今日はいくら何でも休めないよ……」
加藤は迷いながらも、姉に電話した。
しかし姉も今日は来られないという。
加藤は、できる限りの準備をした。
複数のグラスに飲み物を入れ、
ストローを差す。 パンの袋の端を切り、
すぐ食べられるように置く。
薬のパッケージを破り、飲みやすいように並べる。
「ごめん、母さん……行ってくる」
母は弱い声で、それでも笑った。
「私なら大丈夫だから!」
その言葉に背中を押されるように、
加藤は家を出た。
◆ 新しい職場 ― 最初の違和感と、胸に刻まれた“信条”
派遣元の貞富から簡単な説明を受け、
引き渡しが完了した。
今日から加藤は、冷却機の開発部門で働くことになる。
朝のラジオ体操。
グループソングは毎日三回流れる。
朝、昼、そして終業時。
入社したばかりの加藤には、
その独特な習慣がどこか不思議に映った。
特に冷却技術開発部では、
昼のグループソングが終わると必ず昼礼が始まる
。
その日の担当者が前に立ち、
信条・七精神 を読み上げる。
続いて、全員で復唱する。
担当者の声が響く。
「向上発展は各員の和親協力を得るに非ざれば得難し。
各員至誠を旨とし、一団結社務に服すること。」
加藤は、その言葉を静かに聞きながら思った。
(……この言葉とは裏腹な人が多いな)
初日から、胸の奥に小さな違和感が灯った。
そして同時に、
加藤は自分の胸に刻んできた“信条”を思い出していた。
――人が見ていなくても、正しい仕事をする。
それが、俺の生き方だ。
この信条は、後に彼の人生を大きく動かすことになる。
◆ 午後 ― 最初の衝撃 午前中は入社説明などを受け、
午後から業務に入った。
加藤は早速、正社員に質問した。
「SolidWorksを使用するにあたり、
図枠などの初期設定はどうなっていますか?」
正社員は首をかしげた。
「初期設定とは?」
加藤は丁寧に説明した。
「JIS規格の図面枠です。
フォント3.5mm、線の太さ、
寸法矢印……図面を作るための基本設定です」
正社員はあっさり言った。
「それならDXFで用意したものを使いますが?」
加藤は言葉を失った。
(……DXF? 図面枠を?
いや、それ以前に“初期設定”という概念が無いのか?)
胸の奥に、冷たい違和感が広がった。
「図面データを見せてもらえますか?」
返ってきた答えは、さらに衝撃だった。
「CADデータは無いんです。
とりあえず、これでやってください」
紙図面のコピー、差し金、鉛筆。
(……まさか、本当にこれで設計しているのか?
正社員たちは“真面目に仕事をする気”があるのか?
いや、それ以前に“設計”という概念を理解しているのか?)
紙図面の数字だけを書き換え、
下請けに流す。 そんなやり方が、
大手電機メーカーで堂々と行われている。
加藤は静かに息を吸った。
(俺がSolidWorksを立ち上げて、この現場を変えてみせる)
誰もやらないなら、自分がやるしかない。
その瞬間、加藤の中で“戦いのスイッチ”が入った。
◆ 入社初日の夜 ― 小さな安堵 仕事を終え、
加藤は急いで帰宅した。
朝の母の様子が頭から離れなかったからだ。
玄関を開けると、母は思ったより元気そうだった。
その姿に、加藤は胸をなでおろした。
「今日は手巻き寿司と唐揚げ、買ってきたよ」
袋を広げると、母の顔がぱっと明るくなった。
加藤は手巻き寿司を一つ取り、母の口元へ運んだ。
一口食べた母は、まるで力が戻ったように笑った。
「……おいしいねぇ。ビールも飲みたいなぁ」
加藤は吹き出した。
「飲むのかい。さっきまで具合悪かったんじゃ……」
母は照れくさそうに笑い、
気づけば食卓はいつものように賑やかになっていた。
(よかった……本当に、よかった)
心の底から湧き上がる安堵。
明日は姉が来てくれるという。
それだけで、加藤の肩の力は少し抜けた。
新しい職場の不安。 母の体調への心配。
それでも、この夜だけは穏やかだった。
加藤は静かに箸を置いた。
