創作大賞恋愛小説部門「それでも、あなたが好きだった」①
【あらすじ】
47歳の夏美は、夫・光治と二人の娘に囲まれ、穏やかな毎日を送っていた。しかし心の奥には、23年前に別れた初恋の人・亮へのおもいを、誰にも打ち明けられないまま抱え続けていた。そんなある日、青山で亮と運命の再会を果たし、止まっていた時間が再び動き始める。再燃する恋心、家族への罪悪感、そして変わらぬ優しさで寄り添い続ける夫・光治。さらに、青山と原宿が力を合わせて神宮の森を守る街づくりを進めるなかで、夏美は過去と現在、初恋と家族の狭間で揺れ動く。やがて彼女は、亮との再会が失った恋を取り戻すためではなく、23年間胸にしまい続けた初恋に自ら終止符を打ち、今ある幸せを心から大切にして生きていくための時間だったことに気づく。青山・原宿を舞台に描く、大人の切なくも温かな恋愛小説。
別れても、好きな人。
そんな言葉、まるで昔の歌謡曲の一節みたいだけど、23年経った今でも、私の心の奥には、岡本亮がいる。
亮は、私の初恋の人だった。
19歳のときに付き合い始めて、3年続いた。
今でも心に残る、小さな刺青のように、亮の存在は消えずに刻まれている。
私は原宿で生まれ育った。
明治通りを一本入ったところにある、古い公団住宅の5階が実家だった。
小さな頃はキャットストリートを秘密基地みたいに駆け回り、竹下通りの人混みを“ジャングル”と名付けて探検していた。
亮は、隣街の青山に住んでいた。
青山の公立中学で出会い、同じクラスになった。
彼はその後ロンドンへ渡り、一流のテーラーとして世界的に活躍するようになった。
雑誌やテレビにも取り上げられるほど、腕もルックスも兼ね備えた人だった。
私は地元で就職し、結婚して、娘を授かった。
今は原宿で、家族と平穏な日々を過ごしている。
なのにいまでも私は、亮のSNSをこっそりチェックしてしまう。
そして、つい先日、知ってしまった。
亮が一週間前に帰国し、青山に戻ってきたことを。
〝もう忘れた〟と思い込んでいた気持ちが、まるで嘘だったかのようにぶり返した。
亮に会いたい。
どうするつもりかなんて、自分でもわからない。
でも、会いたい。できれば、偶然を装って。
いや、偶然を装うしかない。
23年ぶりに、いきなり「会いたくて来ちゃいました!」なんて昔付き合っていたアラフィフ女が言ったら、ホラーでしかない。
だから考えた。
偶然をいかに必然に近づけるか。
いかに「えっ、うっそ~?こんなところで?」感を演出できるか。
亮のインスタの投稿に 〈#帰国しました #朝のルーティン復活 #神宮の森にて #この場所が好きだ〉とあった。
そのインスタから、亮が神宮外苑のイチョウ並木で毎朝行われている、ラジオ体操に参加していることがわかった。
私が考えた亮との偶然の再会のシナリオは、愛犬のチョコレート色のトイプードルのショコラとの散歩。
住んでいる原宿から、神宮外苑のイチョウ並木まで歩いて20分。
問題はただひとつ。
47歳の私が、奇跡的に“自然に美しく”見えるかどうかだった。
「どうせ犬の散歩だし、すっぴんでもマスクすれば平気」なんて考えは、このミッションには一切不要。
だから肌も抜かりなく整えた。
エステに駆け込んで「今週中に仕上げたいんです!」と謎のプレッシャーをかけ、3日連続で通った。
メイクは「すっぴん風美人メイク」のYouTubeを何本も繰り返し再生し、目を皿のようにして研究した。
ファンデーションは薄く、でも下地とコントロールカラーで光を仕込み、チークと眉毛は“血色と抜け感”を意識。
目指すは――「若い!年齢不詳の47歳」。
わかってる、自意識過剰って思われるかもしれない。
でも、これだけは譲れない。
“偶然の再会”に、最高の自分で挑みたかった。。
何を着てくかも真剣に悩んだ。
気負わず、でも抜かりなく。
そんな“偶然”の再会にふさわしい服を探していた。
原宿のスポーツウェア専門店で、店員さんに言った。
「自然に若く見えて、清潔感があって、上品で、でもラジオ体操に浮かない服ください」
我ながらめんどくさい客だと思ったけど、店員さんはプロだった。
出てきたのは、薄手のアイスグレーのパーカーとネイビーのジョガーパンツ。
「これなら40代後半でもスッキリ見えますよ」
うん、うれしいけど、そこハッキリ言わないでほしい。
家に帰って着てみたら、なんかちょっと……いい感じゃない?
靴はランニング用の軽いスニーカー。
新品だけど、靴底をちょっとこすって「履き慣れてます感」を演出した。
目覚ましを5時にセットしていたけれど、結局、興奮と緊張でほとんど眠れなかった。
2時、3時、そして4時。
まだ隣で眠っている夫の光治を起こさないよう、そろりとベッドを抜け出した。
リビングのソファで眠っていた愛犬のショコラに 「おはよう。今日は、大勝負よ」と声をかける。
ショコラはつぶらな黒い瞳をあけて、片耳だけぴくりと動かしながら、ふわふわの巻き毛に覆われた小さな体を眠たげにソファで丸まっている。
念のため、ショコラの首輪も“ちょっとよそ行き”のチェック柄にチェンジして、リードもきれいに拭いた。
全身を鏡の前で最終チェックして、「いいじゃん!完璧!」とひとり突っ込みながらも、これから亮に会えるかもしれないと思うと、心臓はどんどん早鐘を打っていた。
「ショコラ、いい? 自然にね」と自分に言い聞かせるように呟く。
4月の朝5時すぎ、まだ街は静かだった。
原宿の自宅をそっと出て、私はショコラと一緒に歩き始めた。
外苑前の裏手、神宮前五丁目の交差点を抜ける頃には、空がほんのり明るみはじめていて、街路樹の若葉が風に揺れている。
軽やかな足取りのショコラのリードを握りながら、私は胸の奥がじわじわと熱を帯びていくのを感じていた。
これから亮に会えるかもしれない――そう思うだけで、心臓が何度も跳ね上がる。
亮は青山にある老舗紳士服のテーラーの3代目で、中学のときの亮は、まさに“学校のヒーロ”だった。
長身で、均整の取れた体つき。
目元はすっと切れ長で、どこか涼しげ。
少しだけくせのある髪が、風に揺れるたび無造作に整ってしまう。
制服の着こなしも、なにげなくボタンをひとつ外していたり、シャツの袖を少しだけまくっていたりして、それだけで周囲がざわついていた。
教室の窓際に寄りかかっているだけで、ひとつの絵になった。
話し方も無駄がなくて、ふっと口元でだけ笑うあの感じ――ちょっとすかしたところがまた、女の子たちの心をわしづかみにしていた。
亮の背中を追って、放課後のサッカー部の試合を観に行った子は、私だけじゃない。
でも亮は、誰とも付き合わなかった。
噂だけが先走って、「好きな子が海外にいるらしい」とか「本当は芸能事務所にスカウトされた」とか、いつもなにかしらの憶測に包まれていた。
そんな亮の横顔を、いつも教室の後ろから見ていた。
その想いを胸に秘めたまま別々の高校に進み、大学に入っても、やりたいことも将来の目標も見つからずにいた。
大学が休講になった午後、人の多い竹下通りを避けて、なんとなく神宮の森のほうへ歩いていた。
目的なんてなかった。ただ、どこか落ち着く場所を探していたのだと思う。
神宮の森の奥の、小道を曲がったところにある広場。
そこに、一本だけ、堂々とそびえる大きなクスノキがある。
中学のとき、生徒たちの間で“神の木”って呼ばれていて、テスト前に触ると点数が上がるとか、好きな人の名前を唱えると両想いになるとか――そんなくだらない話で盛り上がっていた伝説の木。
その木が少し先に見えて、懐かしさに足を止めた。
そして、ふと、その木に持たれるように座っている男性にが目に留まった。
白いTシャツにジーンズ、風にふわりと揺れる少し茶色がかった髪。
クスノキの幹に寄りかかるその姿に、まさか、と心臓がひときわ強く打った。
亮だ。
中学を卒業してから何年も忘れようとしても、忘れられなかった初恋の人。
話しかけることすらなかったのに、毎日、彼の笑い声や歩く後ろ姿を、胸を締めつけるような思いで見ていた。
そんな亮が、今、目の前にいる。現実味がないほど自然にそこにいる。
一歩、また一歩と近づいた。
けれど、膝が少し震える。
心臓はうるさいくらいに脈打ち、喉が渇いて何も言えなくなりそうだった。
話しかけていいの? どう思われるだろう? 私のこと、覚えてるわけないよね。
頭の中に渦巻く不安を、勢いで押しのけた。
「……あの、岡本くん?」
声が震えていた。けれど、それでも目の前の亮に、ちゃんと届くように名前を呼んだ。
亮がゆっくりと私を見た。
そのとき、風が通り抜けて、亮の前髪がふわりと揺れた。
数秒の沈黙のあと、亮の目が細められ、ほんの少し驚いたような笑みが浮かんだ。
「……えっと、近藤さんだっけ?」
名前を呼ばれた瞬間、胸の奥にずっと押し込めていた何かが、じんわりと熱を帯びて広がっていった。
「……うわ、びっくりした。久しぶりすぎて、誰かと思った」と亮は笑って言った。
昔よりも少し痩せたようで、でもその分、輪郭がくっきりして大人っぽくなっている。
明るすぎない髪が額にかかり、影を落としていた。
「どうしてここに?」
「たまたま。そっちは?」
「俺も、たまたま」
笑って言いながら、亮は目を細めた。
「岡本くん、サッカーやってるの」
何を話していいか話題が見つからず、唐突に聞いていた。
亮の目が少しだけ遠くを見たようになり、小さく笑って言った。「サッカーは……もうやってない」
ぽつりとこぼれた言葉に、言葉を失った。
「ケガ、してさ。試合中に膝やっちゃって。プロチームへのオファーも、全部白紙。今は父さんの店、手伝っているんだ。俺の家、紳士服の仕立て屋なんだ」
もちろん、あの店のことはよく知っていた。
青山の骨董通りの一角にある、小さな真鍮の看板と深緑の木製ドアが目印の仕立て屋。
通りに静かに溶け込みながらも、不思議と視線を引く、そんな空気をまとった場所だった。
何度も、亮に会えるかもしれないと思って、店の前を通った。
大きな窓越しに見えるのは、整然と並んだ布地の棚と、黙々と作業する職人たちの姿だったけど。
亮は静かに言葉を継いだ。
「子どもの頃は、まったく興味なかったんだ。ボタンの並べ方ひとつに時間をかけたり、生地を撫でながらうんうん唸ったり。何が楽しいんだろうって思ってた」
クスノキの幹に背を預け、視線を空にあずけるように続ける。
「でもさ、ケガして何もできなくなって……毎日が真っ白で、時間が止まったみたいだった。そんなとき、たまたま父さんの仕事場に顔出したんだ。生地の触り心地とか、糸の色を選ぶ手つきとか。あんなに真剣な顔、初めて見た気がした」
亮の声が、少しだけ遠くなる。
「それで、やってみたくなったんだ。今は職人として修行中」
亮は少し照れたように笑って、足元の石をコツンと蹴った。
「やってるうちに、気持ちが落ち着いてきてさ。バラバラだった自分が、少しずつつながっていく感じがした。思いがけない形だけど、これが自分の新しい目標になったんだ」
中学時代に憧れていた“ヒーロー”が、いま、弱さを隠さずに立っている。
壊れた夢のあとに、新しい光を見つけた姿で。
小さく息を吸って 「似合ってると思うよ。岡本くん、きっとかっこいいテーラーになるよ」
亮は驚いたように目を見開いて、それから、ほんの少しだけ照れたように笑って「ありがとう。そんなふうに言ってもらえると、救われる」
気がつけば、並んで歩きながら話していた。
木々の影が足元に揺れていて、いつのまにか、自然と距離が縮まっていた。
それから、連絡をとるようになり、何度か会って、ごく自然に、付き合うようになった。
あんなに憧れて、胸が苦しくなるほど好きだった人と、手をつなぎ、並んで歩ける日が来るなんて。
夢みたいだった。
いいえ、夢以上だった。
まぶしくて、届かないと思っていた亮が、今は私の隣にいる。
笑い合い、名前を呼び合い、他愛もないことでふざけ合える日々。
人生で、これ以上の幸せがあるなんて想像できなかった。
もう何もいらないって、あの頃の私は、本気でそう思っていた。
けれど、幸せな時間は、いつまでも続くわけじゃなかった。
亮がロンドン行きを決めたのは、付き合って3年目の春だった。
「……そっか。じゃあ、好きにすれば」
そう言い放ったあと、自分の声が思ったよりずっと冷たくて驚いた。
まるで他人の言葉みたいだった。
胸の奥では、音もなく雷が鳴っていた。
気づかれないように、誰にも見えないように、私の中だけで土砂降りの雨が降っていた。
肩先も膝もなにもかも濡れて、重たくなっていく気がした。
笑おうとして口元を引き上げたけれど、それもうまくいかなかった。
つり上がった唇が、ひどく情けなかった。
亮は、少しだけ目を伏せて、それから顔を上げた。
「……そっか。うん、そうだよな」
いつもより少しだけ低い声だった。笑おうとしたのか、唇の端がわずかに動いたけれど、笑顔にはならなかった。
「なんか、ごめん。勝手に決めて」
そう言って、亮は視線をそらした。
その横顔が、思ったよりずっと遠くに見えた。
「――挑戦したいんだ。後悔したくないから」
静かに言ったその言葉に、頷くこともできなかった。ただ、黙って亮を見つめるしかなかった。
今すぐにでも「行かないで」って言えたら、どんなに楽だったろう。
でも、あのときの私は、自分の素直さよりも、自尊心のほうが少しだけ勝っていた。
それからの数日間、いつもより少し遅く起きて、ぼんやりとトーストをかじった。
口の中でパンが砂みたいにほどけて、喉を通らなかった。
亮からは連絡がこなかったし、私も意地をはって、連絡をしなかった。
亮とよく歩いた神宮の外苑の並木道。
陽の光は相変わらず優しくて、街路樹の影が舗道に揺れていた。
春の風は、なにも知らない顔で頬を撫でる。
亮に「行かないで」と言えなかった自分。言わなかったくせに、亮が本当に行こうとしていることに腹を立てている自分。その矛盾が、ぐるぐると胸の中で渦を巻いていた。
心が少し離れたまま、亮はとうとうロンドンに行ってしまった。
ロンドンに行った亮とは、最初のうちは数日に一度、連絡を取り合っていた。
「そっちはどう?」とか、「今日の仕立て、上手くいったよ」とか。亮の生活の断片が、少しだけ私の日常にも差し込んでくるのが、うれしかった。
私はその年に大学を卒業してから、都内の広告代理店で働いていた。
毎日が慌ただしく、分刻みのスケジュールと怒鳴り声と終わらない仕事に囲まれた生活。
華やかな業界のように見えて、実際は心がどこかに置いてけぼりになる仕事だった。
そんな仕事の合間に、職場での出来事や、ちょっとした笑い話を送った。
返信はすぐじゃなくても、数日以内には必ず返ってきたし、声が聞きたいときには電話もできた。
だけど、その「2、3日に一度」が、いつの間にか1週間になり、
「またこっちから連絡するね」という言葉のあと、次のメッセージが届くまでの時間が、じわじわと延びていった。
忙しいのはお互い様だった。
慣れない仕事に追われる毎日だったし、亮も、職人の世界で一からやり直している最中だった。
でも、理由なんて本当は関係なかったのかもしれない。
“離れている”という事実が、じわじわと心に染みてきて、それを埋めるための言葉も、やがて面倒になっていく。
メッセージを打つ指が止まるたび、問いかけていた。
これを送って、何になるんだろう?
亮の一日に、私の言葉が必要なんだろうか?
そうして、いつのまにか連絡は、義務でもなく、習慣でもなくなり――気づけば、ただの「思い出」に変わりつつあった。
それでも、どこかで期待していた。
また、ふとした拍子にメッセージが届くんじゃないかって。
ロンドンの夜風の中から、「会いたい」って一言だけでもいいから、聞こえてくるんじゃないかって。
だけど、それはもう、ずっと届かないまま。
じんわりと、でも確実に、終わりに向かっていた。
そんなときだった。中学のクラス会の誘いが来たのは。
場所は、表参道のビストロ。
懐かしい顔が並ぶ中で、ほとんど話したことがなかった、近藤光治がじっと見つめる視線を感じた。
当時から少しふっくらしていて、どこか柴犬に似た、やさしい目をした男の子。
気づけば光治と一番長く話していた。
その日をきっかけに、何度かふたりで会うようになった。
カフェでお茶を飲んだり、コンサートや映画を観に行ったりした。
光治と一緒にいると不思議と呼吸が楽になったし、とても居心地が良くて、その時はロンドンに行った亮を忘れることができた。
「気づいてなかったと思うけどさ、中学のころからずっと、近藤さんのこと見てたよ」
そう言われたとき、素直にうれしかった。
でも、うれしいと同時に、どこかで申し訳ない気持ちにもなった。
私は今も、亮の影を追っている。
そんな私に好意を寄せるなんて、やさしすぎる人だ。
ある朝、仕事に向かう駅の階段の途中で、突然足が動かなくなった。
頭が真っ白になって、視界がかすんで、何も考えられなかった。
電車に乗れず、そのままベンチに座りこんだ。携帯を握ったまま、動けなかった。あとから思えば、あれは軽い心身症のようなものだったのだと思う。
理由はうまく言葉にできなかった。ただ、「何かが終わった」気がした。体よりも先に、心が悲鳴をあげていた。
退職届を出すと上司に「考え直せ」と言われたけど、もう無理だった。
そして、どこかへ行きたかった。
できることなら、いちばん大事だった人に、もう一度会いたかった。
だから迷わずロンドンに向かった。
ただ亮に会いたかった。
ヒースロー空港のロビーで、私は小さく折りたたんだ地図と、ノートに書き写してきた住所を取り出す。
心細さを押し隠すように、それをぎゅっと握りしめて、まるで綱渡りのような気持ちでタクシーに乗り込んだ。
運転手に紙を見せると、一度だけ「OK」と短くうなずき、無言のまま車を走らせた。
窓の外に流れていく異国の景色。どの建物も、道も、空の色さえも、どこか遠い物語の中に入り込んだようだった。
そして、サヴィル・ロウの通りに入った瞬間――私は息をのんだ。
古い石造りの建物。控えめなウィンドウディスプレイ。スーツ姿の紳士たちが足早に通り過ぎていく。
その一角に、目当ての店はあった。
金色の文字で「W. Laughton Tailors」と黒いアイアンの看板がクラシックでいて、どこか凛とした空気をまとっていた。
ためらいがちにガラス越しに中をのぞきこんで、 ドアを開けた瞬間、あの匂いがした。
昔亮の実家の店に行ったとき、ふと香った布とアイロンの匂い。
何年も経った今も、私の中に確かに残っていた。
奥から現れたのは、亮だった。
白いシャツの袖をまくって、メジャーを首にかけたまま、亮は私を見て、ほんの数秒だけ時が止まった。
「……夏美?」
その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられるように痛んだ。ああ、私、やっぱりこの人が好きなんだ。そう思った。
「急にごめん。ロンドンに来てて……会えるかどうかわからなかったけど、どうしても……」
言葉がうまく出てこなかった。緊張で喉が渇き、心臓の音ばかりがうるさかった。
「来てくれて、うれしいよ」
亮はそう言って、少し照れくさそうに笑った。その笑顔を見ただけで、来てよかったと思えた。
飛行機に乗って、1年ぶりかの亮に会うためだけに、ここまで来た意味が確かにあった。
「仕事、終わるまで、ちょっと待っててくれる?」
石畳の通り、アンティークショップ、花屋のハーブの香り、ロンドンの街並みはすべてが新鮮で、歩くだけで心が弾んだ。
でも、心の中はずっと亮のことでいっぱいだった。
亮もこの道を歩いたのかな。
お気に入りのカフェはこの辺りにあるのかもしれない。
見える景色すべてが「亮のいる街」として輝いて見えた。
不思議と不安はなかった。ただ、亮に会える――その思いだけで、胸が熱を帯び、足取りが自然と軽くなっていった。
夕方、指定されたカフェの窓際席に着いた。
ミルクティーをひと口飲むと、落ち着くどころか、心臓の音がやけに大きく聞こえた。
ドアのベルが鳴って、思わず顔を上げると「……久しぶり」
そこに立っていたのは、もう“知っている”亮ではなかった。
白いシャツに黒いジャケット。前髪をすっとかきあげた仕草。整えられた無精髭が、亮を少し大人びさせていた。
「変わってないな、夏美は」
亮がとにかく眩しかった。
見慣れた顔なのに、知らない時間が積もっていた。
声が出せずに、ただ小さく笑うしかなかった。
そのあと、2人で歩いた。
亮のおすすめの店で食事をしながら、仕事の話を聞いた。
目を細めて語る横顔が、まるでこの街の一部みたいに馴染んでいて、うれしいような、寂しいような、不思議な感情が胸に広がっていった。
「今日は……うちに泊まっていく?」
何も考えられなくなって、ただうなずいた。
亮の部屋は、思っていたよりも質素だった。
白い壁に、無造作に置かれた型紙とステンレスのマグカップ。ミシンの横には、使いかけの糸巻きが転がっていた。
その夜、私たちは身体を重ねた。
すべてを忘れてしまいたいほど、夢中だった。
そして心の奥底で、「これでまた、やり直せる」と信じていた。
昨日の夜、私たちはすっかり恋人に戻った気でいた。
触れあう指先も、見つめあう目も、何もかもがあたたかくて、あの頃の続きを確かに感じていた。
だから当然今日も、このままずっと、一緒にいられるのだと思っていた。
頭が真っ白になった。何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
昨夜の笑顔も、ぬくもりも、すべて幻だったの?
胸の奥がぎゅっと縮こまり、息が詰まりそうになった。
「……彼女?」
かろうじて絞り出した声は、かすれて震えていた。
亮は困ったように笑って、視線を逸らした。
「ごめん……」
体が冷えていくのを感じた。寒さなんてないはずの部屋で、私はひとり、見えない氷のなかに閉じ込められたみたいだった。
呼吸の仕方がわからなくなった。自分の指先の温度さえ、感じられなかった。
「うそ……だよね? じゃあ、昨日のことは……?」
私は取り乱していた。涙が止まらなかった。
亮の顔が歪んで見える。悔しくて、情けなくて、どうしてこんなふうにしかなれなかったんだろうと、自分を責めた。
「ごめん……ほんとに。久しぶりに会えて。うれしかったよ。でも……いまの俺の生活は、もう……」
「……言わないで」と唇を震わせながら、亮の言葉を遮った。
これ以上聞いたら、もう本当に壊れてしまいそうだった。
昨日の夜のぬくもりが、まるで夢の中の出来事みたいに遠のいていく。
あたたかかったはずの手が、今は冷たく感じられる。
カーテンの隙間から射す朝の光が、どこまでも無情だった。
黙って荷物をまとめた。
昨夜脱ぎ散らかしたままのブラウスも、全部適当にバッグに押し込んだ。
靴を履きながら、喉の奥がつまって、息をするたびに胸がきしんだ。
吐き出せない気持ちが喉元に溜まって、うまく呼吸さえできなかった。
部屋のドアを閉めるとき、亮は何も言わなかった。
後ろを振り返ることもできず、 階段を降りながら、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
頬を伝って顎まで落ちて、それでも私は、ただ歩くことしかできなかった。
ロンドンの空が、こんなにも冷たかったなんて知らなかった。
昨日まで、あんなにも柔らかくて、希望に満ちていたのに。
タクシーを拾い、「空港までお願いします」と伝えた。
車が走り出すと、張りつめていたものが一気にほどけたのか、涙があとからあとからあふれてきた。
声を殺して泣いても、頬を伝う熱は止まらなかった。 どうしてここに来たんだろう。どうして期待なんてしたんだろう。
私はただの過去の女だった。それも、亮の“今”には必要とされていない。
惨めだった。情けなかった。あんなにも亮を想っていたのに、私の居場所なんて、どこにもなかった。
出発ロビーで、震える指で光治に国際電話をかけた。
「今、ロンドン。……これから帰国するの。明日の夕方、成田に着く〇〇便に乗るから。迎えに来て」
時差のことなんて考えていなかった。
光治は眠っていたみたいだったけど、私は一方的に便名を告げて電話を切った。
助けて、なんて言葉は使えなかったけれど、もうひとりで立っている自信がなかった。
ロンドンから戻った空港の到着ロビーで、光治の顔を見た瞬間、ふっと力が抜けた。
「おかえり」
短くそう言って、私のスーツケースをさっと受け取ると、光治は何も聞かずに車に乗せてくれた。
後部座席のドアを開けたとき、助手席に置かれていた小さな花束が目に入った。
白と薄いピンクのガーベラ。
気を遣わせてしまったと思うと同時に、胸の奥にひやりと冷たい風が吹いた。
帰ってきてしまった。いや、逃げてきてしまったのだ。
「この近くにホテル、取ってある。今日はもう、ゆっくりしたほうがいいよ」
光治の優しい声が、突き刺さった。
何も言えず、ただうなずくしかなかった。
夜が深まるにつれて、ホテルのベッドの上で何度も寝返りを打った。
頭の中では、亮の顔と言葉が何度もリフレインしていた。
「彼女が来るから、今日はちょっと……」
その言葉の断片が、刺のように胸にひっかかったままだ。
このままじゃ、壊れてしまう。
そう思ったとき、思わず部屋を出ていた。
パジャマのまま、隣の部屋の扉をノックした。
光治がドアを開けたとき、私は何も言えなかった。
ただ、必死で涙をこらえていた。
「……入っていい?」
彼は何も聞かずに、黙ってうなずいた。
部屋に入ると、私はその場に崩れるように座り込んで、とうとう堪えていた涙があふれた。
しゃくりあげながら泣く私の肩を、光治は静かに包み込んだ。
「大丈夫。泣いていいよ」
そう言った光治の手は、あたたかくて、何も求めてこなかった。
ただ、ここにいるよと伝えるように、優しく背中をさすってくれた。
私はわかっていた。光治が、ずっと私を想ってくれていたこと。
でも、私は亮を忘れられない。
亮がいまでも大好きだ。
それでも、今夜だけは、誰かのぬくもりに触れて、自分を保ちたかった。
「……ごめんね」そう呟くと、光治はかすかに微笑んで首を振った。
「いいよ。何も言わなくて」
光治の唇が、そっと私の涙を拭った。
私たちは、ゆっくりと、けれど自然に体を重ねた。
それが恋だったとは、今も思わない。
けれど、あの夜、私はようやく自分の重さを誰かに預けることができた。
壊れた心の破片を、光治が黙って抱きしめてくれた。
そして私は、その空洞を埋めるように光治と付き合いはじめた。
そしてすぐに妊娠がわかった時は正直なところ、戸惑いのほうが大きかった。
光治は私の心にまだ亮の影が残っていることに気づいていたはずなのに、それを責めることなく、静かに私を迎え入れてくれた。
そして光治とすぐに結婚式を挙げて、光治の実家に移り住んだ。
光治の実家は原宿で花屋を営んでいて、10年前に建て替えられたビルの9階に、私たち家族は暮らしている。
上の10階には義父母が住み、1階にはリニューアルされた花屋と、併設されたカフェスペース「はなのきカフェ」がある。
ふたりの娘にも恵まれ、優しい家族に囲まれて、何ひとつ不自由のない、穏やかな毎日。
それはまるで、真綿にくるまれているような安心とやすらぎに満ちた時間だった。
何しているの、私……。
神宮の森までの道のりを急ぎながら、何度も自分に問いかける。
どうして、23年前に別れたきりの、もう過去の人に、こんなにときめいているの?
亮に会いたい。声が聞きたい。
今の亮にどうしてももう一度この目で見たい。それだけ。
本当にそれだけなの?
胸の奥がずっとざわざわしている。
光治のことを思うと、罪悪感で押しつぶされそうになる。
光治は何も言わずに、私の全部を受け入れてくれた人だ。
亮の影が消えていないことも、私自身がごまかしていることも、きっと気づいていた。
それでも、私を選んでくれた。
「なのに……」
私は、今、光治を裏切ろうとしている?
そう思った瞬間、胸がぎゅっと締めつけられる。
でも、歩みは止まらなかった。
止まれなかった。
会いたい――ただ、それだけの想いに突き動かされて、神宮の森へと足早に向かっていた。
ショコラが軽やかに前を歩く。その小さな背中に「行こうよ」と急かされている気がして、私はまた一歩、亮のいる場所へと近づいていく。
午前6時の神宮の森はやわらかな春の光に包まれていた。
イチョウ並木には若葉が芽吹き、朝の風に揺れている。
淡い緑が光を受けてきらきらと輝き、並木道に落ちる木漏れ日が静かに揺れていた。
空はうっすらと水色にほどけ、さわやかな空気が心地よく頬をなでていく。
ラジオ体操まではまだ30分あるというのに、会場付近にはすでに常連らしきご老人たちが何人か集まり、ベンチに腰かけて井戸端会議を始めている。
ショコラを連れてそのあたりを何気なく――いや、かなり入念に――ウロウロしていた。
「ただの早朝の散歩です」という顔をしながら、心の中では〈亮はいつ来るの?どこから来るの?〉と全神経を張りつめて、狩りのチーターのように周囲を見張っていた
ショコラは私の落ち着かない気配なんてお構いなしに、鼻をピクピクさせながら草むらに夢中だった。
そして、その瞬間は、ふいにやってきた。
「あっ……」
遠くから、亮が歩いてくる。
亮はチャコールグレーのトレーニングジャケットに、細身のブラックジョガーパンツ。
足元はクリーンな白のランニングシューズ、頭にはキャップ。
どこにでもいそうな朝の運動スタイルなのに、どこか洗練されていて目を引く。
無駄のないその動きや佇まいに、ロンドンでの年月が滲んでいるようだった。
変わったようで、でもちゃんと“亮”だった。
亮はこちらにはまったく気づかない。
そりゃそうだ、私はいまや47歳。
私は心臓のドラムロールを必死に押さえつつ、静かに亮の方向へ歩いた。
そして、そのとき、救世主が動いた。
ショコラが、ツツツっと亮にすり寄っていったのだ。
しかも、愛想のいい尻尾フリフリモードで、亮の足元にまとわりつくという神演出。
「ショコラ、こら、だめでしょ……」と小さく声をかけながらリードを引くふりをして、私はそっと顔を上げた。
「……亮?」
亮も私を見て「……え? ……なつみ……? 近藤……夏美?」
亮は声にしながらも目を丸くして、少し間を置いて、パッと笑って「えっ、なんでここに?」
「亮こそ!」
ふたり同時に声を上げて、思わず顔を見合わせたあと、少しだけ笑いがこぼれた。
「まさか夏美と会えるとは思ってなかった。……何年ぶりかな?」
「23年、かな」
「……そんなに経ったんだな」
私はにこっと笑いながらも、心の中では膝をついて〝作戦成功!〟とガッツポーズしていた。
ラジオ体操の音楽が鳴るまでの間、私たちは軽く近況を話し、体操が終わったあと、楠の木の下へと自然と足を運んだ。
そこは昔、付き合うきっかけとなった思い出の場所。
「父が膵臓癌で余命宣告を受けてね。店はもう畳むって言われたんだけど……この土地も、父の店も、どうしても放っておけなかったんだ」
亮はそう言って、少し遠くを見るような目をした。
続けて、神宮の森の話を始めた。
「著名な音楽家のSNSで、ここの並木道が再開発で失われるって知ってさ。ここって、俺にとって家族と同じくらい大切な場所なんだ。だからロンドンから帰ってくることにした」
まっすぐで誠実な亮の言葉に、胸がじんとした。
「それで、夏美は今は原宿に住んでるんだ? 近いなあ。近藤光治って、あの中学同級生と結婚したんだね」
亮はそう言って、心から祝福するような笑顔を見せた。
うん、そうね。ありがとう。幸せだよと、ちゃんと笑いながらも、ズクンと胸が痛んだ。
なんでそんな無垢な笑顔で、“おめでとう”なんて言えるの。
なんでこんなに、温度差があるの。
23年前に終わった初恋の続きを夢見て、全力で早朝メイクして、犬連れでラジオ体操に来た――なんて、自分で思い返しても笑えてくる。
……私は亮に何を期待していたんだろう。
再会した瞬間に、すべてが戻るとでも?
「ずっと忘れられなかった」なんて言われて、涙の再会でもするつもりだったの?
そんなドラマみたいな展開が、現実にあるわけないのに。
ショコラが足元で、こちらの気配を察したようにぴたりと寄り添い、小さく鼻を鳴らした。
「じゃあ、これからもよろしくな。同じ街の住人として」と亮が携帯を取り出し、自然な流れで連絡先を交換した。
原宿の家に戻るころには、空はすっかり朝の光に染まっていた。
玄関のドアを開けると、ふわりとコーヒーの香ばしい匂いが漂ってきた。
「おかえり。コーヒー淹れてるよ」
キッチンのカウンターから、髪が少し寝ぐせで跳ねていて、パジャマのまま光治が振り返って微笑んだ。
胸の奥がきゅっと縮こまった。
――何やってんの、私。
光治の変わない優しい眼差しは、私が今どこで誰と会っていたかなんて知らないで、コーヒーを淹れて待っていてくれる。
「ありがとう……」
それだけ言って、カップを受け取った指先が少し震えた。
さっきまでの“再会劇場”がまるで夢だったみたいに思えてくる。
ただ――罪悪感で胸がいっぱいだった。
光治の横顔がまぶしくて、思わず目をそらした。
9時になり、一階にある〈はなのきカフェ〉に出勤した。
お店の開店は10時から。
光治は朝のうちに配達へ出かけたから、今日は開店準備を私ひとりで担うことになる。
〈はなのきカフェ〉は通りから一歩奥に入っただけなのに、外の喧騒がすっと遠ざかる。
看板にはやさしい手描きの文字と、私が描いた色とりどりの草花のイラスト。
扉を開けると、ひんやりとした緑の空気が肌をなで、店内には季節の草花と珍しい観葉植物が所狭しと並ぶ。
柔らかな光が葉の間をすり抜けて床に影を落としていた。
壁際にはユーカリやドライフラワーの束がかけられ、天井から吊るされたエアプランツがゆるやかに揺れている。
すべてが、どこか呼吸しているようだった。
カフェスペースは植物たちに囲まれた2席のテーブルと、カウンター席が5席。
そこに座っていると、まるで自然の中にひとり浮かんでいるような、不思議な静けさに包まれる。
外の世界とふわりと距離を取ったこの場所は、心の奥をそっと撫でてくれる“緑の隠れ家”だった。
「ここは、疲れた人のための森みたいな場所にしたかったんだよ」
光治はそう言っていた。
けれど今朝の私は、その森の中で、自分の気持ちをどこに置いていいのかもわからず、少し迷子になっている気がしていた。
そんなとき、カランと小さなベルの音とともに扉が開いた。
「おはよう。コーヒー飲ませて」と入ってきたのは相澤杏子。
杏子は小学校からの親友で、一人っ子同士、まるで姉妹のように何でも話してきた。
杏子は白いTシャツにベージュのコットンパンツというラフな格好で短めのボブが朝の光に揺れ、すっぴんに近い顔は相変わらず整っていて、白くきめ細やかな肌が若さを際立たせていた。
「光治が配達に行ってるから、私が淹れたのでいい?」
「もちろん。夏美のコーヒーも美味しいよ」
カウンターに腰かけた杏子は、頬づえをつきながら私をじっと見つめた。
「で? その顔は……なにかあったわね?」
杏子に見透かされたようで、思わず笑ってしまう。
「……今朝ね。亮に会ったの」
「やっぱりね」
杏子はコーヒーを受け取りながら、短くうなずいた。
「ラジオ体操の会場で。偶然を装ってだけど……ショコラがうまくやってくれて」
「作戦成功ってわけね」
「まあ、自然に再会はできたよ。向こうもびっくりしてた。でも……」と言いかけて、言葉を飲んだ。
杏子は何も言わずに待っている。こういうときの間の取り方がうまいのだ。
「……亮、私が光治と結婚してることも知らなかった。原宿に住んでることも。あっけらかんと“幸せなんだね”って言って、笑ってくれた」
「それで?」
「なんか、私ばっかりが23年前の気持ちを引きずってたみたいでさ……恥ずかしくなった」
杏子は静かにコーヒーをすすり「亮の気持ちじゃなくて、夏美の気持ちでしょ?」
そのひとことが、胸にすとんと落ちた。
「そうだね。期待してたのかもしれない」
「そりゃ、亮のほうはきっと“懐かしい元カノ”って感じだったかもしれないけどさ。でも夏美の気持ちは、ちゃんと本物だったわけじゃない。恥ずかしがることないよ」
私はふっと息をついて、カウンターの端に目をやった。
「……でもね、杏子。家に帰ったら光治がコーヒー淹れて待っててくれたの。いつもと同じ優しい顔で、“おかえり”って」
「うん」
「その瞬間に、なんか、ものすごく罪悪感に襲われた。何も悪いことしてないのに。というか、ちゃんと話すこともできなくて」
杏子は肩をすくめた。
「いいのよ。人間って、過去と今をちゃんと区別してるようで、意外とごっちゃにして生きてるから。揺れるのは仕方ないって」
「……うん。ありがとう」
杏子がふと笑って言った。
「で、連絡先は交換したんでしょ?」
「……ばれた?」
「バレバレ。で、どうするの?また会うの?」
「わからない。でも、同じ街に住んでるんだし……自然と、何度か会うことはあるかもね」
杏子はニヤリと笑って、カップをテーブルに置いて「そのとき、もう一回、化粧の気合い入れ直すのね」
2人で顔を見合わせて笑ったその瞬間、カフェの扉がカラン、と音を立てて
「いらっしゃいませ」
扉から入ってきたのは、近所に住む常連のご婦人、早川さん。
年齢は60代の後半くらいで、細身で姿勢がすっと伸びていて、短く整えられた白髪が知的な雰囲気を引き立てている。
グレーのリネンシャツにベージュの細身パンツ、足元は真っ白なスニーカー。
どれもシンプルだけど、素材やシルエットが上質で、何気ないのにどこか洗練されていて、手には愛犬のチワワを抱っこしている。
「おはよう、今日もいい香りね」
「おはようございます。今日は新しいブレンド、入ってますよ。よかったら一杯どうぞ」
カフェが開店する10時にはまだ少し時間があったけれど、こうして早めにふらりと立ち寄るご近所さんも多かった。
はなのきカフェは、いわば街の憩いの場。
早川さんは杏子にも笑顔を向けて「そうね、この子にご飯食べさせなくちゃいけないから、また改めて来るわね」
杏子はチワワに軽く手を振り、「また今度ネイルに来てくださいね」と声をかける。
「もちろんよ。じゃあね、またね」
「またお待ちしてます」
ちょうどそのとき、カウンターの奥にある冷蔵ケースのタイマーがぴっ、と鳴り開店の時間を知らせる。
その日の午後のカフェは、少し落ち着いた空気に包まれていた。
光治はカウンターの中で、いつもの常連客の2人分のコーヒーを淹れている。
古着屋の店長の相原さんは、今日も全力で“ちょい悪親父”をキメていた。
色あせたジーンズに、ワッペンが所狭しと貼られたGジャン。
足元は、クラシックなコンバースのローカット。
色は生成りで、履き込んだキャンバス地がと自然に馴染んでいる。
肩の力が抜けたおしゃれ、という言葉がぴったりだった。
その隣にどっかりと腰を下ろすのは、不動産会社の社長の加藤さん。
スキンヘッドにフチなしメガネ、鋭い目つきのキツネ顔。
何も知らない人が見たら絶対マフィアだと思う。
でも、この人が意外と甘いケーキ好きで、「今日の焼き菓子は?」と聞いてくるあたり、そのギャップに少し癒やされる。
2人とも50代前半。商店街でも古株の常連コンビで、ランチの後の時間帯にほぼ同時に現れては、カウンターの端に並んで座るのが日課になっている。
「お前さ、もうちょい普通の服着ろよ。街のイメージ壊すだろ」
「いやいや、それ言うなら加藤さんのほうが街の治安壊してますから」
「はは、誰がマフィアだって?」
「言ってないよ、そんなこと」
コーヒーの香りがゆるやかに店内を満たす中で、二人の軽口が今日も始まった。
「でさ、青山の銀杏並木の話、聞いた?」
相原さんが、アイスコーヒーをストローでくるくるとかき混ぜながら言った。
「開発問題か? あれな。どうなるんだろうな」
加藤は、ホットコーヒーをブラックのままごくりと飲み干して。
「でもさ、俺らの原宿と青山、どっちかが“グッドタウン賞”に選ばれるわけじゃん。神宮外苑の森がぶっ壊されたら、あっちは基準から外れるよ。正直、俺は開発に賛成派だな」
「え、そうなんですか?」
私は思わず花束を作る手を止めて、加藤を見た。
「あれだけの商業施設計画が入ったら、街は確実に盛り上がるよ。緑なんてちょっと残せばイメージは保てるしな」と加藤さんはいつものようにドライだった。
光治がさりげなく私を見て、苦笑いを浮かべる。
今原宿と青山は、アメリカに本部を置く民間の都市研究機関が主催していて、近年では世界的な認証として注目されるグッドタウン賞へのエントリーを半年後に控えている。
評価は三段階。
「グッドタウン」は、わざわざ行くほどではないけれど、訪れると心地いいと思える街。
「グレイトタウン」は、少し遠回りをしてでも立ち寄る価値のある街。
そして最上位の「エクセレントタウン」とは――その街に行くこと自体が旅の目的になる、特別な場所のことを指す。
その認定には、厳格な7つの基準がある。
一、30ヘクタール以上の緑地があること。
一、美術館があること。
一、ギャンブル施設が存在しないこと。
一、おいしいパン屋があること。
一、快適に過ごせるホテルがあること。
一、街を象徴するギフトが存在すること。
一、ミシュラン星付きのレストランがあること。
原宿と青山の静かな勝負が始まっていた。
青山はすでにすべての条件を満たしていた。
原宿は最後の「ギフト」の選定が難航しており、まだエントリーの準備段階にある。
一方、青山は神宮外苑の再開発で緑地面積が削られたら、その時点で脱落となる。
「それにさ、青山の商店会、あのロンドン帰りの新会長が就任したんだろ?」
相原がぽつりと口にした。
私は一瞬、背筋がぴんと伸びるのを感じた。
「そう。テーラーの岡本って人。ロンドンで修行してたとかで、すごい評判らしいよ。SNS見たけどさ、これが悔しいくらいイケメンでさ。腕もいいから世界中からファンがついてるらしいよ」と加藤が続ける。
カウンターの内側で光治の手がほんのわずかに止まり、それからまた何事もなかったように、再び動き出した。
「へぇ……そうなんですね」
私は取り繕うように笑いながら、手元の花束に視線を戻した。けれど、心の中では冷静ではいられなかった。
亮とはたった数日前、偶然を装って会ったばかりだった。
ほんの短い再会だったのに、それだけで心はぐらついていた。
会わなければよかったのかもしれない。
けれど、どうしても会いたかった。
ずっと、忘れられないままだったから。
思いがけず名前を聞いただけで、こんなに心が揺れるなんて。
店内には、光治がコーヒーマシーンを扱う小さな音が響いていた。
蒸気の音。ミルの音。
その合間に、ふと音が止まった気がした。
気のせいかもしれない。でも、なぜか視線を感じて、背筋がこわばる。
あえて光治を見ないようにしていた。
私の気持ちの揺れを気づかれていないふりをするしかなかった。
やがてまた、機械が唸りを上げて、日常の音が戻ってくる。
その音に少しだけ救われたような気がしたけれど、胸のざわつきは、収まらなかった。
②へ続く
