見出し画像

あの頃の私にモノ申す!(耳ビジnote部)

情報発信を始めて、およそ20年になる。当時の自分に会えるなら、聞いてみたいことがある。その言い方で、味方は1人でも増えたのか、と。

始めた頃の私は喧嘩上等だった。反論が来れば返し、揚げ足を取られれば取り返す。相手の論理の穴を見つけて突くことが、自分の正しさの証明だと思っていた。論破という言葉に、いまほど手垢はついていなかった。それでも中身は同じである。相手を黙らせた側が勝ちだと信じていた。

そのくせ、批判されると被せる癖もあった。被せるとは、相手の言葉の上に自分の言葉を重ねて、発言そのものを成立させなくすることだ。反論に反論を重ね、さらにその反論に重ねる。相手も同じことをする。こうなるときりがない。

きりがない、というのは比喩ではない。終わりの条件が存在しないのだ。議論には結論という出口があるが、論破の応酬には出口がない。どちらかが飽きるか、疲れるか、席を立つまで続く。そして席を立った側は、負けたのではなく、付き合いきれなくなっただけである。当時の私は、それを勝利と数えていた。

いま思えば、あれは相手と戦っていたのではない。批判されることへの恐怖と戦っていた。書いたものを否定されると、自分そのものを否定された気がした。だから即座に言い返した。反射である。考えていない。考えていないから、言葉が強くなる。

同じことを、講演や研修講師の現場でもやっていた。

嫌な質問をする参加者がいる。すると私は、その場で論破した。衆目の前で、である。質問の前提の粗さを指摘し、事実誤認を正し、相手が言葉に詰まるところまで持っていく。内容は成立している。進行も乱れていない。私は仕事をしたつもりでいた。

いま考えるのは、論破された側の気持ちである。会場には数十人~数百人がいた。その全員の前で、自分の質問が無効だと宣告された人が、そのあとの時間をどう過ごしたのか。休憩時間に誰かと話せただろうか。アンケートに何を書いただろうか。帰り道に何を思っただろうか。私はそれを一度も想像しなかった。

もっとも、事情がなかったわけではない。一般の研修講師なら、質問には誠実に答えるのが当然だと思うだろう。だが当時、発信を始めたばかりの私のところに来る参加者は、種類が偏っていた。

テクニックだけを持ち帰りたい人か、そうでなければ嫌がらせである。あのときのあの記事はどういう趣旨か。撤回しないのか。研修のテーマと何の関係もない質問が、公開の場で飛んでくる。

だから応戦した。応戦すれば黙る。黙らせれば、次は来ない。当時の私にとって、それは自衛だった。

それでも、あれは間違いだった。理由は単純である。私が黙らせたのは質問者1人だが、その場面を見ていたのは会場全員だからだ。この講師は、質問した人間をああやって扱う。そう理解した人が、そのあとどれだけ手を挙げなくなったか。私は、本当に聞きたいことがあった人の口まで、まとめて塞いでいた。

いまは答えない。はぐらかす。研修の主旨と関係のない質問には、関係がないという事実だけを短く示して先に進む。それでも回答を求められたら、こう言う。後日精査してご連絡します、と。

これは逃げではない。技術である。その場で即答できるかどうかと、答える必要があるかどうかは別問題だ。即答は気持ちがいい。だが即答したくなる質問ほど、たいてい即答すべきではない。

時間を置けば、質問者の意図が透けて見えることもあれば、こちらの理解が浅かったと気づくこともある。どちらにしても、その場で撃ち返すより結果はよくなる。やり方を変えたのは、それからずいぶん経ってからだ。いまはなるべく聞くようにしている。

聞くというのは、同意することではない。相手の言い分を最後まで通す、というだけのことだ。ただ、これが難しい。途中で反論の材料が見つかると、口が先に動きそうになる。その衝動を止めて、最後まで聞く。

それだけで、相手が本当に言いたかったことが、最初の一文とは違っていたと気づく場面が何度もあった。反射で返していた頃の私は、その差分を一度も見ていなかったことになる。

論破もしない。なぜならば、論破は対立しか生まないからである。

少なくとも私が見てきた範囲で、論破された人が納得した場面はほとんどなかった。自分が間違っていたとは思わない。言い負かされた、としか思わない。理屈で追い詰められるほど、感情は逆方向に固まる。効き目があるとすれば、見ている第三者に対してである。それは説得ではなく、見世物だ。

書き手として20年やってきて、確信していることがある。文章で人の考えが変わるとしたら、それは論破されたときではない。自分でも薄々思っていたことを、他人に言語化してもらったときだ。だとすれば、書き手の仕事は打ち負かすことではなく、相手のなかにすでにあるものを掘り当てることになる。掘るためには、まず聞かなければならない。

もっとも、始めた頃の私は、この文章にも反論してくるだろう。逃げているだけだ、正しさを主張しないのは怠慢だ、と。その反論には正しい部分もある。聞くことと、迎合することは違う。

譲れない一線まで曖昧にしたら、それはただの無内容だ。だから私は、いまも書くべきことは書く。ただ、勝とうとはしていない。

あの頃の私に伝えたいのは、たった1つである。相手を黙らせても、あなたの言葉は1ミリも遠くへ届かない。届かせたいなら、まず口を閉じることだ。20年書いてきて、たどり着いたのはそれだけである。


■7月24日開催セミナーの様子を公開しています

7月24日、WAVE出版主催のセミナーを開催した。Claude AIだけで作った「文体の万華鏡」が四つの文体を同時に走らせる場面も収録している。
👉https://youtu.be/8FRS6haYVrY (WAVE出版・公式Ytube)


■ あわせて読みたい

『3時間で身につくClaude活用術』(著書23冊目)
👉https://www.amazon.co.jp/dp/4866215496

よければフォローしてください。

いいなと思ったら応援しよう!

尾藤克之(コラムニスト・作家/日本初のClaude実用書出版) 記事が「役に立った」「面白かった」と思っていただけたら、チップで応援いただけると嬉しいです。いただいた応援が、次の記事を書くエネルギーになります。これからも読んでよかったと思える記事をお届けします。