見出し画像

聖徳太子に聞く🎤たとえ私がいなくても、「和」はその時代に生きていた🌜️千夜一夜物語 第113夜 日本語版


【斑鳩の風は、まだ吹いている】

斑鳩の空は、思ったより静かだった。もっと仏像の金色がぎらぎら輝き、鳩が政治的な顔で飛び回り、どこかから「和を以て貴しとなす」という重々しい声が聞こえてくるのかと思っていたが、実際には風が吹いているだけである。歴史上の偉人に会うとき、人は勝手に舞台装置まで期待する。しかし、歴史というものは、案外、静かな場所でこちらを待っている。

そこに一人の男が座っていた。冠をつけ、落ち着いた表情をしている。肖像画で見た顔に似ているようでもあり、似ていないようでもある。こちらが少し戸惑っていると、男は先に口を開いた。

「あなたは、私が本当にいたのかどうかを聞きに来たのでしょう」

いきなり本題である。さすが十人の話を同時に聞いたとされる人物は、こちらが一人で黙っていても質問を先取りするらしい。

「はい。最近では、聖徳太子は実在しなかったとか、少なくとも従来語られてきたような万能の政治家ではなかったという話を耳にします。さらに、それを利用して、あなたの偉業そのものを否定しようとする空気もあるように感じます」

男は笑った。

「まず、そこを分けなければなりません。歴史学が史料を検討することと、歴史上の人物を政治的に利用したり、逆に消し去ろうとしたりすることは、まったく別の営みです。史料を疑うことは大切です。しかし、史料を疑うことと、その時代の精神まで捨てることは違う」

【私は誰なのか――聖徳太子という名と厩戸皇子という名】

「では、あなたは聖徳太子なのですか。それとも厩戸皇子なのですか」

「その質問は、現代人が名刺を見ながら人間を判断する発想ですね」

男は少しだけ皮肉っぽく言った。

「私が生きていた時代に、自分で『聖徳太子でございます』と自己紹介したわけではありません。『聖徳太子』という呼び名は、後世の人々が私に与えた尊称です。史料上は、厩戸皇子、厩戸王などの呼び方が問題になります。だから、歴史学者が『当時の呼称としては聖徳太子ではない』と指摘するのは、研究としては当然のことです」

「では、聖徳太子という名前は間違いなのですか」

「間違いというより、後世が作り上げた記憶の名前です。人は死んだあと、本人の意思とは別に、時代の希望を背負わされることがあります。私の場合、それがずいぶん大きかった。まるで歴史の衣装部屋から、仏教、律令、外交、道徳、国家建設の衣装を全部着せられたようなものです。着せすぎです。夏なら倒れています」

こちらは思わず笑った。だが、男の表情は真面目だった。

「しかし、後世の衣装だからといって、すべてが無価値になるわけではありません。むしろ、なぜ人々がそのような衣装を私に着せたのかを考えるべきです。そこに、その時代その時代の願望が現れます」

【六世紀末から七世紀初頭――日本列島が国家になろうとしていた時代】

聖徳太子、あるいは厩戸皇子が語られる時代は、六世紀末から七世紀初頭である。日本列島はまだ、後のような整った律令国家ではない。豪族たちが力を持ち、氏姓制度によって政治的地位が左右されていた。蘇我氏や物部氏などの有力豪族がせめぎ合い、仏教の受容をめぐっても対立があった。

一方、海の向こうでは巨大な変化が起きていた。中国大陸では隋が成立し、強力な中央集権国家が姿を現す。朝鮮半島でも高句麗、百済、新羅が緊張関係の中で動いていた。日本列島の支配層にとって、これは他人事ではなかった。東アジア世界の荒波の中で、ただ豪族たちが内輪で権力争いをしているだけでは、国として立ち行かない。

「つまり、当時の日本には、国家を整える必要があったのですね」

「その通りです」と男はうなずいた。「豪族の連合体から、より統一的な政治秩序へ進まなければならなかった。血筋や氏族の力だけでなく、能力や官位によって人を用いる発想も必要になった。仏教を単なる外来宗教としてではなく、国家を支える思想として位置づける必要もあった。そして、隋という大国に対して、ただ従属するのではなく、自分たちも一つの政治的主体であると示す必要があった」

「その象徴が、冠位十二階、十七条憲法、遣隋使だったわけですか」

「少なくとも、後世の人々はそう理解しました」

【冠位十二階――家柄だけで座席が決まる宴会を変える】

冠位十二階は、一般に六〇三年に定められた制度とされる。氏族の出身や古い身分に縛られず、朝廷に仕える人々に冠位を与え、序列を整えようとする仕組みである。現代風に言えば、親の肩書だけで席順が決まる会議室に、「いや、本人の働きも見ましょう」と言い出したようなものだ。

もちろん、これだけで完全な実力主義が生まれたわけではない。古代社会で豪族の力は依然として大きかった。だが、それでも重要なのは、政治秩序を氏族の私的な権威から、公的な官位へ移そうとする方向性である。

「これは、一人の天才が急に思いついた制度だったのでしょうか」

男は首を横に振った。

「一人の頭の中だけで国家制度は生まれません。制度とは、その時代の必要が形を取ったものです。もちろん、誰かが構想し、誰かが実行し、誰かが支えた。しかし、それは一人の手柄というより、国家形成期の意識が制度になったものです」

「では、聖徳太子の偉業ではないのですか」

「そう急いで奪わなくてもよいでしょう。問題は、私一人が全部やったかどうかではありません。重要なのは、その時代に『氏族の私的支配を超えて、公的秩序を作らねばならない』という意識が生まれていたことです。私という人物は、その意識を語るための名になったのです」

【十七条憲法――現代の憲法ではなく、役人への精神訓】

十七条憲法という名前を聞くと、現代人はつい日本国憲法のようなものを想像する。しかし、これは現代的な意味での憲法、つまり国家権力を制限し、国民の権利を保障する法典ではない。むしろ、朝廷に仕える者たちに向けた政治道徳、官人心得、組織運営の精神訓に近い。

有名な第一条は「和を以て貴しとなす」である。この言葉は、ときに「日本人は波風を立てず、黙って仲良くするのが美徳だ」という意味に誤解される。しかし、本来の「和」は、ただ空気を読んで沈黙することではない。むしろ、豪族たちが私的利害で争い、政務が乱れる状況に対して、議論を尽くしながら公の秩序を作れ、という政治的な言葉として読むべきである。

「つまり、『和』とは単なる仲良しクラブではないのですね」

「もちろんです」と男は言った。「仲良しクラブなら、十七条も要りません。茶菓子を出せば済みます」

「では、『和』とは何ですか」

「私益をむき出しにして争うのではなく、公のために議論を整えることです。人間は意見が違う。豪族も、役人も、家も、利害も違う。それでも国家を作るには、違いを抱えたまま、共通の秩序を作らなければならない。それが『和』です」

この説明を聞くと、「和を以て貴しとなす」という言葉の印象が変わる。これは、ただ穏やかな日本人らしさを讃えた標語ではない。むしろ、政治的な緊張の中から出てきた、切実な組織論である。会議で誰も発言せず、終わったあと廊下で文句を言うことを「和」と呼ぶなら、聖徳太子はおそらく苦い顔をするだろう。

【仏教と国家――個人の救いだけでなく、政治の言葉だった】

十七条憲法には、仏教を敬うべきことも記されている。仏、法、僧の三宝を敬えという考え方である。現代人は宗教を個人の信仰として考えがちだが、当時の仏教はそれだけではなかった。仏教は、文字、思想、建築、学問、外交、制度を伴う巨大な文明のパッケージでもあった。

仏教を受け入れることは、単に仏像を拝むことではない。寺院を建てる技術、経典を読む知識、僧侶を養成する制度、大陸との文化的接続を受け入れることでもあった。国家を整えるうえで、仏教は大きな意味を持った。

「あなたは仏教政治家だったのですか」

「その言い方は少し現代風ですね。ですが、仏教が国家形成に深く関わったことは確かです。古代国家にとって、仏教は精神的な権威であると同時に、国際的な文明の言葉でした。仏教を理解することは、東アジアの共通語を理解することでもあった」

「では、仏教を重んじたという点も、時代の意識だったのですね」

「そうです。私一人が熱心だったかどうかだけを見ても不十分です。重要なのは、当時の支配層が仏教を通じて、新しい国家の形を作ろうとしていたことです」

【遣隋使――大国に向かって背筋を伸ばす外交】

聖徳太子の事績としてよく語られるものに、遣隋使がある。小野妹子を隋に派遣したという話は有名である。とくに「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という表現は、後世の日本人に強い印象を与えてきた。隋の皇帝からすれば、かなり大胆な言い方である。現代のビジネスメールで言えば、新人が世界的大企業の会長に向かって「同じ経営者として申し上げます」と書くようなもので、なかなか心臓に毛が生えている。

しかし、この外交姿勢もまた、時代の大きな流れの中で理解する必要がある。東アジアの国際秩序の中で、日本列島の政権は自らの位置を定めなければならなかった。完全な従属でもなく、無謀な孤立でもない。大国から学びながら、同時に自立した政治主体として認められようとする。その緊張感が、遣隋使の背景にある。

「この外交も、あなた一人の功績かどうかが問題になりますね」

「ええ。しかし、ここでも同じです。誰が文案を書いたか、誰が最終決定したか、どの程度私が関与したか。そういう検討は歴史学に任せればよい。しかし、その外交文書に込められた意識は重要です。そこには、列島の政権が『自分たちは世界の片隅の豪族連合ではなく、一つの国として立つ』という意思が見えます」

【聖徳太子はいなかった、という言葉の危うさ】

ここで私は、どうしても聞きたかったことを尋ねた。

「近年、『聖徳太子はいなかった』という言い方が広がることがあります。これは正しいのでしょうか」

男はしばらく黙った。風が少し強くなった。

「その言い方は、便利ですが危険です。たしかに、後世に語られた聖徳太子像には伝説化があります。十人の話を同時に聞いたという逸話も、超人的な聖人像を作るための物語でしょう。冠位十二階も十七条憲法も遣隋使も、すべてを一人の人物に集約して語ることには慎重であるべきです。そこまではよい」

「問題はその先ですか」

「そうです。『後世の聖徳太子像には創作がある』という話が、いつの間にか『だから当時の国家形成の努力もなかった』『十七条憲法に表れた政治思想も意味がない』『和の理念など後世の作り物にすぎない』という話にすり替わるなら、それは乱暴です」

「人物と思想を分けるべきだということですね」

「その通りです。たとえ、あなたがたの知る聖徳太子像が後世に作られた理想像であったとしても、その理想像がなぜ必要とされたのかを考えなければならない。人々は、何もないところに千年以上も人物像を育てません。そこには、国家とは何か、政治とは何か、秩序とは何かを考えるための器があったのです」

【歴史は人物を疑う。しかし、時代の声まで消してはならない】

歴史学は、伝説をそのまま信じるための学問ではない。むしろ、伝説を解体し、史料を読み、後世の付け加えを見分けようとする営みである。その意味で、聖徳太子像を検討することは必要である。

しかし、検討と否定は違う。聖徳太子が、後世の理想化によって大きく作られた存在であったとしても、その名のもとに語られてきた理念は消えない。十七条憲法が本当に一人の人物の筆になるかどうかを問うことは重要である。しかし、それと同時に、その文章が示す政治意識、つまり豪族の私的利害を超えて公の秩序を作ろうとする意識、仏教を国家形成の精神的柱にしようとする意識、大国と向き合いながら自立した国を作ろうとする意識を読み取ることも重要である。

「では、あなたの偉業をどう理解すればよいのでしょう」

男は静かに答えた。

「私を一人の万能政治家として祭り上げる必要はありません。しかし、私を消し去ることで、その時代の努力まで消す必要もありません。私は、個人であると同時に、時代の名前です。厩戸皇子という人物がいた。聖徳太子という後世の理想像が作られた。そして、その理想像の中に、古代日本が国家になろうとした時代の意識が刻まれた。そう考えればよいのです」

【和を以て貴しとなす――いま読むべき理由】

現代に生きる私たちは、「和」という言葉をしばしば誤用する。波風を立てないこと、上司に逆らわないこと、会議で黙ること、面倒な議論を避けること。それらを「和」と呼んでしまう。しかし、十七条憲法の「和」は、そんな腰の低い沈黙ではない。

むしろ、それは対立を前提にしている。人間は争う。豪族は争う。組織は争う。利害はぶつかる。だからこそ、公の秩序が必要になる。議論が必要になる。私情を抑え、道理に従い、国家や共同体のために判断する姿勢が必要になる。

この意味で、「和」は古びていない。むしろ現代の組織、会社、役所、政治、家庭にまで通じる。和とは、黙ることではない。相手に迎合することでもない。違いを抱えた人々が、共通の目的のために言葉を尽くすことである。

「現代人に一言、お願いします」

男は少し考えてから言った。

「私を信じすぎないでください。しかし、簡単に捨てないでください」

「難しい注文ですね」

「歴史とは、だいたい難しい注文です。信仰のように丸のみしてはいけない。流行のように捨ててもいけない。疑いながら、なお受け取る。それが歴史を読む態度です」

【たとえ聖徳太子がいなくても】

斑鳩の風がまた吹いた。目の前の男が本当に聖徳太子なのか、厩戸皇子なのか、それとも後世の人々が作り上げた理想像なのか、最後まで確かめることはできなかった。

しかし、それでよいのかもしれない。

たとえ、私たちが教科書で習ったような聖徳太子が、そのままの形では存在しなかったとしても、彼の名で語られてきた言葉は、その時代の意識を映している。豪族の時代から国家の時代へ。私的な権力から公的な秩序へ。内輪の争いから東アジア世界への外交へ。古い身分秩序から新しい官僚制度へ。神々の世界から仏教的な文明世界へ。

その大きな転換点に、「聖徳太子」という名が置かれた。

だから、問題は「聖徳太子はいたか、いなかったか」だけではない。むしろ、こう問うべきなのだ。

なぜ、その時代は聖徳太子を必要としたのか。

なぜ、後世の人々は聖徳太子という人物に、国家の理想、政治の道徳、和の精神、仏教の光、外交の誇りを託したのか。

歴史上の人物は、ときに本人以上の存在になる。そこには誇張もある。伝説もある。政治的利用もある。だが、それでもなお、伝説の奥には時代の本音が眠っている。

聖徳太子が語ったとされる言葉は、たとえ一人の個人の肉声ではなかったとしても、古代日本が国家になろうとしたときの声である。

そして、その声は今も私たちに問いかけている。

あなたの組織に、公はあるか。

あなたの議論に、和はあるか。

あなたの学びに、外の世界へ向かう勇気はあるか。

あなたは、伝説を疑う知性と、伝説の奥にある精神を受け取る度量を、同時に持っているか。

斑鳩の男は、最後に少しだけ笑った。

「私がいたかどうかを問うのもよい。しかし、あなたがたの時代に『和』があるかどうかも、少しは問うてみてください」

そう言って、彼は静かに消えた。

残ったのは、歴史上の人物ではなく、一つの問いだった。

聖徳太子は、実在したのか。

あるいは、私たちが今なお必要としている理想の名なのか。

その答えは、斑鳩の古い伽藍の中だけでなく、現代の会議室、役所、会社、家庭、そして私たち自身の心の中にもある。

いいなと思ったら応援しよう!