忘れられない食べ物の話。一冊目。
忘れられない食べ物の記憶が、誰にでもひとつはあると思います。
母がいつも失敗していたホットケーキ。夏祭りの帰りに食べた、ぬるくなったかき氷。誰かにもらった、名前も知らない土地のお菓子。味そのものより、そのとき隣にいた人や、窓の外の光の色まで、なぜか一緒に記憶されている。食べ物というのは不思議なもので、舌ではなく、もっと別のところに刻まれるようです。
私にもそういう記憶がいくつかあって、そのひとつを短編に仕立てました。『春巻きと初恋と。』という一冊です。
これまでの「日本のどこか短編集」では町そのものを、「ある人のなりわい短編集」では誰かの仕事を、主役にしてきました。今回はまた少し軸を変えて、食べる、という瞬間そのものを主役にしています。新しいシリーズ「ひとくちぶんの人生」の一冊目です。
収録しているのは、四つの物語。
表題作「春巻きと初恋と。」
四月のある夜、ひとり台所で春巻きを揚げていた私は、揚げたての一本に唇を火傷します。その熱さが、中学の調理実習で隣にいた、ある同級生の記憶をふっと呼び覚ましていく。 ――火傷するのは、ちゃんとおいしいって証拠。―― 十四歳のときに聞いたその言葉を、三十いくつになった今も、私はまだ、少しだけ信じています。
「金メダルのアジフライ」
スーパーの惣菜コーナーで三年間アジフライを揚げ続けてきた女性が、隣人との勝てない洗濯物勝負と、名もなき自分だけの金メダルを追いかける話。
「チーカマが落ちてる」
道端に落ちていた一本のチーズ蒲鉾をめぐって。校正者である私が、誰も頼んでいない思考をどこまでもこじらせていきます。
「結ぶ手」
世界が終わると決まった、その日の朝。その手は何を結ぶのか。
人生と食べ物が重なる瞬間を、切り取ったつもりです。世界がどれほど大きく揺れても――たとえ終わるその日であっても、そこにあるのは、まずおいしい食べ物で、それから。それから先は、読んでくださるかたそれぞれに、見つけていただけたら嬉しいです。
四篇それぞれ独立した話ですが、続けて読むと、どこかで匂いや音が響き合っているかもしれません。
Kindle Unlimitedで読めます。 https://www.amazon.co.jp/dp/B0H973752W/
