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昔むかしの・・・・・

「昔むかし、あるところに……」
昔話は、たいていこんなふうに始まります。

けれども、考えてみれば不思議な言葉です。
「昔」とは、いったいいつなのでしょう。

何年何月何日と尋ねても答えられない。
どの時代だったのかも、はっきりしない。

それなのに、「昔むかし」と聞いた途端、
私たちはずっと遠い時間へ連れていかれます。

昔話は、小さなタイムカプセルなのかもしれません。

「むかし」というわずか三文字のなかに、
十年も百年も、ときには千年もの時間が折り畳まれている。

時計や暦で測る時間を、いとも簡単に飛び越えてしまいます。

子どもを見ていると、この不思議な時間の感覚がよく分かります。

幼い子どもにとって、
「昨日」は必ずしも二十四時間前のことではありません。

ずっと前の出来事も「昨日」。

自分がまだ生まれていなかったころの話も「昔」。

大人なら、
「それは去年でしょう」
「あなたが三歳のときでしょう」と訂正したくなります。

私たち大人は、時間を並べるのが得意です。

何年に学校へ入り、何年に卒業し、何年に仕事を始めた。

歴史なら年表をつくり、人生なら履歴書にする。

いまでは
写真にも、メールにも、メッセージにも日付が残ります。
いつ、どこで、何をしていたか。

過去は以前にも増して、正確に記録されるようになりました。

時間を測り、並べ、記録する。

それがなければ、社会は成り立ちません。

けれども、人間が生きている時間は、それだけなのでしょうか。

母がよく話していたこと。
父が何度も繰り返した昔話。
先生から聞いた若いころの失敗。
仕事の先輩が、ふとした折に語ってくれた「あのころ」のこと。

そういう話には、何年何月という日付よりも
ずっと多くのものが入っています。

そのとき何を怖れたのか。
何を信じていたのか。
どんなことで失敗したのか。
何を諦め、それでも何を手放さなかったのか。

昔を語るということは、
過去の出来事を報告することではないのでしょう。

一人の人間が生きた時間を、
別の人間へ手渡すことなのかもしれません。

だから、同じ話を何度聞いてもいい。

「ああ、その話、前にも聞いた」
そう思いながら聞いているうちに、
以前は聞き流していた一言が、
ある日突然、胸に残ることがあります。

語る人が変わったのではありません。
聞く側が変わったのです。

若いころには分からなかった言葉が、
自分も年齢を重ね、失敗をし、
別れを経験して、ようやく分かるようになる。

昔語りには、そんな時間差があります。

長老の話。師匠の話。年長者の話。

以前なら、ごく身近なところに、
そういう話を聞く時間がありました。

もちろん、
昔がいつもよかったわけではありません。

過去には、戻るべきでないものもたくさんあります。

それでも、
「昔の話など役に立たない」と切り捨ててしまえば、
一緒に失われてしまうものがあります。

出来事ではなく、
その出来事を人がどう生きたかという記憶です。

記録なら残せます。

けれども、語りは、
その人がいるあいだにしか聞けません。

声の調子。間の取り方。
少し笑うところ。急に黙るところ。

言葉にならなかったものまで含めて、
昔語りなのだと思います。

「昔むかし、あるところに……」

この言葉は、
遠い過去へ向かうためだけの入口ではないのかもしれません。

私たちがいまここにいるまでに、
どれほど多くの人の時間が流れてきたのか。

その長い時間に、
もう一度触れるための入口でもあるのでしょう。

昔話を聞けるということは、
考えてみれば、とても贅沢なことです。

そのことに気づくころには、
もう聞くことのできない声もあります。

だから、
誰かが「昔ね……」と話し始めたら、少しだけ手を止めてみる。

急いで先を促さず、
その人の時間にしばらく付き合ってみる。

時は、うっかりしていると逃げていってしまいます。

けれども語られた時間は、
誰かのなかに残り、
またいつか、
「昔むかし」と語り直されていくのかもしれません。