漢字の宇宙「関」16-9 関与ーーどこまで関わるのか
現代の社会では、
私たちは多くの出来事に触れています。
画面を開けば、
遠くの災害や戦争、
誰かの苦しみ、
社会の不正、
身近な人の悩みが次々と現れます。
知らなかったとは言いにくい時代。
知ってしまう。
見てしまう。
聞いてしまう。
けれども、
知ったからといって、
すべてに応答できるわけではありません。
関与の時代に
ここで、私たちは疲れます。
関与しなければならない気がする。
でも、
何をすればよいかわからない。
声を上げるべきなのか。
黙って考えるべきなのか。
距離を置くことは冷たさなのか。
それとも、
自分を保つための知恵なのか。
関与の時代には、
関与しないことの意味も問われます。
すべてに
反応することはできない。
けれども、
何にも反応しないわけにもいかない。
そのあいだで、
自分の関をどう設けるのか。
この問いが、
いま私たちに向けられています。
関与への勇気
関与とは、
世界に対して自分を開くこと。
しかし同時に、
自分の限界を知ることでもあります。
何を見過ごしてはいけないのか。
何に対しては、
今ここで声を出すべきなのか。
何については、
もっと学び、もっと聞き、
もっと待つべきなのか。
どこから先は、
自分だけで抱え込まず、
周りの人や組織に委ねるべきなのか。
その見極めに迷います。
しかるべきときに、
しかるべき形で
関わることの難しさ。
関与とは、
孤独な英雄になることではありません。
むしろ、
自分がどんな関係のなかに
置かれているのかを知ることです。
自分の一歩が、
誰とつながり、
何を動かし、
何を守るのかを考えること。
信義の問題
そこには、信義の問題もあります。
関与するとは、
何かに対して信を置くこと。
この人の声を聞く。
この出来事を見過ごさない。
この約束を守る。
この道からは外れない。
そう決めること。
そして、
その決断は、ときに自分を縛ります。
自由に逃げられなくなる。
気軽な傍観者ではいられなくなる。
自分の言葉と行動に、重みが生まれる。
けれども、
その重みのなかで、
人は自分の立場を知るのかもしれません。
背負えるもの
関与とは、
世界のすべてを背負うことではありません。
しかし、
自分が見てしまったもの、
聞いてしまったもの、
知ってしまったものに対して、
まったく無関係ではいないこと。
そこに、人間の責任の始まりがあります。
「関与」の「関」は、
私たちに問います。
あなたは、どこまで関わるのか。
何に対して、沈黙してはいけないのか。
どこで踏み込み、どこで控えるのか。
何を守るために、その場に立つのか。
自己を知る
関与とは、
自分もまた
その道の上に立っていると知ること。
そして、
その道を少しでも誤らないように、
慎みながら一歩を出すこと。
関与では、
わが身の処し方が問われます。
ただ動かず、そうあり続けたところで、
意図せぬ形で
私たちは当事者になってしまうこともある。
人は常に、
周りの状況のなかに囲い込まれて
生きているのです。
刻一刻と変化のなかにある状況のもと、
動かないで居続けたことが、
周りの事態の変化によっては
同じ姿勢がまったく違う意味を
帯びてしまうことがある。
動いても、
動かなくても、
人は結果として
それが外にはある種の
意思表示にみえてしまうことがある。
それは
流転の世界に身を置く人間ならではの
悩みなのかもしれません。
