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「働きたくない人のための思想史」第4回補足:真剣に祈るほど儲けてしまう…

第4回は中世の労働です。中世ほど印象が定まらない時代もないでしょう。「中世ファンタジー」の大半は実際のところルネサンス以後の社会を描いている、という面白みのない指摘はよく見かけます。しかし、では「本当の」中世とはどのような時代だったのか?と問うと、専門家でも答えるのは容易ではないようです。その理由は第一に、そもそも1000年もの間を一つの時代と見なすのが無理があるのに加え、第二に文字史料の乏しさがあります。専門家でも確固たることが言いいづらいために、ルネサンス時代の人々によっても、現代のWeb小説の読者によっても、「中世」という時代は任意のファンタジーを押し付けられる運命にあるのかもしれません。

労働者の目線というよりは「資本主義史」寄りのため省略してしまった中世の出来事として、教会と修道院による最初の「法人」の成立があります。「法人」とはなんであるかというと「法的人格」であり、それがあると何が良いかと言うと、個人=自然人とは異なり理論上永遠の命を持つ組織・団体による「所有」や「契約」が可能になるということです。それはつまり、個人には不可能なほどの資本の蓄積が可能となり(大富豪の遺産も、遺族間での分割を繰り返して減っていきます)、また年金のような長期間の契約も可能になったということです(阿部謹也『中世賤民の宇宙――ヨーロッパ原点への旅』§2.6)。
本文で触れた労働の方法や思想に加えて、法人というシステムを成立させた点においても修道院は近代資本主義の源流と言えるでしょう。あるいはこの点こそが決定的だったのかもしれません。「なぜイスラーム圏では(ギリシャの遺産を受け継ぎ知的には中世ヨーロッパより優越していたのに)資本主義が生まれなかったのか?」という疑問に対して、しばしば「イスラームにおいて、人間以外のものを人間とみなすことがタブーであり、法人が成立しなかったからだ」と説明されることがあります。

それにしても、悪しき金銭(マモン)を遠ざけることをモットーとした修道院が、真剣にそれを守ろうとすればするほど儲けてしまうというのは皮肉です。歴史を紐解くと、素晴らしい修道院が現れてはしばらくしてから修道士が働かずに貪っていると批判され、また新たに素晴らしい修道院が現れる、ということを繰り返していてユーモラスですらあります。本文では労働効率やモチベーションから説明しましたが、修道院に入る際の寄進もまたこれを加速させています。現世で成功した人々が死後の救いを求めて、その時点で最も素晴らしい修道院に入るわけですが、その際に所有している財産は全て修道院(法人!)のものとなるので、やはり真剣に貧乏生活をしようとしていればしているほど儲けてしまう。ある意味システム的に失敗が宿命付けられている。当事者たちもやがてこの問題点に気づき、完全に所有を放棄して寄付に頼ったその日暮らしをする托鉢修道会が生まれることになりました。結局それはそれで怠惰ではないか、と批判されてしまうのですが。

何が怠惰であるか、というのは社会によって大きく異なります。現代的価値観では、闇バイトは怠惰で光バイトは勤勉だとされています。しかし古代のバルバロスや中世の騎士にとっては、命がけの勇ましい略奪によって富を得ることが正しい行いであり、命を惜しみ労働によって富を生み出すことこそ怠惰だとみなされていたのです。働かない人々への評価もまた違ったことは、連載を通して書いてきた通りです。

次回はついにルネサンスとともに幕を開ける近代に突入します。同人誌版だとこのあたりから筆が乗ってきた記憶があるので、自分でも書くのが楽しみです。更新は来月を予定していますので、少々お待ちください。

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相川計@生活保護 お読みいただきありがとうございます。 当方は現在無職であり、ライティングの仕事を募集しています。 またこの記事が面白ければ、ぜひTwitterでのシェア、いいね(スキ)をお願いいたします。