2.帰りたいのは『君のとこ』
「一旦、チェックする。」
エンジニアからそう言われ、ヘッドホンを譜面台の上に残して、Scottはブースを後にする。
コントロールルームでは、エンジニアがふたり、ミキシングテーブルの前で、ヘッドホンを耳に押し当てたまま、さっきのテイクを聞き返している。
どちらも、顔を上げない。
Uberで頼んだデリバリーの容器がテーブルの上に塔になって、その前にエナジードリンクの缶が整列している。 その脇を抜け、Scottはソファに体を沈める。
上手く行けば、次が最後のテイク。
今夜、家に帰れるかどうか。
それは、自分の次のテイクにかかっている。
そっと目を閉じて首のクロスを掴み、ぐっと引いて。
トン、トン。
胸板の上で弾ませる。
ブースのどこかで、椅子の背が軋む音がする。
エンジニアがヘッドホンを外し、椅子を回す。
その音に、目を開ける。
「……よしScott、今のテイク完璧だ。」
Scottは大きく息をつき、手を小さく握る。
──よかった。
「今日は、次がラストだ。」
「了解。」
膝を叩き、立ち上がる。
ひとりだけのブースの中。
Scottは譜面台の前で、首を回し、肩の力を抜く。
ヘッドホンを耳にかける。
ガラスの向こうエンジニアふたりは、まだ準備が終わっていないらしい。
ポケットからスマホを取り出す。
画面は午前0時を知らせていた。
メッセージアプリを立ち上げる。
【Scott】まだもう少しかかりそうなんだ。
先に寝てて。戸締まり気をつけてね。
【凛】了解。気をつけて帰ってきてね。
スマホを譜面台の上に置く。
待受の凛と目が合って、わずかに口元が緩む。
エンジニアの声が、ヘッドホンから聞こえた。
「準備いいか?」
譜面台の前から親指だけをのぞかせて、合図を送る。
バンドの音が流れる。
カウントを取って、歌を乗せる。
「もう一回、行ってみよう。」
エンジニアのその声を、三度聞いた。
ようやくOKが出て、スタジオ全体が大きく息をつく。
耳の奥では、さっきのメロディーが繰り返し響いている。
そのたびに口を開けかけ、Scottは苦く笑った。
帰宅したところで、すぐにまた別の曲のレコーディングが始まる。
睡眠時間を選んだ若いスタッフが、寝袋を広げる。
Scottは、それを横目にジャケットを手に取る。
「お先に」
そう言って、スタジオを出た。
自宅前で、芝の上の新聞を拾い上げる。
「……ねっむ。」
新聞を顔に当て、大きく欠伸を漏らす。
静かに玄関を開ける。
ドアの向こうから小さな足音が聞こえる。
尻尾を振って、ソラが姿をあらわす。
「ただいま……ありがとな。」
誇らしそうに顔を上げるソラを撫でてやると、ソラの爪が、床を鳴らす。
ソファにジャケットをかける。
テーブルの上に、小さなメモとキャンディが見えた。
“おかえりなさい
先に寝るね。 凛”
メモとキャンディをジャケットのポケットにしまう。
「ありがとう……明日、持っていくな。」
足音を抑えて、ベッドルームに入る。
ベッドで眠る凛に手を伸ばし、ふと立ち止まる。
「ん?」
引き戻した腕に鼻を近づけてみると、タバコと埃、それから汗の匂い。
思わず顔がゆがむ。
「シャワーだな。」
小さく呟いて、バスルームへ向かう。
──ひとりの頃は、そのまま寝てたのにな。
ふっと、小さな笑いが出た。
シャワーを浴び、体を洗い。
着替えた。
そっとシーツをめくって、ベッドに潜り込むと、背中を向け寝ていた凛が、寝返りを打つ。
凛の鼻がわずかに動く。
眠ったままの腕が伸びてきて、Scottは反射的に、わずかに身を引く。
それでも、そのまま胸元へ抱え込まれた。
──捕まった。
微かに聞こえる凛の鼓動。
髪に触れる息遣い。
包み込む温かさに、Scottの体が腕の中に沈む。
瞼が重くなり、眠りに落ちた。

