受け取った生き方を、そのまま渡さないために
職場を離れる人の机から、何冊ものノートが出てきたことがある。
長いあいだ、その人だけが担当していた仕事があった。
問い合わせへの対応。
取引先ごとの細かな約束。
何か問題が起きたとき、誰に連絡すれば話が早いのか。
どれも正式な手順書には書かれていなかった。
周囲が尋ねると、その人はいつも答えてくれた。
けれど、自分から説明することはほとんどなかった。
退職が決まり、仕事を引き継ぐ段階になって初めて、私たちは彼のノートに、何年分もの知識が残されていることを知った。
「もっと早く共有してくれればよかったのに」
誰かがそう言った。
私も同じことを思った。
その人がいなければ進まない仕事が多く、残された側は戸惑っていた。
けれど、本人の気持ちを聞くと、単純に責めることはできなかった。
以前の職場では、教えた相手に自分の役割を奪われたことがあったという。
頼られることが、自分の居場所を守る方法になっていた。
知っていることをすべて渡したら、自分には何が残るのか。
その不安を、彼は長く口にできずにいた。
自分を守るために情報を抱え込む。
人より先に進み、簡単には追いつかれない場所にいる。
弱みを見せず、必要とされ続ける。
それは彼が選びたかった生き方というより、過去の経験から身についた身の守り方だったのかもしれない。
私はその話を聞きながら、自分にも似たところがあると思った。
誰かがよい結果を出すと、心から喜べないことがある。
自分が見つけた方法を尋ねられたとき、肝心なところだけ曖昧にしたくなることもある。
時間をかけて得たものを、簡単に渡すのは損だと感じる。
その感覚は、ずいぶん自然に自分の中にあった。
誰かに教わった記憶はない。
けれど振り返ると、私の周りには、いつも見えない競争があった。
評価される人数には限りがある。
よい役割を得る人も限られている。
誰かが前に出れば、自分の場所が狭くなる。
そんな空気の中では、分かち合うことは美しい行為というより、危うい選択に見えた。
人を信じる前に、裏切られない準備をする。
協力する前に、自分の取り分を確かめる。
傷つけられる前に、相手の欠点を見つけて距離を置く。
そうした振る舞いは、誰かが言葉で教えなくても、日々の中で受け継がれていく。
あるとき、若い人と一緒に仕事をした。
彼は、自分がつくった資料や手順を、頼まれてもいないのに共有していた。
同じ失敗をしそうな人がいると、途中までつくったものさえ見せていた。
私は少し心配になった。
まだ完成していないものを出せば、粗さを指摘されるかもしれない。
自分の工夫を使われ、相手だけが評価されるかもしれない。
そう伝えると、彼は考えたあと、「自分だけが知っている状態のほうが、なんだか怖いんです」と言った。
その言葉が意外だった。
私にとって、知識を持っていることは安心だった。
彼にとっては、誰かがいなくなれば止まる状態のほうが不安だった。
同じ場所で働いていても、守ろうとしているものが違っていた。
彼のやり方が、いつもうまくいったわけではない。
共有した案を、別の人の成果のように扱われたこともあった。
手伝った相手から、感謝されなかったこともある。
彼自身、もう教えたくないとこぼす日があった。
それでも少し時間が経つと、また誰かに声をかけていた。
正しさを信じているというより、自分がどんな関係の中で働きたいかを、何度も選び直しているように見えた。
その姿を見て、誰かと力を合わせることは、効率のよい方法だけではないのだと思った。
どんな世界を次に残すかという、まだ小さな選択でもある。
警戒し合う場所で覚えた人は、警戒の仕方を次の人に渡す。
一人で抱えることで生き残った人は、抱え込む姿を見せる。
反対に、未完成なものを見せても関係が壊れなかった経験は、誰かが心を開くための記憶になる。
力を借りても居場所を失わなかった経験は、別の誰かを信じる余白になる。
私たちは、言葉より先に、生き方を渡しているのかもしれない。
何を褒めるか。
誰の失敗を笑うか。
困っている人を見たとき、距離を置くのか、隣に座るのか。
自分が得をしない場面で、どんな顔をするのか。
そこに、その人が信じている世界がにじむ。
だからといって、いつでも開いていられるわけではない。
信じたことで傷つくこともある。
分かち合えない日もある。
自分を守ることしか考えられないほど、余裕を失うこともある。
私も今なお、誰かに渡す前に、減るものを数えてしまう。
それでも、あの机から出てきたノートを思い出す。
そこには一人の人が懸命に守ったものと、誰にも渡されないまま終わりかけたものが、同じ文字で残されていた。
自分を守るために受け取った生き方を、そのまま次へ渡さなくてもよいとしたら。
私たちは、どんな関係の続きを、まだ見たことのない誰かに残せるのだろう。
