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現実の定義

私たちはどれだけ非現実を生きているのか

私たちはよく、「現実を見ろ」と口にしたりされたりします。

夢ばかり見ていないで、現実を見ろ。
理想ばかり語っていないで、現実を見ろ。
感情に流されず、現実を見ろ。
もっと地に足をつけて、現実的に考えろ。

この言葉は、たしかに大切な場面で使われる。
人は夢だけでは生きていけない。
身体があり、生活があり、お金があり、社会があり、時間があり、責任がある。

空腹になれば食べなければならない。
眠らなければ身体は壊れる。
寒ければ暖を取らなければならない。
病気になれば動けなくなる。
お金がなければ住む場所や食べるものにも困る。

そういう意味で、現実はたしかにある。

けれど、ここで一度立ち止まってみたい。

そもそも、現実とは何なのだろうか。

私たちは本当に、現実そのものを見ているのだろうか。
それとも、現実と呼ばれているものの多くは、身体、感情、記憶、制度、社会、未来への不安、他者の期待などが複雑に絡み合って、私たちの前に「現実らしく」立ち現れているものなのだろうか。

よく考えてみると、人間を動かしているものは、物質だけではない。

空腹に動かされる。
喜びに動かされる。
怒りに動かされる。
優越感に動かされる。
劣等感に動かされる。
生殖や承認の欲求に動かされる。
お金に動かされる。
決まりごとに動かされる。
社会に動かされる。
過去に動かされる。
未来に動かされる。
そして、ときには星や宇宙のような、はるか遠いものにさえ心を動かされる。

では、人間はどれほど「現実」を生きているのだろうか。
そして、どれほど「非現実」を生きているのだろうか。


現実は、物質だけでできていない

多くの人は、現実という言葉を「そこに実際にあるもの」として考える。

机がある。
身体がある。
家がある。
道路がある。
会社がある。
お金がある。

こうしたものは、わかりやすい現実である。

けれど、人間にとっての現実は、物理的に触れられるものだけでは成り立っていない。

たとえば、お金について考えてみる。

お金は現実的なものに見える。
お金がなければ生活は難しくなるし、お金があれば選択肢は増える。
だから、お金は非常に強い現実である。

しかし、お金そのものをよく見れば、それは紙であり、金属であり、数字であり、データである。

それがなぜ人間を動かすのか。
それは、人間社会がその価値を信じ、制度として扱い、交換可能なものとして認めているからである。

つまり、お金は物質でありながら、同時に社会的な約束でもある。
物理的な現実でありながら、制度的な現実でもある。
そしてその制度的な現実は、人間の信頼や合意によって支えられている。

これはとても不思議なことである。

紙や数字が、人を働かせる。
紙や数字が、人を安心させる。
紙や数字が、人を不安にさせる。
紙や数字が、人生の選択肢を広げたり狭めたりする。

では、お金は現実なのか。
それとも非現実なのか。

おそらく、そのどちらでもある。

物質としては単なる紙や数字でありながら、人間社会の中では極めて現実的な力を持つ。
つまり、お金は「現実として作用する非物質的な構造」なのである。


もう存在しない過去が、今を動かす

過去もまた、不思議な現実である。

過去はもう、目の前には存在していない。
昨日の出来事も、十年前の出来事も、物理的には今この場にない。

けれど、人間は過去に動かされる。

昔言われた一言。
かつて受けた傷。
一度の失敗。
一度の成功。
親との関係。
学校での経験。
誰かに認められた記憶。
誰かに否定された記憶。

それらは今、目の前にあるわけではない。
しかし、それらは現在の判断を変える。

挑戦しようとしたとき、昔の失敗がよみがえる。
誰かに近づこうとしたとき、過去の傷が距離を取らせる。
何かを始めようとしたとき、昔の否定の言葉が足を止める。

過去はもう存在していない。
それなのに、今の自分を動かしている。

だとしたら、過去は完全な非現実なのだろうか。

もちろん、過去の出来事そのものは戻らない。
けれど、記憶として残り、感情として疼き、判断として再生されるなら、それは現在に対して現実的に作用している。

つまり、人間は現在だけを生きているのではない。
人間は、記憶によって再構成された現実の中を歩いている。


まだ存在しない未来が、今を動かす

未来も同じである。

未来はまだ来ていない。
まだ存在していない。
目で見ることも、触れることもできない。

それなのに、人間は未来に動かされる。

将来が不安だから貯金する。
老後が心配だから働く。
誰かに認められる未来を想像して努力する。
失敗する未来を恐れて挑戦を避ける。
いつか報われるかもしれないと思って、今を耐える。

未来はまだ存在しない。
しかし、その未来像は現在の行動を変える。

人は、まだ来ていないものに怯える。
まだ来ていないものに救われる。
まだ来ていないもののために、今という現実を変える。

この意味で、未来もまた現実に作用している。

では、未来は現実なのか。
それとも非現実なのか。

ここでもまた、答えは単純ではない。

未来そのものは、まだ現実ではない。
しかし、未来への不安や希望が現在を動かすなら、それはすでに現実の一部として作用している。

人間にとって未来とは、存在しないにもかかわらず、現在を動かす力なのである。


人間は、現実と非現実のあいだを生きている

こうして見ていくと、人間の人生は、現実だけでできているわけではないことがわかる。

身体という現実がある。
空腹という現実がある。
痛みという現実がある。
病気という現実がある。
住む場所という現実がある。

しかし同時に、

お金という制度がある。
過去という記憶がある。
未来という予測がある。
感情という揺れがある。
他者の評価がある。
社会の常識がある。
自分はこういう人間だという物語がある。

これらは、石や水のように単純に触れられるものではない。
けれど、人間を確かに動かしている。

つまり、人間は現実だけを生きているのではない。
かといって、非現実だけを夢見ているわけでもない。

人間は、現実と非現実が混ざり合った場所を生きている。

そして、その混ざり合いの比率によって、同じ世界であっても、人によって見えている現実は変わる。

ある人にとって仕事は、収入を得るための現実かもしれない。
別の人にとって仕事は、過去の劣等感を埋めるための場所かもしれない。
また別の人にとって仕事は、誰かに認められるための舞台かもしれない。
あるいは、自分の存在価値を証明するための戦場かもしれない。

表面上は同じ「仕事」であっても、その人が何に動かされているかによって、仕事の意味は変わる。

同じ部屋。
同じ職場。
同じ街。
同じ社会。
同じ時代。

それでも、人によって生きている現実は違う。

なぜなら、人間が見ている現実は、世界そのものだけではなく、その人の身体、記憶、感情、未来予測、社会的位置、他者との関係によって形づくられているからである。


姿相とは何か

ここで、ひとつの言葉を置きたい。

姿相。

これは「しそう」と読む。
意味としては、「かたち」に近い。

ただし、ここでいう「かたち」とは、単に丸いとか四角いとか、大きいとか小さいとか、そういう三次元的な形だけを指すものではない。

姿相とは、あるものが、あるものとして立ち現れ、保たれ、作用し続けるための関係性のかたちである。

たとえば、会社というものを考えてみる。

会社は建物だけではない。
社長だけでもない。
社員だけでもない。
商品だけでもない。

そこには契約があり、役割があり、給料があり、顧客があり、信用があり、過去の実績があり、未来の目標があり、社会的な意味づけがある。

それらが組み合わさって、「会社」というものが成立している。

つまり、会社の形は建物の形だけではない。
会社という存在を成立させている関係性の輪郭がある。
それが、会社の姿相である。

人間も同じである。

人間は肉体だけではない。
名前があり、記憶があり、関係性があり、社会的位置があり、感情があり、欲求があり、過去があり、未来への希望や不安があり、自分はこういう人間だという自己認識がある。

それらが重なって、「その人」という現実が立ち現れている。

だから、姿相とは単なる見た目ではない。
存在を存在として保たせている、関係性と作用のかたちである。

そして、人間が生きている現実もまた、ひとつの姿相である。

物質、身体、感情、記憶、制度、未来、他者、物語。
それらが重なり、その人にとっての現実らしさをつくる。

それが、現実の姿相である。


人生における現実と非現実の比率

では、人間一人の人生において、現実と非現実はどれくらいの比率で混ざっているのだろうか。

もちろん、それを正確な数字で表すことは難しい。
けれど、分解してみることはできる。

たとえば、ある人が朝起きて仕事へ行く。

朝起きるのは、身体の現実である。
眠気、疲労、体温、空腹、時間。
これらはかなり物理的な現実に近い。

しかし、仕事へ行く理由はそれだけではない。

お金が必要だから行く。
これは制度的な現実である。

責任があるから行く。
これは社会的な現実である。

休むと迷惑をかけると思うから行く。
これは他者との関係による現実である。

将来が不安だから行く。
これは未来による現実である。

昔、怠けてはいけないと言われた記憶があるから行く。
これは過去による現実である。

自分はちゃんとした人間でなければならないと思うから行く。
これは自己物語による現実である。

こうして見ると、たった「仕事へ行く」という行為の中にも、物理的な現実、社会的な現実、記憶の現実、未来の現実、感情の現実、物語の現実が混ざっている。

つまり、人間の行動は、単純な現実だけで決まっているわけではない。

むしろ多くの場合、人間は触れられないものに動かされながら、触れられる世界の中で行動している。

これは、現実から逃げているという意味ではない。

人間の現実そのものが、そもそも現実と非現実の混合によって成立しているのである。


非現実は、現実逃避とは限らない

ここで気をつけたいのは、非現実という言葉を悪い意味だけで使わないことである。

非現実というと、すぐに「逃避」「妄想」「甘え」のように見られがちである。

たしかに、現実との接点を失った非現実は危うい。
理想だけで身体を無視すれば、生活は崩れる。
不安だけで事実を見失えば、行動は歪む。
過去の傷だけで現在の人間関係を見れば、目の前の相手を正しく見られなくなる。
思い込みだけで世界を判断すれば、現実とのズレは大きくなる。

だから、非現実は慎重に扱う必要がある。

けれど、非現実は悪ではない。

夢があるから、人は今を変えようとする。
理想があるから、人はまだ存在しない未来へ向かえる。
物語があるから、人は苦しい出来事に意味を見出せる。
希望があるから、人は現実の重さに耐えられる。

人間は、現実だけでは燃え続けられない。

食べる。
寝る。
危険を避ける。
身体を守る。

それだけでも生命は維持できるかもしれない。
しかし、人間の人生はそれだけではない。

何のために生きるのか。
誰と生きたいのか。
何を大切にしたいのか。
何を残したいのか。
どんな自分でありたいのか。

こうした問いは、物質だけからは出てこない。

だから、非現実とは必ずしも現実逃避ではない。
非現実は、現実を生きるための燃料でもある。


現実的な人とは、何を見ている人なのか

世間では、「現実的な人」という言葉がある。

現実的な人。
地に足がついている人。
夢を見すぎない人。
ちゃんと生活やお金や責任を考えられる人。

もちろん、それは大切である。
生活を無視して理想だけを語ることは危うい。
身体を無視して精神論だけで進むことも危うい。

けれど、本当に現実的な人とは、単に夢を捨てた人のことなのだろうか。

私は、そうではないと思う。

本当に現実的な人とは、自分が何に動かされているのかを見分けられる人ではないだろうか。

お金に動かされているのか。
恐怖に動かされているのか。
過去に動かされているのか。
未来への不安に動かされているのか。
他者の期待に動かされているのか。
社会の常識に動かされているのか。
身体の疲労に動かされているのか。
それとも、自分が本当に大切にしたいものに動かされているのか。

現実を見るとは、夢を捨てることではない。
感情を否定することでもない。
理想を笑うことでもない。

現実を見るとは、自分を動かしている作用の正体を、ひとつずつ見分けていくことなのではないか。


現実とは、作用するものの姿相である

ここまで考えると、現実の定義は少し変わってくる。

現実とは、ただ「そこにあるもの」ではない。

もちろん、物理的に存在するものは現実である。
身体も、空腹も、痛みも、住む場所も、時間も、距離も、たしかに現実である。

しかし、人間にとっての現実は、それだけではない。

人間にとって現実とは、自分を動かしてしまうものでもある。

過去が今を動かすなら、過去は現在に作用している。
未来が今を動かすなら、未来は現在に作用している。
お金が人生の選択肢を変えるなら、お金は制度として作用している。
感情が世界の見え方を変えるなら、感情は現実の重みを変えている。
他者の言葉が人生の方向を変えるなら、その言葉はその人の中で現実として生き続けている。

つまり、現実とは存在そのものだけではなく、作用のあり方でもある。

そして、その作用が関係性の中でひとつのかたちを持ったとき、それは現実の姿相として立ち現れる。

人間は、世界そのものをそのまま見ているのではない。
世界と自分のあいだに発生した作用のかたちを、現実として受け取っている。

だから、同じ世界にいても、人によって現実は違って見える。

同じ言葉でも、ある人には励ましになり、別の人には傷になる。
同じ沈黙でも、ある人には安心になり、別の人には拒絶になる。
同じ未来でも、ある人には希望になり、別の人には不安になる。

世界は同じでも、姿相が違う。
作用の重なり方が違う。
生きてきた記憶が違う。
身体の状態が違う。
社会的な位置が違う。
未来の見え方が違う。

だから、人間にとっての現実は一枚ではない。

現実とは、世界がその人に対して見せている姿相なのである。


私たちはどれだけ非現実を生きているのか

では、最初の問いに戻りたい。

私たちは、どれだけ現実を生きているのだろうか。
そして、どれだけ非現実を生きているのだろうか。

おそらく、その答えは人によって違う。

身体の苦しみが強い人は、物理的な現実の比率が高くなる。
お金に追われている人は、制度的な現実の比率が高くなる。
過去の傷に縛られている人は、記憶の現実の比率が高くなる。
未来への不安が強い人は、まだ存在しない未来の比率が高くなる。
夢や理想に向かっている人は、非現実の比率を燃料として生きている。
他者の評価を強く気にしている人は、社会的な姿相の中で自分を見ている。

人生とは、現実と非現実の比率が絶えず変わり続ける過程なのかもしれない。

子どものころは、物語や想像の比率が高い。
社会に出ると、お金や責任や制度の比率が高くなる。
傷ついた経験が増えれば、過去の比率が高くなる。
希望を持てるときは、未来の比率が高くなる。
疲れているときは、身体の比率が高くなる。
誰かを愛するときは、他者との関係の比率が高くなる。

人間は、いつも同じ現実を生きているわけではない。

その時々で、自分を動かしているものの比率が変わる。
そしてその比率の変化によって、人生の姿相も変わっていく。

だから、「現実を見ろ」という言葉だけでは足りない。

本当に必要なのは、

自分は今、どの現実を強く生きているのか。
どの非現実に動かされているのか。
どの記憶に縛られているのか。
どの未来に怯えているのか。
どの物語を信じているのか。
どの姿相の中に閉じ込められているのか。

それを見つめることなのだと思う。


おわりに

現実は、否定するものではない。

身体はある。
生活はある。
お金は必要である。
社会の中で生きる以上、責任や制度から完全に離れることはできない。

だから、現実を軽んじることはできない。

けれど同時に、現実を絶対視しすぎることも危うい。

なぜなら、私たちが現実だと思っているものの中には、過去の記憶、未来への不安、社会の常識、他者の期待、自分で作り上げた物語が深く混ざっているからである。

それらは、単なる嘘ではない。
単なる幻想でもない。
実際に人間を動かしている以上、それらは現実に作用している。

しかし、それは世界そのものではない。
それは、世界と自分のあいだに立ち現れた姿相である。

だから、現実を見るとは、諦めることではない。
夢を捨てることでもない。
感情を殺すことでもない。
社会に従うことだけでもない。

現実を見るとは、自分を動かしているものの正体を見つめることである。

身体なのか。
お金なのか。
記憶なのか。
未来なのか。
感情なのか。
他者なのか。
社会なのか。
物語なのか。

それらがどのような比率で混ざり、自分の前にどのような現実の姿相を作っているのか。

そこに気づいたとき、人は初めて、自分の現実を少しだけ見直すことができるのかもしれない。

私たちは、現実だけを生きているのではない。
そして、非現実だけを夢見ているのでもない。

私たちは、現実と非現実のあいだに生じた姿相を生きている。

その姿相を見つめ直すこと。
それが、現実を見るということなのかもしれない。

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