感染症をめぐる集団変容と歴史(叢書 感染症の人間学3)市川智生(編)/春風社
「集団化」という概念には、色々考えさせられた。薬学に携わる身として、医療実践における集団化の手続きは自明のものだったが、その影響に対して自分がいかに無自覚だったかに気づかされ、医療者のパターナリズムとの関連を思った。
一方で、プライマリ・ケア医に関する論考には、彼らを意図的に集団化しているように見えてしまい、今のところピンとこない。
このシリーズを医療関係者が読んだ感想が聞いてみたい。楽しい。
学会に行くまでに「4」まで読みたかったのだけど、どうにもまとめをしておかないと、色々抜けていきそうで、書いている。
「1」が「都市・移動」、「2」が「生の統治」ときて、「3」は「集団変容と歴史」である。都市も移動(手段)も、「統治」だって「歴史」を触れずに説明できないことがはたくさんあろうし、実際に触れられてもいる。
とはいえ、「3」ではちょっと毛色が違う。
3巻目のテーマ
「3」は、春風社さんのHPに書いてある言葉が割と直球なように感じる。
感染症は、社会に「線」を引く
植民地の衛生管理から現代のクラスター対策まで、それは誰を隔離し、誰を救ってきたのか? 歴史学×文化人類学の視座から見る、病と共に変容する人間集団の力学。シリーズ第3巻
序章では、編者である市川智生氏がコロナ禍で経験した家族との死別が綴られている。祖母との死別にあたって十分な面会ができなかったことについて市川氏は「家族と会うことよりも集団の健康を維持することが優先された」(P12)と綴っている。
そのようなことから話が展開し、本書のテーマを「感染症をめぐって生じうる人間社会の集団変容のありよう」(P14)と、「感染症対応の中に歴史的な要因がどのように見出せるのか」(P14)の2つに設定されていると言う話になる。
すごく雑にいえば、集団が様々な要因で形成されたり、変化して行ったりする様と、その集団ごとに行動様式などが大きく異なることによって起こる様々な結果についての記述。
そして、それに歴史的な要因がいかに絡んでいるのか?みたいなことが書かれている。
また、1〜2と異なり、「3」では鼎談も収録されていて、ここでは「未来」の話が出てくる。
第6章 《鼎談》 COVID-19を乗り越えた先に何をみるべきなのか――環境問題・社会格差・行動変容(濱田 篤郎・奥田 若菜・斉藤 美加)[pp.203-230]
議論の柱は、環境問題、社会格差、そして個人の行動変容の三点に集約される。まず、人獣共通感染症としての側面から、野生動物との接触機会を増大させる環境破壊がパンデミックの根源にあることが指摘された。次いで感染症対策がいかに既存の社会格差を可視化・増幅させたか、また医療資源の分配をめぐる倫理的課題がいかに立ち現れたかが論じられる。 専門知が交錯する対話を通じ、感染症を単なる生物学的脅威としてではなく、政治、経済、環境が複雑に絡み合う現代社会の構造的課題として捉え直し、次なる危機への備えを提言する。
集団化
集団変容を論じるにあたって何回か「集団化」とか「家族のようなもの」と言う言葉が出てくる。
第1章 家事を介した集団化と生活の粘り気――インドにおける感染症の経験から(田口 陽子)[pp.29-61]では
「何らかの社会集団を所与とするものではなく、人々の想像力や願望や実践が環境の中の諸要素と相互に影響を与えながら形作られているものとして、集団化を捉える」(P29)と書かれている。
「集団化」と言う言葉自体は、農業や工業の集団化とか、社会学でいうところの社会化とかそんなに特別な言葉に感じられず、「すわ、また俺の知識不足か!」となり、本を文献を追加購入することになる。
あんまり細かくそれについて説明するのはアレだけど、追加文献を読んでいくと、確かに我々様々な「集団概念」を作ることで物事を考えたりしているなぁと思う。
浜田はまず「人種」の話から始めて議論を進めるが、公衆衛生であれば喫煙者、肥満みたいな集団化があるだろうし、医薬品の添付文書だって「成人」、「小児」、「XX のある患者」、みたいに集団化がいっぱい出てくる。
これらは、科学的知識を「使う」ために必要な行為だと思う。
しかしこうやって「基準」を作ることによって、それに適合する人々を集団化してしまうことが「どのような影響を及ぼすか」についてはあまり考えていない。
そうやって考えると、わざわざ「集団化」と言う言葉を使って議論をすることには大きな意義があるように感じる。面白い。
集団化とその歴史
第3章 ロシア帝国領トルキスタンにおけるマラリア病因論と集団化(宮崎 千穂)[pp.103-134]では、医学が「何かを分類したり括ったりする作業」が疾病対策の中で答えを出すための科学的な手続きになりうると言うことが示される(P104)。
そして、そういった手続きの目的、意義、実際にどうやって行われたのかを歴史を遡って検討していく。地理的要因、患者の社会的状況といった情報、マラリアの媒介生物、その生息状況、マラリア自体の変化など、実に様々なものが影響して、人々は「集団化」される。
第4章 肺ペストと集団化――奉天および大連の事例(一九一〇~一九一一年)(福士 由紀)[pp.135-162]では、肺ペストに対する公衆衛生上の対策としての集団化について論じられる。患者の奥が出稼ぎ労働者や貧困層だったことから、対策的に重要な集団に位置付けられる。さらにこれらの集団に対する措置が奉天・大連という土地によって異なることが、歴史的な経緯や社会的な特性に関係があることが示唆される。
第5章 新しい感染症時代へ受け継ぐもの――八重山のマラリア対策の歴史(斉藤美加)[pp.163-202]では八重山におけるマラリアの排除の歴史が示され、日本軍、米軍、移民、地元民などがどのように絡み合ってマラリアを排除したかが語られる。そして、COVID-19対策でのゴタゴタは「かつて八重山が経験したことに重なる」(P195)とされる。
どれも、歴史的な事実や医学・公衆衛生的な科学的手続がいかに人々を集団化し、結果として何が起きたかという実際の事例として読む。
薬学をやっている自分の視点で見れば、「集団化」という手続自体は医療を実践するにあたって自明のことみたいになっていることに気づく。
そして、読めば読むほど「集団化の影響」に無自覚なことに気付かされる。
これが医療者のパターナリズムに関係しているようにも思う。
プライマリ・ケア医の項
「1」と同じく「3」にもプライマリ・ケア医と人類学者が共同で書いた論文が収められている。ここではあまり細かくは書かないが、どうにもこれがしっくりこない。
それは私が医師でない&薬剤師だからなのか、コロナ禍において同じく医療やら感染対策に少しでも重なるような場所にいたからなのかはわからない(改めて、ちゃんと考えておこうと思っている)。
確かに、様々なイベントがあり、医療を崩壊させぬように様々なことを犠牲にした面があるとは思うし、医師に限らず全ての人が大変だったのだろうから、その経験や語り自体を否定・非難するものではない。
「パラ国家」(浜田 2024、Geissler 2015)(P64)や、先行研究(Checkland et al. 2021)が示すような「非常に脆弱な人々の外側」(P65)ではなかったよ、というのをインタビューから掘り起こした、というのも言わんとすることはわかる。
けれども、基本的には「インタビュー」に依存するからか、全部「外側からプライマリ・ケア医をパッケージした」ように感じてしまう。
ただ、プライマリ・ケア医が「一方的に地域住民をいくつかの集団として括り出していたのではなく、自らもそこの一員であった」(P92)とか「職業集団として括り出されたり、他の似たような職業集団との差異を強調して自らの職業を集団化したりしていた」(P92)と言われても、ピンとこない。
それはおそらく大半の人が経験したことであって、プライマリ・ケア医だけのことなんだろうか?と思う。
さらに言えば、「プライマリ・ケア医以外の医師」とか「看護師をはじめとした病院にいるスタッフ」とかとの差異がわからない。
要するに、プライマリ・ケア医という人々を意図的に集団化したように見える。これも私の浅学のなせる技なんだろうか?自信はない。
おわりに
「2」に引き続き、「3」でも色々な意味で知らないことや新たなモノの見方に触れることが出来た。
そして、追加で書籍を購入する流れになった(こういうところが、専門家だったらスラスラ行くのだろうか?)。
「3」には、マラリアについてかなり詳しく説明されていて、そこからO157を捏ねくり回していたことを思い出して郷愁に浸ったりもした。
この辺りの「2」、「3」だけでもいいから医療関係者に読んでみてもらい、感想を話し合ってみたくなる。
しかしまあ、すぐに追加文献購入をしたりする自分をふと振り返り「なんでこんなに熱中しているんだろう?」と思わないでもないが、そこは自分でもよくわからない。
それはそれとて、読んでいて楽しい。
