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二年半、『記紀』を歩いて見えてきたこと

ヘッダー画像:すべての始まりは、この場所から。太安万侶おおのやすまろの墓にて(奈良市此瀬町)


なぜ私は、記紀を旅し続けているのか


なぜ私は『記紀』を旅し続けているのか。この問いは、ここ最近ずっと私の中で静かに沈み続けていました。

これまで、「いっしょに記紀を旅しよう」というコンセプトで記事を書き続けて、ようやく今、応神天皇紀までたどり着きました。

歩き始めた頃の私は、「歴史認識」という問題を、強く意識していたわけではありません。ただ純粋に、先人たちが遺した物語の痕跡をたどりたい。その一心でした。

しかし、『記紀』を読み進め、現地に立つ回数を重ねるほど、私の中にはひとつの違和感が、おりのように少しずつ積もっていきました。

なぜなら、史跡の現地案内や博物館の展示資料には、「記紀にも記されている」程度で、どこか距離を置いた書き方になっていたり、学校の歴史でもほとんど触れられることがなかったり。「なぜ私たち日本人は、自国の歴史書をここまで遠ざけてしまうのだろうか」。この問いが、私の旅の中心に、いつの間にか置かれるようになったのです。

もちろん私は、『古事記』『日本書紀』を、そのまま絶対的な史実として受け取るべきだと言いたいわけではありません。国家事業として編纂された以上、そこに政治的意図や大和朝廷の正統化が含まれていることは、当然あるでしょう。

けれども、私が以前から、そして今あらためて強く感じているのは、その「説明のされ方」への違和感です。

記紀に政治性があること自体ではありません。私が引っかかり続けてきたのは、政治性があるという理由だけで、最初からその全体を距離を置いて扱おうとする思考の癖です。

ここ数回、古墳の築造、河内の開拓、そして渡来氏族として東漢氏・秦氏・西文氏の記事を書いてきました。
今回は、それらの底にある違和感の根――なぜ私は『記紀』を旅し続けているのか――を、言葉にしてみたいと思います。


「政治的だから」で遠ざける語りの癖



よく耳にする言葉があります。
「記紀は政治的に編纂された歴史書だから、史料批判が必要だ」と。
もちろん、それ自体は誤りではありません。史料批判は必要ですし、学問の基本でもあります。

ただ、私がどうしても違和感を覚えるのは、そのことがまるで『古事記』『日本書紀』だけに特有の重大な欠陥であるかのように語られる場面です。私は、その語りの癖に違和感を覚えてきました。

国家が編纂した歴史書に政治性があることなど、日本に限った話ではありません。中国でもヨーロッパでも、ごく当たり前のことです。むしろ、政治性をまったく帯びない国家史のほうが珍しいでしょう。

私は既存の研究を軽んじたいわけではありません。むしろ、これまで多くを学んできましたし、その蓄積には深い敬意があります。
そのうえでなお、現地に立つと、説明しきれていない空白や、従来の語り方だけでは受け止めきれないものが見えてくるのです。

私にとって『記紀』を読むということは、ただ文献を追うことではありません。
各地に残る地名や伝承、地形や古墳、神社や寺、そうしたものに実際に触れながら、書かれた言葉と土地の記憶の重なりをたどっていくことです。

だから私は、最初から「政治的な書物」として遠ざけるのではなく、むしろそこに何が書かれ、なぜそう書かれ、どこまでが土地の記憶と響き合うのかを、自分の目で確かめながら読みたいのです。


応神紀に見えてくる「渡来人」と「主体性」

応神天皇紀まで書き進めてきた今、私は、日本人が『記紀』をどこか遠ざけてしまう理由のひとつが、この時代以降の記述にあるのではないかと感じています。

応神紀以降、『記紀』(とくに『日本書紀』)には、朝鮮半島との関係を示す具体的な記述が急増します。
朝貢、帰化、捕虜、外交、軍事、技術――そうした内容が次々に記されていきます。

私は、渡来人の存在を否定したいのではありません。むしろ、交流と移動があったことは、この列島の成り立ちを考えれば自然なことだと思っています。

ただ、違和感があるのは、古代日本が「渡来人がさまざまなものをもたらし、日本がそれを受け取った」というかたちでしか語れなくなる空気です。その語りが一方向化すると、日本側の主体性が見えにくくなってしまう。

古墳の築造も、開発も、制度も、文化も、すべてが「外から来たもの」で説明されてしまうことがあります。けれども、外からの影響を認めることと、日本側の主体性まで見失うことは、まったく別の話です。

渡来人を受け入れ、その知識や技術を活かし、どのような秩序の中に組み込み、どのような国のかたちへと結びつけていったのか。そこには当然、受け入れる側の意思と選択があったはずです。

もし大和政権に、受け入れる側としての主体性や組織力がなかったのなら、そもそも大規模な渡来人の受け入れ自体が成立しません。

数百、数千という単位の人々を海を渡らせ、受け入れ、住まわせ、働かせ、食糧を供給し、秩序を保ち、国家規模の事業を完遂させる。そのために必要なのは、単なる技術の移入だけではありません。

  • 人と資源を配置し、全体を動かす力

  • 組織を運営する力

  • 何より「この国をどう形づくっていくか」という構想力

それらがあって初めて、この列島の形がつくられていったのだと思うのです。その過程まで、ただ「外から来たもの」として片付けてしまえば、私たちの側の能動性は見えなくなってしまいます。

私は、その主体性を見たいのです。



ここで、私の旅の記憶をひとつ。

大阪歴史博物館展示。長原高廻り2号墳(4世紀末・大阪市平野区)出土の船形埴輪
葛城市歴史博物館展示。葛城市寺口和田4号墳(5世紀前半の円墳)出土の船形埴輪(復元品)

4世紀末や5世紀前半ですから、私の想定する応神天皇の時代に近いものです。

当たり前のことですが、念のために言っておきます。日本列島へ「来る」ことが他と決定的に違うのは、地続きではなく、海を渡らなければならないということです。

想像してみてください。

この船を何人くらいで漕いだのでしょう。

漕ぎ手以外に、渡来する人間を何人くらい乗せられたのでしょう。

数千数万人が渡来してきたと言いますが、船は何艘必要だったのでしょう。

船は誰が用意したのでしょう。

やってきた人の生活は、誰が面倒を見たのでしょう。

ずいぶん後世の話で、航路も事情も異なりますが、鑑真和上が失明しながらも六度目の渡航でようやく日本にたどり着いた話は、よく知られています。

8世紀の鑑真の頃の遣唐使船は、百人以上が乗れる大きな船(漕ぎ手が半数)だったようです。けれども、5世紀頃の準構造船はそれよりはるかに小さく、横波にも弱かったと考えられます。

気象を予測する術も、もちろん現代とは比べものになりません。海を越えて日本列島へ渡るということは、それほどまでに命がけのことだったはずです。

それでもなお、人はなぜ海を渡ってきたのか。私はそのことを、もっと真剣に考えてみたいのです。



土地を歩くと見えてくるもの


『記紀』を読み、各地を歩いていると、文字だけでは見えてこないものがあります。

同じ伝承でも、土地に立つと、急に手触りを持って迫ってくることがある。
逆に、文字の上では大きく語られていても、現地では驚くほど痕跡が薄いこともある。

前回、前々回の記事で書いた、阿智使主のように、地名・遺跡・生活文化が重なり合い、現地性の濃さが感じられる例もあれば、弓月君のように、後世の大きな物語に比べて、初期の痕跡の核が見えにくい例もある。

王仁のように、古代の人物を追っていたはずが、気づけば近代以降の記念化の風景に出会うこともある。

こうした経験を重ねるほど、私はますます、『記紀』を単純に「信じる/信じない」の二択では扱えないと思うようになりました。

土地に残るものと、後世に語られたもの。
その重なりとずれの両方を見ること。
私にとって記紀を読むとは、その作業でもあります。

イデオロギーではなく、アイデンティティ

応神紀以降の記述は、どうしても現代の東アジア情勢とも接続しやすい。
だからこそ、政治利用や隣国への配慮が語られます。
その慎重さ自体を、私は否定しません。

けれども、そうした空気が強くなりすぎた結果、

私たち自身が、自国の歴史を「自分たちの物語」として受け取ることまで、ためらうようになってしまったのではないか。


私のいちばん大きな違和感と危機感は、そこにあります。


外からもたらされた知識や技術、思想を認めることは大切です。
しかし、その語りが強くなりすぎれば、日本側が何を選び取り、どう組み替え、どう自分たちのものとしてきたのかが見えにくくなる。

これはイデオロギーの問題ではなく、アイデンティティの問題です。

私は、「日本人すごい」と言いたいわけではありません。排外的な思想を持ちたいわけでもありません。渡来人も来ただろう。文化も混ざっただろう。技術も交流の中で育まれたに違いない。

それでも、ここは日本なのです。


この列島で、人が暮らし、争い、祈り、国をつくり、長い時間を積み重ねてきた。

渡来人と言っても、それは千数百年前の話です。その子孫たちもまた、その後ずっと日本列島で暮らしてきたわけです。そうしたことも含めて日本人が形成されていった。

そうしたことも含めて、私は自分たちの歴史として、できるだけ丸ごと受け取りたいのです。

『記紀』には、神話と事実が折り重なっています。
同時に、「この国の人々が、自分たちをどう理解しようとしたのか」という切実な意思も刻まれています。

それを「政治的だから」「神話だから」という言葉だけで切り離してしまうのは、自らの根を自ら細くしてしまうことにもつながりかねません。

だから私は、『記紀』を無批判に信じたいのではなく、かといって最初から遠ざけたいのでもなく、
自分たちの来し方を考えるための、
大切な手がかりとして読みたいのです。

歴史は、川の流れのように


私の座右の銘には「不易流行」という言葉もあります。

変わるべきものは変わり、外から来たものも受け入れていく。
しかし、変わらず続けてきたからこそ意味を持つものもある

この二年半、『記紀』を旅しながら、私はその「変わりながら、あるいは変わらなく、流れ続けてきたもの」を見つめてきた気がしています。

歴史は、川の流れのように

いくつもの支流が集まり、混ざり合い、ときに激しくぶつかり、形を変えながら、それでも一本の大河として流れ続けていく。

渡来人の話も、その支流のひとつです。
けれど、大河は支流の総和であると同時に、この国の地形に沿い、この国の人々の暮らしの中で、その川筋を形づくってきたものでもあります。

私は、その水の流れを見失いたくない。

流れの中に立ち、水の冷たさを感じ、どこから来てどこへ向かったのかを、自分の感覚でも確かめていたいのです。

私にとって「記紀を旅する」とは、そういうことです。

応神紀を経て、この旅はこれからさらに深く、さらに刺激的なものになっていくと思います。
その節目で、いま自分がどんな視点で記紀を読んでいるのかを、一度きちんと言葉にしておきたくて、この記事を書きました。

これからも皆さんと一緒に、この「川の流れ」を見つめていけたらと思います。
どうぞよろしくお願いします。



おまけ

「葛」を「くず」と読み、「葛城」を「かつらぎ」と読むのも、『記紀』の世界につながっていて面白いんですよ。

少し重たい話になってしまったので、最後は軽めのお口直しに、飛鳥の風を感じる「葛餅」をどうぞ☺️

飛鳥資料館前の天極堂で葛餅を食べました。つくりたて、賞味期限は10分😯


お知らせ


5月30日にペーパーバック本が発売されました。手元に残しておきたい一冊として、飛鳥の散策に持って行きたい一冊として、ぜひご検討ください。


飛鳥・藤原の宮都、ユネスコ諮問機関・イコモスが登録を勧告。
来月、世界遺産登録へ!
https://news.web.nhk/newsweb/na/na-k10015142291000

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