格闘技が語学だとしたら、それは話し言葉か、書き言葉か――伝統空手と野村駿太についてのメモ
空手において形の競技を見たことがある人。正直な話、一度は思ったことがあるはずだ。ありゃいったいなんだ、と。いや、気迫あふれる様子とか身体操作の無駄のないキレとかはわかる。美しいとも思うだろう。けれどもそれでもどうしても思ってしまうのは「あれは格闘技なのだろうか」ということ。やっぱりありゃいったいなんだ、と。
相手がいないのに、なぜ「強さ」を競えるのか。誰も殴られないし、誰も投げられない。それなのに審判が点をつけ、優劣が決まる。
やはりというべきか、「あんなものは格闘技じゃない」と言う人は結構いる。その一方で、空手の先生たちのなかには「形こそ空手の本質だ」と言う人も結構な割合でいる。この奇妙な一致しなさが気になるのは、決して私が形が苦手だから、なだけではないだろう。
形というメディア
私の空手の先生はシンプルに説明する。「形は技の記憶装置。昔の人が突きとか蹴りとか投げとか、いろんな技を覚えやすくしてくれたの。だから形を覚えれば、空手の技を覚えられる」。
言うことを全然聞かない子どもたちを追いかけながら、大声で早口気味に説明した先生の言葉に、私は大きく膝を打った。そうか。形はメディアだったのだ。ホメロスの叙事詩が韻律と定型句によって暗誦可能になっていたように、形は反復可能な動作の連鎖によって技を運搬可能にした。完全な複製ではなく、毎回の演じ手によって少しずつ変奏されながら、核となる構造は時間を超えて伝わっていく。口承文学だ。
ところで、個人的に区別しているだけなのだが、形には現在2種類ある。鍛錬のための形と、競技としての形だ。
例えば鉄騎初段(ナイファンチ)という形。沖縄空手の代表的な鍛錬形で、騎馬立ち(場合によっては四股立ち)のまま左右に動く。
伝統空手のみならず、フルコンタクト系や総合格闘技系の空手競技者にも結構好まれる形なのだが、これを大会の形競技で見かけることはほとんどない。
もちろん競技に向かないのには、この形特有の事情はある。他の形よりも圧倒的に横移動が多く、横並びで演武する試合においては、ほぼ確実に対戦相手とぶつかってしまう。また、形自体の時間はとても短いため、単純に高得点が見込めないというのもある(そもそも形の採点基準自体は不明瞭ではあるのだが)。
しかしもっとも大きな理由としては、それ以前にそもそも、こういった鍛錬形は人に見せるためのものではない、という共通理解があるのだと思う。鉄騎初段の場合は、騎馬立ちと膝抜きをひたすら体に覚えさせるために、地味で華のない動きをひたすら繰り返す。要するにメディアとしての機能、口伝のフォークロアに近い性格をそのまま保つ形なのである。
一方で、競技形においては全く違う世界が広がっている。不特定多数の読み手——審判、観客、世界——に向けて開かれた瞬間に、形の持つ性質は大きく変わり、何を伝えるかよりもどう見えるかが前景化する。低い立ち方、誇張された挙動、止めの美しさ。自身の身体の馴致というより、動きそれ自体の自律性を高めていく。
映像メディアと、形の固定化/組手の即興化
20世紀後半から現在にかけて、空手では興味深い変化が同時並行で起きている。形の固定化と、組手の即興化だ。
例えば40年ほど前のJKA(日本空手協会)の組手映像。これを今の目で見てみると、私なんかは結構形っぽいな、と思ったりする。一番大きいのはフットワークがなくすり足主体だからだろうけれど、それ以前に技のひとつひとつ、特に「受け」など、形の動きを実践のなかに落とし込もうとしている。
組手と形というのは、かなり近い位置にあったのではないだろうか。
現在はどうなんだろうか。JKF(全日本空手道連盟)という団体は1964年に設立されて以来、ある意味、形の正典化に勤しんできたと言っていいと思う。元々オリンピック競技化を目指す団体なわけで、だから2020東京大会は悲願だったわけだが、とにかく試しにYouTubeで「平安初段」とか「平安五段」とか動画を探してみるといい。一番「公式」らしくポイント解説まで含めて見やすい動画があったら、それはJKFのものだ。
流派ごとに揺らぎのあった動きが、明確な正解を持つカノンとして固定されていく。演武は繰り返し再生可能な対象になり、細部が拡大され、判定は厳密化し、美的基準が精緻化される。映像メディアを積極的に活用しながら、形は固定化していく。
その一方で、組手は逆に、よりゆるく自由になっていったと思う。ただしその緩さとは、どんな技でも出せばいい、というものではない。組手の自由は、語彙を絞り込むことと引き換えに獲得されたものだろう。
現在の組手で実際に使われる技は、かなり限定的だ。刻み突き、逆突き、回し蹴り、前蹴り、裏回し蹴り。一昔前は裏拳や拝刀のような技も有効技としてカウントされたが、最近はあまり見ない。形にちゃんと入っている技はもっと無数にあるのに、例えば平安/ピンアン初段(初級者が一番最初に覚える形。流派によっては平安二段とされることもある)にいきなり登場する「鉄槌打ち」なんて、組手ではまず使われない。
つまり組手は、技の語彙を絞り込むことによって、即興のスピードと精度を上げた。これは日常会話が使う語彙が、文学作品より遥かに少ないのと同じ構造だ。話し言葉は語彙を絞ることで速さを獲得する。
なるほどそう考えると「形にこそ空手の本質がある」と主張する先生方の言わんとしていることも、なんとなくわかってくる。形は、組手が使わなくなった語彙の総体を保存しているのだ。組手という話し言葉は、形という書き言葉の語彙の一部しか使わない。形を捨てたら、空手は直突きと回し蹴りだけのスポーツになってしまう。
組手の語彙は、どう増えるのか
本論と逸れるけれども、組手に使える語彙が絞り込まれてしまった今、組手はもはや痩せていく一方なのだろうか、ということも気になる。これは完全に私の推測に過ぎないが、組手の語彙は、隣接領域の格闘技から流入してくるのではないか、と思っている。
ボクシング、キックボクシング、MMA。これらは空手とは別の競技として独立しているが、それぞれが映像メディアを通じて、競技者・審判・観客の記憶に「効く技」を蓄積していく。誰々のあのワンツーは美しい、誰々のあのローキックは決まる、誰々のあのテイクダウンは芸術的だ。そういう蓄積が、ジャンルを横断して観る側の身体に刻まれていく。
そして空手の組手競技者も審判も、無意識のうちにその影響を受けている。何が「効きそうに見える技」なのかの基準が、空手の内側だけで決まらなくなっている。
まあこれに関しては検証は難しいはず。空手内部の語彙の限定化と、外部からの語彙の流入を、明確に切り分けて記述するのは難しい。しかし、組手という話し言葉が時代とともに変質していくとき、その変質の供給源が空手の外側にあるかもしれないという視点は、形と組手の関係を考えるうえで無視できない気がしている。
形が空手の語彙の総体を保存する書き言葉だとすれば、組手は貪欲に別の言語を取り入れようとする話し言葉であり、その両輪が空手を更新し続けるのだと、ひとまずは置いておくことにする。閑話休題。
永木伸児という不思議な選手
形と組手の関係について語るときに、どうしても触れたい選手がいる。永木伸児(ながきしんじ)という。1982年生まれ、愛媛県出身、身長167cm、所属は日本空手松涛連盟(JKS)。競技者としては引退しているものの、伝統空手の組手においてはレジェンド的な選手だ。
現在、特にJKFルールの試合によく出る選手たちは、大体形選手と組手選手とに分かれる傾向が強いらしいのだが、永木伸児は元々形選手としてキャリアをスタートさせた。
現代の組手において、形が直接的に役立つかというと、おそらくそのようなことはないと思う。荒賀竜太郎のような世界トップの組手選手は、刻み突きという最頻出の技で世界を獲っている。永木伸児だって試合で見せるのは逆突きに見える。これらは現代伝統空手で誰もが最初に習う技で、別に形を深くやらなくても組手選手として極めることはできる。
だから永木伸児の場合は、ある意味、「過剰」なことをやっていると捉えられてもおかしくない。組手で勝つのに必要な蓄積を超えて、彼は形をずっとやっていた。なぜそうしたのかは、傍から試合を観ているだけではわからない。
現代MMAの次世代ホープのひとりで、伝統空手出身の選手に野村駿太選手がいる。同じ伝統空手出身の堀口恭二選手のいるATTに所属し、RIZINライト級王者との対戦が決定していた(2025年大晦日にホベルト・サトシ・ソウザ選手とのタイトルマッチ予定だったが、怪我のため欠場。代役のノジモフがサトシに勝利したため、現時点では次戦がどうなるか不明)。
動画(35分15秒あたり~)は、彼が永木道場で指導員のアルバイト?をしていたときの話だが、野村にとって、永木先輩の言っていることは、伝統空手をMMAにアジャストする際に必要なことだったという。
過剰な蓄積は、いつ価値を持つか
組手という競技の枠組みだけで考えると「過剰」かもしれない形。しかし、その蓄積が決定的な意味を持つ瞬間がある。組手の外側に踏み出すときだ。
野村駿太がMMAという、伝統空手とは異なる世界に踏み出すとき、彼は伝統空手の語彙のままでは戦えない。新しい語彙を生成する必要があった。そしてその生成のために、永木伸児の蓄積が呼び出された。
例えるならば、これは書き言葉の話し言葉に対する関係そのものでもある。古典文学を読むことは、日常会話で珍しい構文を使うために必要なのではなく、日常を超える発話が必要になったときに、初めて読書の蓄積が呼び出される。それまでは何の役にも立たないように見えていたものが、その瞬間に決定的になる。
形は組手のために必要なのではない。組手の外側に踏み出すときに、初めて意味を持つ。永木伸児のような選手だけは、組手の枠を超えるかもしれない可能性のために、過剰な蓄積をしていた。そしてその可能性は、野村駿太によって発見された。
桜庭和志という先行者
過剰な蓄積を持つ選手が、競技の枠を超えるときに何が起こるか。私たちにはすでに先行する例がある。
桜庭和志の試合は、まさに記録ではなく記憶に残る。アームロックを極めながらニヤリと笑う。両手を広げて相手の首筋を叩くモンゴリアンチョップ。コーナーでホイスの道衣を脱がそうとする動き。仰向けの相手の帯を背中側から引き上げてでんぐり返しさせる「恥ずかし固め」。寝た相手にジャンプで踏みつけ。猪木アリ状態へのローキック。
桜庭本人はこれらについて明確な狙いを語っている。「ぼくは技を掛けるのにもの凄いスピードやパワーがあるわけでもないので、単発でいっても絶対に掛からないんですよ。だから相手の意識を散らすのに、別なことをやったりだとかする」(「ゴング格闘技」より)。
つまり桜庭は、相手の認識のリズムを崩すために、別ジャンルの語彙——プロレス、漫画、お笑い——を引用してきた。引用の網の目の中で応答を立ち上げること。
桜庭はプロレスを経由してMMAに到達した選手だった。プロレスは独自の語彙体系を持つ世界で、桜庭はそこを深く通過した上で、まだ語彙が確立していなかった当時のMMAに飛び込んだ。
野村駿太が連なる可能性があるのは、この桜庭の系譜だと思う。深い母語を経由した者が、母語の外で新しい応答を生成する。誰も見たことのない戦い方は、無からは生まれない。深く身体化された語彙の蓄積の先にしか生まれない。
形という、空手の語彙の総体を保存した書き言葉。それを身体化した選手が、MMAという未整備な領域の多い場に出ていく。これが、伝統空手という厳密で禁欲的な書き言葉を内包する世界から起こりつつあることだとしたら、なかなかに興奮できる。
僕らが形をやる理由
私は形がものすごく下手で、市民大会などでも勝った記憶は1~2度しかない。組手の方が好きだし、一喜一憂も組手の方が大きいが、それでも毎度形の試合にも必ず出る。日本拳法という別の格闘技もやる。おそらくきっと、そういう別の語彙体系の中に、常に自分を置いていたいんだと思う。それぞれの語彙体系を身体に通すことで、何かが少しずつ蓄積されていく。それがいつ呼び出されるかは、わからない。一生呼び出されないかもしれない。
強さに憧れているわけでもないし、もちろん永木や野村や桜庭のような選手になりたいとも思っていない。けれど、自分の身体を多言語話者として組織しようとすることには、とても大きな魅力を感じているのだと思う。書き言葉と話し言葉の両方に深く潜ろうとする態度そのものに、意味を見出そうとしている。
形に対する「ありゃいったいなんだ」という問いへの、最終的な答えはきっとこうだ。あれは、私自身が今まさに身体化しようとしている書き言葉だ。
