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本の中にある黄金屋は、本当に出世のことなのか

(画像は清明上河図)

「題目」

別にどちらでも良いこと、功利主義一般とバイヤール的大きな書物

あるいは学問のすすめ、実か虚か結局は好みの問題?


   ◇ ◇ ◇

 中国宋朝の皇帝・真宗は在位997〜1022年。1004年、澶淵の盟によりしばらくの平和を保ったことで有名。文治支配を築いた。

 私が初めて『勧学詩』のこの部分を読んだとき、感銘を受けた。


   ‘書中自有黄金屋、書中自有顔如玉’
   (書中自ずから黄金屋有り、書中自ずから顔如玉有り)
   書物の中には立派な家もある。
   書物の中には玉のような美人もいる。


 宋の文化的な高さはほかに例が無い。「本の中に何でも揃っている。だから読書、学問をしなさい。そうすれば何でも手に入る。イメージが、たちまちにしてほとんど現実となる!」というのだと私は思った。「おとぎ話は、本当だったんだ!」


 しかし皇帝の真意は、科挙を通じた官僚のキャリア、登用と出世コースのことを言っているので、まず学問を身に付ければ当たり前に見出され、栄達が見込まれそのうち現世的な富も手に入るよ、という極めて功利的なものなのだ。


 宋においては中央集権に向かって’武’よりも’文’が進んだ。官僚制の頂点に立つ皇帝の一元的支配。だからこの意図は、全き機構を的確に言い表していて現実的である。この詩は文治を体現していると言える。もちろんこの傾向は極端な功利主義・拝金主義と結び付き、当時から批判はあったようだ。システムは腐敗を育みながらも、歴史的に一応の成功を収めたのだった。


 結局、文化的な高さは却って浅はかさや低さに至るというか、表裏一体らしい。むしろ最初から腐敗に支えられているのは喜ばしい。私はこの儚さも好きではある。あたかも最初から消尽されるものであったかのような・・・。


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 それでも私はこれをさらに反語的に読み続けたいと思う。最高峰であった宋代には、「やはり素晴らしい屋敷や美しい人たちが、書物の中にあったのだ」と。出世によってではなく想像によって、現世的にではなく来世的に、実ではなく虚に。統治者は実を取らざるを得ないのかもしれないが、思想家は虚を取ってもいいじゃないか、と・・・。書物のための書物!


   ◇ ◇ ◇

 翻って論語に「徳不孤、必有隣」(里仁)とある。

  (徳は孤ならず、必ず隣有り)

 手許にある柴山『禅林句集』(其中堂、1967)によれば’徳の光るところには必ず人が寄りつく’

 金谷『論語』(岩波、2001)によれば’道徳のある者は孤立しない。きっと親しいなかまができる’と、まあそのまま判る。


 功利主義的な文脈を進めれば、その’徳’の安易な証明は、「孤立しておらず、周りに人がいる」ということになりかねない。まあ現世的に実を取っているようでわかりやすい!しかし私としては、「それだけではダメだろう。」あるいは「何はともあれロベスピエールやジャコバン派、公安委員会がこれを思いつかなくてよかった」「異端審問になれば悲惨だ」と考えることもできる・・・。’徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である’。結局徳が無いというだけで断罪されてはならないというのはもっともだ。測りかねないのだから。


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 この七字は、とことん左から読まれなければならない。徳をまず極めなければいけないのであって、隣があるからといって徳があるわけではない。だから軽く安心してはならない。隣は現象(相・すがた)であって、ことば、隣という文字でもって、徳の徳を讃えるものである。「徳有れば、独り死すとも可なり。」と私はこう言いたい。けだし徳とは、全てを貫く理(ことわり)であり、例えて新たに案出するなら、仏教における「神」なのだ・・・。あるいは隣、現世的なものは淡い期待に終わるかもしれない。それにしても測り難いのだから、ただし焦燥せずに期待するのは良い。少なくとも’妖は徳に勝たず(妖は寄りつかない)’といったところか?


   ◇ ◇ ◇

 この語を高く扱ってくれている作家が19世紀アメリカにいた。’物と金にまみれた人間社会を拒み、マサチューセッツ州ウォールデン湖のほとりで約2年間の自給自足生活を送った’ヘンリー・D・ソロー。’孤独’の章において、こう言っている。


‘・・・私たちのとなりにいるのは、私たちが雇い、話し相手としたくてたまらぬ働き手ではない。私たちという作品を産んだ働き手なのである。
・・・「・・・その叡智は、私たちの頭上にも、左にも、右にも、どこにでも存在する。周囲をくまなく取り囲んでいるのだ」
 ・・・孔子は「美徳は孤児のように捨てられたままではいない。必ずや隣人を得る」と言ったが、これは真理である’(田内訳『ウォールデン 森の生活』角川、2024)


 ソローの読みは本当に深い。徳即隣であり、隣というのは「神」のことを言うのだろう。こうなればこの七字は世俗的意味に偏って取るべきではもちろんない。


   ◇ ◇ ◇

 ところで、そのソローは世の中の情報との向き合い方として面白いことを言っている。


‘・・・思慮深き者にとってニュースと呼ばれるものはすべてただのゴシップであり、それを編集する者も読む者も、お茶を飲みながらおしゃべりに興じる老婆でしかない。・・・’(144頁)
‘なにがニュースか!決して古くならないものを知るほうが、はるかに重要だというのに!・・・’(145頁)


 ソローは永遠のニュースを求めている。彼にとってはフランス革命も、ものの数には入らない、どんなことも単なる頭数。


   ◇ ◇ ◇

 ここまで来れば一方で毛沢東が『実践論・矛盾論』の中で言っていたことを思い出す。


‘「秀才は門を出なくても、天下の事をなんでも知っている」ということは、技術が発達していなかった古代にあっては、空言にすぎなかった(!)。技術の発達した現代においてはこの言葉を実現することもできようが(!?)、しかし真に身をもって知っているのは、天下の実践している人であって、こうした人が、その実践のなかで「知識」を得、それが文字と技術による伝達をつうじて「秀才」の手に達し、そこで秀才が間接的に(!)「天下の事を知る」ことができるのである。もし人がある一つの事物あるいはいくつかの事物を直接に認識しようとするならば、人はみずから現実を変革する実践的な闘争に、すなわちある一つの事物あるいはいくつかの事物を変革する実践的な闘争に参加しなければならず・・・’(松村・竹内訳、岩波、1957)


 今回の流れがあるのでいくつか(!)を入れて読んでしまった。’秀才’とは試験の合格者である。古代の空言どころではない、道徳経にあるらしい。毛沢東の言うように、社会関係について言うならもちろんそうだろう。社会がそのまま天下だと言うなら、極めて現実的である。しかしこれは本来、万物に通底する天の’道’を体得することについて言っているのではないか。

 だからここでも実を取らず反語的に捉えたい。門からニュースが入って来なくても、あるいは全てを知ることもあるのだと。Я всё знаю(I know everything).あるいは、я ничего не знаю(I know nothing).
 佯狂者、特にロシアのユロージヴィなら同時に二つとも言いそうに思える。


   ◇ ◇ ◇

 最後に、それならば人間がなりうるものは何だろうか?読書と教養に依って立つ、「神」の作品としての人間の姿が見えないだろうか。「それでは本は門から入ってくるのか?」「否、私は大きな本の一部を読んでいるのです。」’家宝は門からは入ってこない’。その大きな本とは古典であり、自然そのものである。実に全てのものから、人は読むことが出来るのだ。


   ◇ ◇ ◇

「所感」

 有能であればただニコニコして目立つ場所に立っていればいい。それだけで評価される。順境逆境とことんそれを通せば、必ず上手くいく。簡単なことだ。でもそれは退屈でつまらない。退屈すぎてひどく疲れる。私はいじけているわけでも’寝そべって’いるわけでもない。どこかから溢れたわけでもない。たまに実際的方面に手を出すと、要領の良さに驚いてしまう。

 しかしそうやってなおさらうんざりしてしまう人はいないだろうか。

 人々が世界の成長のみならず個人の’成長’をも信じ始めているとしたら悲惨だ。成長とは、無意識における個体としての老化を、意識が取り繕っている慰めに過ぎない。猿が成長云々始めたと考えたら滑稽だ。

 宋朝の真宗はもちろん文人だったし、毛沢東は思想家だ。真宗は道に通じていたから、理を知らないわけがない。毛沢東が体育について言うとき、東洋的な、何かを体得することを念頭に置かないわけがない。だから実と虚を併せ持つひとたちが、人々のためにあえて片方を強く押し出したとするなら、彼らのエネルギッシュさは人間離れしている。


「慰め」

 映画『神の道化師、フランチェスコ』(1950)においては、こういうやりとりがある。都市を包囲する陣中に布教をしていた弟子ジネプロが捕まり、暴君の前で交わされている。おそらく修道士、隠遁者一般について、


  騎士「世間を捨てる者、有害なり。」
  司祭「世間を捨てる者、苦悩に耐える者なり。」


騎士の言葉は、言うまでもなく常識だ。司祭の言葉はアリストテレスの言葉らしい。

  私「まあ、そうかもしれない。いずれにしても悪くはない。」


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