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【小説】望郷 台湾 <アジアン・ラプソディシリーズ>

     一

 

 老人は湖に向って、静かに座っていた。
 湖に面した灰色の回廊には、陰りの兆しを滲ませる白々とした陽の光が差込み、老人はその光の中で頼りない藍色の影のようだった。
 男は回廊の端で立ち止まり、その先の一歩を躊躇した。
 その背中が痛々しいほどにはかなげで、近づくと光り中に消えてしまいそうに思えた。
 ふいに老人がわずかに振り向いて、食卓の箸のように細い腕が、老人の脇に並んだ籐椅子を指し示した。どうやらその古びた黒色の椅子が、男の旅の終着点らしい。

 一歩を踏み出して、回廊の影から光の中へ出た。その瞬間、男は自分が一つの結界を越えたことを悟った。老人が存在し、見つめ続けている世界へ、自分が足を踏み入れたことを。 
 不思議と恐れはなかった。しかし、引き返すにはもう遅かった。 
 2人の間には、御影石でできたテーブルがあり、白磁の湯飲みが老人の側にポツンと置かれていた。努めて老人を視界の外に置き、椅子に座った男は正面に広がる明るい藍色の湖を眺めた。

 平凡な湖だった。その名前も知らない。
 湖は周囲を穏やかな山襞に囲まれていて、中央にその一つが大きくせり出している。湖面はこの突端を回りその奥へと大きく広がっているようだ。深い藍色の湖面を風が渡っている。その風に乗って大きな翼の茶色の鳥が1羽、孤を描き上空に舞っていた。その鳥の先の空には、夏の雲がゆったりとした体積を誇示しながら、取り囲む山々の稜線の上に浮いている。   
 たっぷりと時間をとり、男が湖を眺め終わるのを計ったように、老人は堅苦英語で告げた。 
「この湖はね、私が造ったものだよ」 
咄嗟にその意味を計りかねた男は、とりあえず「はあ、そうですか、いい湖ですね」と間抜けな返事をしてしまった。
「そう、ありがとう。フランス人の君でも、そう思うか」
 老人はちょっと嬉しそうに語調を早め、続けてこんな話し始めた。
「じゃあ見えるかな? 湖の向こうの山の頂に寺がある。あれも造った。そうして、その寺と、こちら岸の間に、小さな島がある。あれも造った。あの島は、この風景の中の、画龍点晴の点なのだよ。あの小さな島がないと、この風景は死んでしまう」
 この老人は、いったい何を言おうとしているのだろう。少なからぬ金と、航空券を送りつけたのは、男にこの平凡な湖の創造神話を聞かせるためだったのか。しかもこの老人は、自分が造物主だと言っている。
 東洋人の不可思議さとは、こういうことなのだろうか。
 そんな男の困惑などおかまいなく、老人は再び、こんなことを言う。
「きみは、三蔵法師を知っているかい」
 老人は男の答えなど待っていない。もちろんそんなこと、知るはずもないが。 
「唐の時代に、仏教の貴重な教典を、当時のインドからシルクロードを旅して、中国に持ってきて翻訳をした偉大な僧侶だ。その骨が、あの山の頂の寺に納められている。その骨も、私が大陸からここに持ってきた。唯物論者たちの手に渡たれば、塵芥のように捨てられてしまうからね」
 ちょっと待ってほしい、それはなんの話しだ。いつの話しだ。しかも、こんな話し、男に何の関係がある。
 しかし、老人の話は続く。
「だがね、一番苦労したのは、この湖に龍を呼ぶことだった。龍の棲まない湖は湖ではないからね。若いころの私は、いつでも龍を呼ぶことができたから、この時も簡単にできると思った。私は湖を造ってから、改めてこの場所に立って大陸の龍を呼んだ。私が大陸で政権を持っていた時に私と親しかった龍を呼んだ。しかし、応えるのは小物ばかりで、かつて私を支えてくれた龍たちは姿を見せない。
 その理由は簡単だった。龍たちは、あの男たちに夢中だった。だから龍たちは冷たかった」
 老人の龍の話しに果てはないようだったので、男は強引に終わりを宣言した。
「だが、結局、龍は来た、ここに。ということですね。湖に無事龍も棲み、あなたの造った世界は完成した。素晴らしい。はい、おめでとう」
 男の皮肉は、老人にかすりもしない。
「そう、最後は龍たちも分かってくれた。大陸の唯物論者たちに力を貸すことは、大陸の民衆を苦しめることになるということをね。当時彼らには大きな力がついていたが、その力は、一人の男の狂気を極限まで膨らませ、破裂させた。その結果幾千万の人間の命が失われた。そんな暴挙に手を貸すことなく、私の龍たちは、この地に降りてくれた」
「それはよかった。しかし、いずれにしても、ぼくには理解できない話だ。申し訳ないが」
 老人の世迷い言に耳を傾ける忍耐は持ち合わせてもいる。ただ、そのためにも、男には確かめる必要があった。
「龍の話しはもういい。もし、お忘れでなければ、手紙の要件について話したい。そして、約束の金をもらって、ぼくはとっとと、国へ帰りたい。いいですよね」
 老人は小さく頷き、生成の麻のジャケットの袖口から覗く、骨張ってはいるが艶の失われていない手の甲を、片方の手の平で撫ではじめた。そして、それまであれほど滑らかに出ていた言葉が、突然失われたかのような頼りない顔を、はじめて男に向けた。白内障なのだろうか、薄い膜のかかった弱った魚のような瞳から、思いがけないほどの親しみのこもった視線が男に向かい、こう問いかけた。
「あの娘は、いつまであなたといっしょにいたのですか?」
 おっと、最初から本題か。注意して答えろ。この老人も結局知りたいことは1つしかない。
「彼女が死ぬまで」
 男は、老人の頼りない視線をいたぶるように答えた。
 ああ、と老人は小さくうなづいて、記憶を探るようにつぶやく。
「あの娘は、君と、どれほどの時間、暮らしていたのかな、パリで」
 そう、パリでの暮らしがあった。腐乱し枯れ果てた草花の下に残された、まだ青い葉脈のような日々。
「たった、五年でした」

 男は彼女の白くて優美なうなじを思い出す。
 彼女の思い出は、いつも決まってここから始まる。彼女の背後に立って、その肩に手を当てて、彼女のなめらかな首筋に唇を当てる。小柄な彼女の身体が、スッポリと男の両腕の中に収まり、そうされるのが好きだという彼女は、小さな溜息をつきながら男の中に身体の重さをゆだねてくる。眼の前には彼女の小さな愛らしい耳たぶがあり、男は肩のなだらかな曲線からうなじに唇を這わせて、その耳たぶまでの散歩を堪能する。お気に入りの真珠のイヤリングが揺れて、男の唇を歓迎してくれた少し先に、蠱惑的な彼女の吐息と震える声のスイッチがある。     

 老人の男を見つめる視線に非難の色はなかった。薄曇りの空を飛ぶカラスの影のような哀れみがよぎった。
「君は、どうやってあの娘と、出会ったのかな」
 そうなのだ。みんなが最初に尋ねることが、これだった。
「ああ、あのつまり、あなたは、彼女が、なぜぼくのような若造と、パリで出会ってしまったのか、本当はそう言いたいわけだよね」
 にっこりと老人は満足そうに微笑み
「そのとおりです。どこで彼女と出会ったのかな」
 この老人は、どっちの話がお望みなのだろう。気持ちよく小切手の切れる話がいいに決まっている。
「ぼくと彼女は、ぼくの友人の父が催したパーティで出会った。当時のシラク大統領がむちゃくちゃに東洋フリークで、日本びいきは有名だけど、その友人の父親も負けず劣らずで、中国製の陶器や、絵画を集めていた。そのパーティは年一回、そのコレクションを見せびらかしのための集まりだったわけ。ぼくは美術大学の学生で、中国の南画に感心があったから、友人に頼んで入れてもらった。
 そんなわけで、ぼくは居間に掛かった大きな南画の前にいた。墨一色なのに、筆の動きひとつで、無限の濃淡を表現して、爽やかな渓流が描かれていました。うねる筆が優美な曲線を重ねていて、その細い線が次の瞬間には、水の流れに姿を変えていました。あたりには数限りない木々の姿が描かれ、その枝葉の一つ一つが淡いグレーの階調で表現されていました。ぼくは眼がちょっと悪い、近眼なんです。それで眼鏡をしていたのですが、その時は、もっとよくこのアーティストの技が見たいと思い、眼鏡を額の上にずらして、肉眼を画面に近づけて見ていたんです。すると、背後からくすくす笑いが聞こえて、そんなに熱い眼でみちゃ、せっかくの作品が燃えちゃいますよ、という女性の声が聞こえた。
 驚いて振り返ると、そこに小柄な東洋人の美しい女性がいました。ほら、東洋人の女性は若く見えるでしょう。だから彼女がまだ二十歳そこそこの娘かと思ってしまった。それでぼくは、お嬢さん、ぼくの眼はあなたを燃やすこともできるんですよって言ったんです」
 老人が愉快そうに笑う。  
「君、なかなかいいよ、聴いていて楽しい話しだ。そうしたらあの娘はどうしたのだ」
「驚いた顔で、あわてて眼を伏せて、そのときは、彼女は深紅のカクテルドレスで、その肩に掛かった銀色の絹のショールであわてて自分の胸を覆ったんです。その仕草がとてもかわいかった。こなれた受け答えではないから、そこに彼女の真実が見えた。僕の言葉が彼女に届いた最初の瞬間でした。
 それで、僕たちは握手をして、自己紹介をしたんです」
 パチパチパチパチ、何てよくできた話だろう。
 
 二人の背後から不機嫌で甲高い中国語が響いてきた。
「おじいさん、またぼくを呼びました?」
 老人の目尻のシワが緩む。そして、男に告げるように呟いた。
「やっと来たかい、家族からはぼんくらと呼ばれる、哀れな孫が」
 間延びした孫の口調が、老人の気持ちを柔らかくする。
「今日の、もう一人の客がきました。ちょっとの間、黙って、私たちの話を聞いていてください。といっても、私たちは中国語で話ますが。実は、もう一人、後から来ます。ご心配なく、彼らからは、あなたが見えませんからね。」
 老人は、男の時と同じように、折れそうな腕で、テーブを挟んで並ぶ籐椅子に手招きした。

       二

「呼んだよ。まあおかけ」
 四十歳を少し超えた、三十年前に流行ったレイバンの遮光眼鏡をかけた男が、長い膝を折り曲げるように老人と向かい合った籐椅子に腰をおろした。 
 あれ、まだ二脚空の椅子がある、そう気づいた孫は、
「今日は、あと誰を呼んだの」と不安げに尋ねた。
「それは、お楽しみだよ。まあ、ゆっくりとこの湖でも眺めなさい」
 湖面を風が渡ってきた。懐かしいけれど、小さな苛立ちを呼び起こす風だった。
 その風に乗って大きな翼の白色の鳥が、孤を描き上空を舞っていた。
「でもおじいさん、ぼくは飽きたな、この湖には。子どものころ、毎年の夏休みに連れてこられたけどね、どうしておじいさんは、こんな普通の湖が好なのかなと、いつも不思議だったもの」
「この湖は、わたしが造ったものだよ。好きで当然だろう」 
 また始まったぞ、小さく顔をしかめながら孫はうなずく。ほんとは、この人造湖は、日本人がその統治時代に造ったものなのに。でも、老人がこう話し始めると、家族は黙って聞くだけだ。
 しかし、もう子供じゃない。
「でも、最も苦労したのは、ここに龍を呼ぶ事だった、でしょう。もう何百回聴かされたことか」
 ニヤリと老人は笑うが、孫の皮肉などで話をやめるわけはない。
「そう、最後には黒龍もわたしの願いをきいてくれた」
「お父さん、その黒龍も、いまはまた大陸に戻ってしまった。そうじゃないですか」
 老人の背後からの、快活で野太い声がこう言った。
「龍たちに、ものの道理は通じない。ただ、新鮮で大きなエネルギーのある場所に棲むだけでしょう」
 いかつい体を簡素な白シャツに包んで、質素なグレーのズボンの初老の男が老人に歩みよってきた。 
 老人は振り返って、にこやかな笑顔とともに長い腕を差し出して、男の手を握った。
「来たかい息子や。わたしは黒龍をお前に引き渡すことはできた。そうだね。しかし、残念なことに、あの黒龍はわたしたち一族の龍だったからね、わたしたち一族の政権が終わった時、あの黒龍もこの島を離れてしまった。まあ、そんな話はもういい。無理を言ってすまないね、よく来てくれた」
 孫は自分の父親の登場に顔をしかめて、唐突に子どものようにすねて見せた。
「えーっ、ぼくも無理して来たんだけどな」
 祖父の前ではいくつになっても甘えが抜けない息子なのだ。四十男がこのように口を尖らせる姿は、さすがに鼻白む。
「わたしたち親子をお呼びになって、本日は一体どのようなお話ですか」
 白シャツの男は、こう言いながらも息子の隣の椅子に腰を下ろした。
「まあ、たまにはいいじゃないか。会ってないんだろう、お前たちも」
「会う理由もさしてないですから」
 この父親の息子への冷淡な口調は隠しようもない。
「まあまあ、ここに三人が揃ったのには、理由があるのだよ」

 湖面の色が変わる。陽の光が僅かに低くなって、湖は銀色の粒子を空に返す。老人はテーブルの傍のサングラスを手にして、プルプルと震えながら、その黄色の鼈甲のつるをシワシワの耳にかけようとした。隣に座った孫と呼ばれる男は、すかさずそのサングラスを手にして、丁重に老人の顔にかけた。深い緑色の丸レンズのサングラス。
 レンズの角度を震える指で整えてから、老人は1つ息をつく。
「お父さん、もったいぶらないで言ってください。この三人で話さなければならないことなどありますか。まず、この男のスパイごっこの話でもしましょうか」
「そんな、今さらの説教なら、ぼくは帰りますよ」
 もう始まってしまった。
 老人は左手の軽く振った。
 二人は口を閉ざし、身構える。
「今日はあの娘について、お前たちと話をしたくなってね」
「娘って?」
息子が小さく驚きの声を上げる。この老人には、女の子どもはなかったはずだ。それが、いまになって。
「わたしの娘ではない、わたしたちの娘だった、その娘が死んで、そろそろ二十年になるだろう」
「亡くなって二十年になる娘? 誰ですか」
 老人の長男には正妻に一人の娘がいたが、まだ亡くなって十年もたっていない。
 孫が、ふと思いついた様子で、老人の横顔うかがいながら尋ねる
「娘って、金宝山に入っている、あの娘のこと」
 老人が、長男と、その長男の次男である孫の顔にゆっくり視線を送った。
「そうだよ、愛国芸人であり、兵士たちの恋人でもあった、あの娘のことだよ」
  孫は目を伏せ、長男は憤然と老人に向かう。
「お父さん、いまさら、なんのための話です。我が民族が誇るあの娘を、我が国は最高の礼儀をつくして葬ったのです。国民はその死を悼み悲しんでいます。それていいでしょう」
「お前ならば、そう言うだろうね。しかし、私はこう聞いているよ。あの娘は、この国を捨ててフランスに行き、ろくでもない若い男にひっかかって、薬のやりすぎで死んだと。だから、わたしがお前たちに訊きたいのは、そんな恥さらしの娘を、この国はなぜ国葬もどきの大層な葬式をして、わたしたち一族以外にはない遺体の埋葬まで許したんだね」
 息子にとっては答えようもない。彼が政権を引き渡した後の世代がやったことだ。
「今になって言えることは、あの娘が死んでみて、この島の民がどれほどあの娘の歌を大切に思っていたか、それがわかったから、この国に連れ戻した。そういうことではないですか」
「わたしが尋ねたいのは、そんな奇麗ごとじゃない。そんな大切な娘を、この国はなぜチェンマイなどという僻地でのたれ死させたか、ということだよ」
 息子は虚をつかれた思いだった。老人の言葉がなければ、あの娘のことなどすっかり忘れていた。
 老人は湖を見つめながら、断固とした口調で言う。
「あの娘をみつけたのは、わたしだよ」 
 

           三

 確かに、この3人の中であの娘を最初にみつけたのは、この老人だった。
 息子は老人が初めてあの娘の歌声に出会った、その夜のことを思い出した。
 クリスチャンの老人は、夕食の後のひと時、一人書斎で聖書を読むことを日課にしていた。この湖畔の別荘ができて間もないころ、大陸からの日日々を共に過ごしていた妻、息子の母がアメリカへ去ったころのある夕暮れ時だった。
「おい、みんな、ちょっときてごらん」
 珍しく、書斎の扉から家族を呼ぶ声がした。息子とその妻があわてて居間から立ち上がり、ほそい廊下をたどるとき、かすかな女の歌声が聞こえた。ドアを開けると、目を閉じた老人の細い体が、短波ラジオからのあの娘の歌声に優しく包み込まれていた。
「この娘の歌声はいいね、なんていう名前だい」
 だれも知らなかった。
「まだ幼いが、この娘の歌にはなにか、わたしたちの心に哀れをもよおすものがあるね、」
 そう老人は言いながら、窓のガラスに映った自分の姿に目を注ぎ、深いため息をついた。

 1949年に、この老人が二百万人近い人間を連れて、大陸からこの島に自らの政権を移した。その大混乱の中で、大陸でズタズタになった諜報機関を、この息子が受け継いでいた。すぐに息子は、老人のいう、あの娘を、国家安全局国防部情報局三処に内偵をさせた。
 1953年に、あの娘はこの島の南にある雲林県で産まれた。父親はこの老人に従った下級軍人だった。この島は 年にわたって日本の植民地支配を受け、日本の敗北によって日本人が去り、その後釜に、彼らのような大陸からの兵隊とその家族が移り住んだ。彼らは「外省人」と呼ばれ、それまでの島人「内省人」との間に無数の軋轢と暴力が生まれた。
 老人はまだ活力に満ちていた。大陸の男との死闘がまだ続いていたからだ。老人の背後には無敵のアメリカが控え、その武力と財力が老人の政権を支えた。新たな支配者として、この島にハリネズミのような緊張に満ちた軍事政権を作り上げ、島民は厳しい監視下に置かれた。
 1958年、老人たちが予見していたことが起こる。この島が領有している金門島という小島に、大陸からの攻撃が開始された。金門島は大陸からわずか2.1キロの距離にあり、老人の敵であるあの男は、一気にこの島を攻略しようとした。対岸から猛烈な砲撃が始まり、老人の軍は壊滅しそうになった。もしあのとき、米軍の支援がなければ、この島の政権は消滅し、老人も老人の一族も、それに従った幾多の「外省人」も消え去っていたかもしれない。金門島の上空を席巻していたソ連製のミグジェット戦闘機が、米軍のセイバー戦闘機が搭載した空対空ミサイ「サイドワインダー」によって、次々と撃墜されて、やっと戦況が一変した。
 制空権を奪われた大陸の軍は、それ以降20年近く、思い出したように金門島を砲撃し、大陸との戦闘状態がダラダラ続くことになる。それはまるで、忘れたころに届く、遠い親戚からの頼りのようでもあった。私たちは、まだ、お前たちを覚えているぞ、
 老人も、共に来た男たちもこの島をいっときの仮の住まいと考えていた。いずれは、帰ろう。帰れば、豊かなあのふるさとの暮らしが待っている。
 この望郷の念が、老人を、そして老人に従ってきた男たちの心を支えた。

 当時の島民は貧しかった。とくに身1つで大陸から渡った軍人崩れの男たちと、その家族がどのようにこの島で生きていくか、ひとりの人生は、それだけで一つの苦難の物語だ。
 そんな島で、あの娘は貧しさを全身に身に纏って、例えば米軍の食糧援助の小麦の麻袋で作った服をまとって、成長した。
 あの娘は、幼いころからその歌の上手さで注目され、のど自慢大会の優勝を経て、十四歳でプロデビューをしている。もっともプロ歌手といったって、母親に連れられて小さな地方のキャバレーや、演芸場で酔客のために当時の流行歌を歌っていた。だからろくに学校には行けなかったと、報告書には記されていた。あの娘の歌が作った金が、家族を支えた。両親が、兄弟姉妹たちが、あの娘の歌にぶら下がって、暮らした。そして、このあの娘を捉えた家族の網は、あの娘が死んでなお、かぶさったままだ。
 老人が初めてあの娘の歌声を聴いたとき、あの娘は十六歳。初めての主演映画を撮っていた。その映画のテーマ曲を唄う娘の声が、老人の机のラジオから流れたのだ。
 老人の心の琴線に深く触れた娘の歌声は、またたく間にこの島国を超えてアジアの華僑社会に広がっていった。そして、1971年には香港でデビーを果たした。

 この1971年が問題だった。
 老人を支援していたアメリカが突然、大陸の男と手を握った。そして、あろうことか、大陸の国家を唯一の中国として認め、国連への加盟の道まで用意した。この島国はその反動で国連を脱退し、国際的に孤立した年だった。
 そして、この年が、老人の大陸帰還の夢が、正式に断たれた年ともいえる。
「確かに、お父さんはあの娘を見つけたけれど、手に入れそこなったわけですよね。」
 いつも、この息子の言葉は冷たい。その裏にある意味も辛辣なものだ。
 しかし、その通りなのだった。
 あの娘にまでに、わたしたちは見捨てられてしまった。老人はそんな気持ちに襲われていた。
「おとうさん、あの娘がこの国ではなく、香港の人気者になっていくことを、この国の民衆は喜んでいました。でも、あの娘は、あくまでもこの島の国民だったんですから。当時の国の面子として、あの娘だけを、自由に国外に出すわけにはいかなかった」
「だからといって、あそこまでやる必要があったのかい」
「なんとも、おとうさんらしからぬお言葉ですね。情報工作はおとうさんからわたしが受け継いだものでしょう。その結果は満足できるものだったと、今でも信じていますよ」
 息子の言うことは、多分そのとおりだろう。しかし、老人は自分が怒っていることをひさしぶりに感じていた。
「わたしが言いたいのは、お前たちが、あの娘の一番美しい時を摘んでしまったことだ」  
 今度は息子が笑う番だ。
「それはジョークですか、おとうさん。あの娘が兵隊の慰問で必ず唄う歌でしたね、その『兵隊さん、野の花を摘まないで』は」

      四

 1972年、あの娘は日本という、より大きな市場に迎えられて日本語の歌を歌い始めた。老人は、あの娘がレコード大賞新人賞を獲得した「空港」を聴いたのだろうか。
 1975年、大陸奪還の夢を果たせず、老人は鬼籍に入った。
老人の死を追うように、老人の終生のライバルだった大陸のあの男も、その翌年に死んだ。この2人の老人の死によって、中華の政治の実際は息子たちの世代に引き継がれた。

「これ以上、あの歌手を自由にさせていいものでしょうか」
 そう父の後を継いだ息子に告げたのは、国民党文化工作委員の周応龍だった。
「この歌手は、もっと使えると思いますよ。鄧小平は改革・開放政策を進めています。それまでのガチガチの共産党の締め付けの反動は、大きいものですよ。その鄧小平をゆさぶるのに、この歌手が使えます」
「この娘をどう使うというのかな」
「主席は、この歌手の『何日君再来』をご存知ですか」
「昔の抗日歌だね。それがどうした」
「この歌がいま大陸の若者の間で、密かに大流行しているのです」
「古い歌だよ。それがなぜいま、大陸の青年たちに」
「まあ、お聴きください」
 あの娘の『何日君再来』が、カセットデッキから流れた。
 
「きれいな花も美しい景色も、いつまでも続かない
 憂いが顔を埋めつくし、涙がこぼれ落ちる
 今夜わかれたら、次はいつ来てくれるの?
この杯をあけて、も少しどうぞ
 人生で酔える時は何度もないから、さあ
 今夜わかれたら、次はいつ来てくれるの」 

 なんという、甘やかで、透き通った歌声だろうか。息子はこのとき、老人がこの娘の歌が、わたしたちの心に哀れをもよおす、そう言ったことを思い出した。そして、そのとおりだと思った。
「文化大革命と共産党の暴挙に疲れた大陸の連中には、ひとたまりもないでしょう」
 あの娘の歌声は、自分たちの世代が大陸に置き忘れてきた、普通の中国人の心を蘇らせてくれた。それは、まぎれもなく、唯物論者たちが大陸で破壊しつくした中華の民の心情でもあった。
「しかもですね、この君いつ帰るの、君ですが、もと歌は解放軍ですが、この歌の世界の君は、共産革命前の孫文の国民党だとしたらどうです。立派な反攻歌となります」
 この男の狡猾な顔も、ものの言い方も不快だったが、戦術としては悪くない、そう確信した。
「それはわかった。では具体的にどうする」
 男の口からスラスラと工作計画が語られた。悪くはなかった。

       四

「なぜあそこまでやったのだ」
 老人は、そう繰り返す。
「なぜ、美しいものを、美しいままにしておかなかったのだ」
「しかし、おとうさん、わたしは作戦の許可はだしましたが、実行は文化工作委員たちです。もうわたしは総統でしたからね。わたしの手を離れていました」
「しかし、止めることはできたろうが。あの娘が軍服を着て、まるで兵士のように銃をもち、金門島から大陸の兵士に投降を呼びかけるなどと、いうことは。そして、あろうことか、あの娘の歌の入ったカセットテープを風船に乗せて大陸に向けて飛ばした。なんという子供じみたやり口だ。私はその手口を知ったとき、恥ずかしくて、この湖に沈んでしまいたいと思ったものだ」
 その老人の細かな震える声に驚き、息子は次男に鋭い一瞥をくれた。
「ここは、お前がお話すべきだな」
 孫の目がなすび型の眼鏡の中で大きく泳いだ。観念したようにごくりと喉仏がうごき、うつむいて話しだした。
「おじいさん、最初は誰も、あの娘があそこまでやってくれるとは、願ってなかったんです。軍服姿も最初は対マスコミ用のイメージ作りだった。ところが、あの娘はそれが自分の使命だと信じてしまったんです」      
「誰がそう信じさせたんだい」
「ぼくかもしれない」  
 老人が満足そうに頷いた。
「話してごらん」

「あの娘をぼくのところに連れてきたのは、情報三処の局長でした。この部署を作ったのは、おじいさんです。覚えてますよね」
「当然だ。私たちが大陸にいたころ、世界に散っていた我が同胞たちは物心両面で私たちを支えてくれていた。日帝との戦いも、共産党との戦いも、なんのための戦いだったのか。それは、何よりも中華の民、あの大陸で連綿と継承されてきた、中華の民の心、中華の民の世界を守るための戦いだった。世界中のどの土地に生きても、我々は世界に冠たる中華の民である、この心情と誇りを抱き続けるために、あれだけの血を流し、あれだけの犠牲にも耐えたのだ。その中華の民の心情を一つにするための文化戦略のための部署だよ、情報三処は」
「おじいさん、その三処の下の文化工作の連中が、おとうさんの指示を持って、僕のとこに来たんです。あの娘が帰ってきたので会ってくれと。その時には、工作はもう終わっていたんですよ。僕は驚いて、えっ、あの娘は日本からアメリカに行ってるのに、なぜって訊いたら、連中、まあうまくやりましたって」
 孫は薄く笑って、父親の顔を伺って口を閉ざした。
「おとうさん、うまくやったのは、おとうさんが作った組織の連中です。おとうさんが上海で手を握った連中です。言うまでもないないですよね。連中は、同胞のネットワークを握っていて、当然芸能関係は本職ですからね。私たちは、簡単に指示するだけです」
 その指示は簡単なものだった。
「あの歌手を、国に連れもどせ」
 文化工作の連中には、簡単な仕事のはずだった。なぜなら、あの歌手が香港に行く際に持ったパスポート自体が、文化工作が作ったものだ。香港のプロモーターも文化工作の息がかかっている。日本への渡航のパスポートも、文化工作と香港のプロモーターとの合作だった。最初から、あの娘の身柄は、文化工作の手の内だったといえる。
「ちょっと時間は遅れましたが、我々はあの娘を手に入れていたんです。おとうさんの手に渡せればよかったのですが」
 ガッ、
 老人の手にした白磁のコップがテーブルに叩きつけられた。
「わたしは、そんなことを頼んだ覚えもない。望んでもいなかった」
「もちろんです。それを望んだのは、国家ですから」
 文化工作はあの娘のパスポートが偽造であることを日本のマスコミにリークした。その前に日本のプロモーターと話しをつけなければならない。そこでの交換条件は、すぐの帰国はあからさますぎるし、本人の気持ちの動揺もある。いっときアメリカに行かせて、時間を稼ぐことだった。日本側とは、数年後には再び日本に戻すことで話しはついた。日本人たちは、誰も抵抗も反対もしなかった。あの娘が誰のものかを彼らは、ことの最初から理解していた。
「ぼくに会ったときには、あの娘はすっかり怯えてました。総統の息子から直接話がある、そう言われれば、大の大人だって震え上がる、そんな時代ですからね。
 一人ぽっちで部屋に入ってきた、あの娘の小さな姿を見た瞬間、ぼくは、心底から、かわいそうに、そう思ってしまった。
 なぜだかわからない、でも、自分はこの娘の兄になろうと、その時思ってしまった。そして兄のように話しかけたんです。
 いいかい、君は運命に選ばれた娘なんだよ。君は類い稀な素晴らしい歌声を持って産まれてきた。では、それはなんのためなのだろうか。それはね、君の歌声で、中華の民を再びひとつに結びつけるためなんだよ。言うまでもなく、いま中華の同胞は、大陸とこの島、そして世界に散らばっている。この同胞たちが再び一つになる、そのために君の歌声が必要なんだよ。世界の中華の民のために唄ってくれるね」
 

「あの娘には、これからたくさんの不幸が続くことになるが、最初の不幸は、この息子の、いい加減な政治プロパガンダを信じてしまったことだ」
 レイバンに隠された瞳が、父親をにらみつけた。
「おじいさん、僕は、あの娘の瞳がキラキラと輝くのを見てしまった。あの娘のこころの中を熱い感情が駆け回っていることもわかってしまった。そして、ぼくのまえで、あの笑顔で言ってくれました。私やります。わたしの歌が、大陸の人々の心に、わたしたち同胞の真心を伝える、そういうことでしょうって。
 正規の教育を受けていなかったけど、頭のいい娘でした。ロスでの学生生活があの娘に、自分自身のアイデンティテイを求めさせていて、しかも、香港のあのスターとの破局にぽっかり空いた心の穴に、ぼくの言葉がはまってしまった。いまとなっては、そう言うしかない。
 その後は、お二人ともご存知のとおりです。軍は好きなようにあの娘を利用しました。そして、どんなに軍が言っても、あの娘は、その働きについての報酬を受け取りませんでした。これは、わたしの使命ですから、そう言って」
 話ながら、その瞳は鳴き交わし対岸にもどる烏の群れを見つめていた。数羽ずつが、よりそうように夕暮れ間近のオレンジの光の中に消えていく。
 その後に続いた孫の沈黙に苛立つように、息子が言葉を継いだ。 
「おとうさん、大陸に対して、文化工作をするには絶好のタイミングだったんですよ。あの時が。おわかりでしょう。文化大革命の混乱を修復して、経済発展の基礎を造ろうとしている鄧小平にとって、われわれのこの島での経済的成功は、大陸の人々には知られたくはなかった」
「そこに、あの娘の歌の風船爆弾かい」
「そうですよ。情報工作としては、例のない大成功を納めたと想いますよ。鄧小平をあの娘の歌を放送禁止にするほどに追いつめたんだから」
 珍しく、この父親が息子を弁護している。いやそうではない、結局、この父親は自分の政治的な判断が正しかったと言いたいだけなんだと、老人は思う。それなら、すこしいじめてやるかい。

       五

「おまえは、スターリンがやった、革命宣伝列車を知っているだろう。おまえはあの時代にロシアにいたんでから」
「またその話ですか。もういいでしょう」
「よくはない。まだ革命が未熟な時に、スターリンはたくさんの芸術家を列車に乗せて、プロパガンダ演劇や詩や絵画の巡業公演を続けた。カンジジンスキー、マヤコフスキー、そしてシャガールといった芸術家たちが喜んで参加した。ところが、共産党の勢力基盤ができると、スターリンはこの芸術家たちを放逐した。マヤコフスキーなどはKGBが暗殺した。いいかい、このやり口こそがコミュニストのものだ。人の心の中の最も弱い部分、繊細で美しい部分を平気で利用して、平気で捨てる。おまえは、あの娘に対しても、同じことをやったんだよ。お前の中にはコミュニストの考え方が潜んでいる。だから、お前はわたしの妻にも嫌われたんだ」
「やめてくださいよ、あの女の話は」
「わたしの妻だ、あの女とはなんだ」
「あんな女ですよ。ずっと宗財閥の娘だった。お父さんの嫁なんかじゃなかったでしょう。宗家の金のためならなんだってやる女だったでしょうが。重慶では、あからさまにアメリカの司令官を誘惑していたでしょう」
 たまらずに孫が2人の間に割って入ってきた。
「やめてください、2人とも。おばあちゃんの悪口は。おばあちゃんは、そんな人じゃないよ。いつもぼくのこと気にかけていてくれたよ」
 この父親は、言い募る息子にこう言い放った。
「あの女は、この義理の孫を甘やかして、そしてこんな馬鹿息子にした。その馬鹿息子がやった事件のために、わが一族は政権を失うきっかけを創ってしまったわけですから。あの女は一族の敵ですよ」
 眼鏡の中の孫の目に憎悪が燃え上がっている。
 老人がすっくと立った。そして両手を上げて、2人の口を封じた。
「やめないか。確かにあの江南暗殺はまずかった。しかし、この馬鹿息子はお前のためにやったんだよ」
 老人のとりなしにも、この父親は応えない。
「確かに江南はわたしに関する暴露本を書いていた。しかし仮に出ても、その被害は、おまえたちの愚行の結果に比べたら鼻糞みたいなものだったろうよ。たかが、一人のルポライターの命と、お前は自分の次期総統の地位を引き換えてしまったんだ」
 黙って聴いていた孫が、奮然と言う。
「そんなこと、いまになればなんだって言えるよ。そもそもね、あの江南の暗殺は、やつにこの国の諜報組織がなめられたからやったことでしょう。おとうさんが総統になって、その組織をぼくが引き継いだとき、国家安全局はじじいの巣窟だったんだよ」
「うるさい、もういい。おまえが新しく組織して使った連中は素人だったということだ。電話は全てFBIに盗聴されていたんだぞ。あんなズサンな計画、知っていれば止めさせていた。あのころのお前はあの娘を使った文化工作の成功で、有頂天になっていたんだ。だから、あんな間抜けな作戦を許可したんだよ」
「いまになってそれはないでしょう。あの娘の香港コンサートは、それまでの愛国芸人にたいする、ご褒美だって、おとうさんも言ったじゃないか」

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