短編小説『お隣さん、調子はいかがです?』作 あやとり
ピンポーン。
全てはこのインターホンのチャイムから始まった。
アパート暮らしの俺は休日、部屋でゆっくりと過ごしていたところに飛び起きる。そして慌ててインターホンを確認しに走っていた。
俺、荷物も何も頼んでいないんだが。
不思議に思ってインターホンのカメラを見ると、俺と同年代くらいの男性がそこには立っていた。
……誰だ?
俺は首を傾げながらも通話ボタンを押す。
「……はい」
『あ、失礼します! 今日隣に引っ越してきました、加藤と申します。引っ越しのご挨拶にお伺いしました』
「あ……ああ! なるほど! 少々お待ちくださいね!」
俺はすぐに玄関口へと向かった。
そういえば休んでいる間に、空き部屋である隣室から荷物を運んでいるような音が聞こえていた。あれは引っ越しの音だったか。
俺は玄関を開け、新しく来た隣人……加藤さんと対面する。人懐っこそうな笑顔が特徴の、爽やかな青年だった。加藤さんは俺の顔を見て、すぐに会釈する。
「お休みの日にすいません。こちら、引っ越しのご挨拶のお菓子です。お口に合えばいいんですが」
「あ、わざわざありがとうございます……! 俺、林という者です。今後ともよろしくお願いいたします、加藤さん」
「はい。何かご迷惑になることがあったら遠慮なくおっしゃってください。改善しますので」
「いいえ、こちらこそ」
「あはは。林さんが優しそうな方で安心しました。……では、他の方へのご挨拶もあるので、僕はここで」
「はい。では、また」
「ありがとうございました!」
加藤さんはにこっと笑うと、他の住民たちに挨拶をしに去っていった。
……引っ越しの挨拶をしない人もいるなかで、今どき丁寧な人だったなあ。
好印象な加藤さんが隣人に来てくれて、俺も少し安心していた。
加藤さんが持ってきてくれた引っ越しの挨拶のお菓子は、程よく甘くて、賞味期限も長めに設定されていて、相手のことをしっかり考えたものだった。……加藤さんの人柄が表れているみたいだった。
数日後。
俺は仕事に行くついでにゴミ出しをしようと、中身が詰まったゴミ袋とともに家を出ようとしていた。
ガチャリ、と玄関を開ける。
すると、ちょうど隣室から出てきた加藤さんと目が合った。
あまりにもタイミングが良かったものだから、俺と加藤さんはしばらく固まった後吹き出してしまう。
「おはようございます、加藤さん。調子はいかがです? 新生活、大変でしょう」
「おはようございます、林さん。まだ慣れないことも多くて……仕事とか生活とか、これからですよ」
俺と加藤さんは話しながら一階へと向かっていく。
「まあ、新生活って大変ですもんね。ご飯とか食べてます?」
「ああ、それはちゃんと。……お恥ずかしいことに、ほとんど冷凍食品なんですけどね」
「いやあ、それでもちゃんと食べてるじゃないですか」
「でもできるなら自炊したいじゃないですかあ~」
「もうちょっと生活に余裕できてからで十分ですよ。仕事に行くだけでも大変なんですから」
「まあ……新しい環境は疲れますねえ」
「倒れんとってくださいよ~、加藤さん。せめて倒れる前に俺の部屋の壁思いっきり壁ドンしてくれたら救急車呼べるんで」
「そのときはもう壁に穴開ける勢いでやりますね」
「穴開いたら修繕費請求しますね~」
「え~、酷い~」
あははっ!
二人でしょうもない会話で朝から笑った。
俺はゴミ捨て場にゴミ袋を放り込んで、俺と別方向に歩いていく加藤さんに言った。
「じゃあ……今日もお互い頑張りましょうか」
「そうですね。林さんのおかげで朝から笑わしてもらいましたし。今日はなんだかいい日になりそうです」
「では」
「そうですね」
いってらっしゃい。
俺たちはお互いにそう言いあって、別々の職場へと歩いて行った。
こんな日もあった。
俺は時々、ベランダで涼みながら酒を飲むことがある。
ガラガラ。
この夜も俺は酒片手にベランダに出て、のんびりと自由時間を楽しもうとしていた。
「あ、林さん」
「ん?」
だが、俺がベランダに出た瞬間、隣から声をかけられる。
加藤さんだ。加藤さんが自室のベランダでタバコを嗜んでいた。
「ああ、加藤さん。こんばんは」
「こんばんは~。調子はいかがです?」
「いや~、ようやく金曜日がやってきてお酒飲めます。なのでこれからお酒飲みます」
「いいですよね~、金曜日。会社員の僕たちにとっては幸せな日ですよね」
「本当です。……というか、林さん」
「はい、なんです?」
「……喫煙者だったんですね」
「そうですよ。……あ、林さんタバコ吸わない人でしたか! これは失礼しました、消します消します」
「ああ、大丈夫ですよ、そのまま楽しんでもらって。ただ、加藤さんが喫煙者なの意外だったので」
「ああ~。それ、よく言われます」
「……タバコ、美味しいんですか?」
「僕は美味しいですね。タバコにもお酒と同じでいろんな味があるんですよ。僕は甘めのフレーバーが好きなんですけどね」
「へえ~。俺には未知の世界だ……」
「いや、まあ……吸わないに越したことはないのでお勧めしません」
「なんで吸ってるんですか」
「……なんででしょうね」
「ええ~……」
「タバコってそういうものなんですよね~」
俺は酒を飲みながら。
加藤さんはタバコを嗜みながら。
俺たちはしょうもないことを駄弁った。仕事の愚痴、生活のこと、学生時代のこと……。
なんだか……このベランダがバーになったみたいだ。
俺は不思議な心地よさに身を委ねながら、加藤さんとのんびりと話した。
それからも、俺と加藤さんの何気ない交流は続いた。
「あ、林さん!」
「加藤さん、調子はいかがです?」
「聞いてくださいよ~! 僕、この前自炊に挑戦したんです!」
「あ、とうとう挑戦したんですか⁉」
「そしたらカレー作りすぎました」
「ああ……一人分の分量が分からなくなるやつ……」
「……おすそわけしましょうか?」
「え、いいんですか⁉」
加藤さんの自炊の失敗談を聞いたり。
「あ……加藤さん、お疲れ様です……」
「ああ、林さん。お仕事お疲れ様です。……調子はいかがです?」
「……やってられん。仕事は増えるし、なんか上司からいろいろ言われるし……疲れた……」
「それは……本当にお疲れ様です……」
「……ありがとうございます」
「……今日、金曜日ですよね?」
「……そっすね」
「またベランダで酒飲みます? 僕も今日はタバコじゃなくて酒にしますよ」
「……飲みます」
俺の仕事の愚痴を加藤さんに聞いてもらったり。
そうやって俺と加藤さんの関わりは壁一枚越しに増えていった。
お隣さんとこうやって交流する日々もけっこう楽しい。
気付けば、加藤さんに挨拶したり声をかけるのが習慣となってきた頃のことだ。
俺のスマホに電話が来る。
実家の母さんからだった。
「ん……? 母さん……?」
珍しい。母さんは普段アプリ経由で俺にメッセージを送ってくるくらいしかしてこないのに。
……何か、あったのか?
俺は嫌な予感を覚えながら、重い指で通話ボタンを押す。
「もしもし? 母さん? どうしたの?」
電話先の母さんから告げられたのは、俺の人生が変わる事実だった。
「え……」
母さんの話を聞いた俺はしばらく放心する。
そして……今の生活が終わってしまうことを、嫌でも認識してしまうのだった。
「林さん、おはようございます!」
「……ああ、加藤さん」
次の日。
ちょうど家を出る時間が被って、俺は加藤さんに声をかけられる。
でも俺はいつもみたいに笑って加藤さんに応えることができなかった。
そして加藤さんは、俺の表情をすぐに見抜いてくる。
「……あの、調子はいかがです? なんだか、いつもと様子が違って見えます」
「あ……ああ……ちょっと……。実家でいろいろあって……」
俺はまだ本当のことが言えなくて、事実を半分も伝えることができなかった。どこかで加藤さんにも伝えないといけないことなのに。
加藤さんは俺の反応に、慎重に言葉を選びながら言葉を返してくれる。
「そう……ですか」
「……すいません」
「いえ、謝らないでください! でも……一人で抱えないでください」
「…………」
「これだけ僕と一緒に話してきたじゃないですか。話聞くくらいなら、またいつでもできますから」
話聞くくらいなら、またいつでもできますから。
加藤さんのこの言葉に、俺は唇をぎゅっと噛んだ。
違う。
もうできないんだ、加藤さん。
でも俺はその弱音をまだ吐くことができなかった。だから無理やり笑顔を作って答える。
「そう……ですね。ありがとうございます、加藤さん」
それからも日々は過ぎていった。
加藤さんは俺に今までと変わらず接してくれた。
一方、俺の部屋は少しずつ整理されていく。この部屋から去る準備が整えられていく。
このアンバランスさが、痛くてたまらなかった。
加藤さんはまだ本当のことを知らない。
俺は事実を言い出す勇気が出なくて、事実を受け止める器もなくて、ここまで事態を引き延ばしてしまった。
……もう、言わないといけない。
明日は金曜日。
俺と加藤さんがベランダで飲んだりタバコを吸って駄弁る日だ。
……明日しか、なかった。
「……加藤さん、どうも~」
「林さん、こんばんは。調子はいかがです……って、もうだいぶ飲んでますね⁉」
「……はい」
「どうしたんですか、珍しい。何かありました?」
「いや……もう酒の勢いに任せようかと」
「……本当にどうしました?」
タバコの火を消して俺の様子を見る加藤さんに、喉まで出かかった言葉が止まってしまう。でも……もう本当に言わないと、時間がないんだ。
「……加藤さん」
「はい」
「……あのですね」
「はい」
「俺……ですね……」
「どうしましたか」
「…………」
俺は酒で緩めた理性に任せて、弱々しい声を出した。
「俺……近々、実家に戻ることになりました……」
「…………」
加藤さんは目を見開いて固まっている。
俺はぽろぽろと、口から言葉を垂れ流し続けた。
「親父が体壊して……家業、継ぐことになりました……。もう、二週間くらいで引っ越します……。……ぎりぎりまで言い出せんくて、すいませんでした……」
「そう……ですか……」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。
俺も、加藤さんも、何も言わない時間。
酒も飲まないし、タバコも吸わない時間。
俺はここまで本当のことを加藤さんに伝えられなかった情けなさで、顔が上げられなかった。
もっと……もっと早く伝えていれば、もっと時間を大切にできたのに。
「……林さん」
おもむろに加藤さんが口を開く。穏やかで、静かな声だった。
「……なんですか」
「まずは……ご実家の状況も、林さんの状況も大変だと思います。ご無理なさらないでくださいね。それと……」
「…………」
「それと……残り二週間も、隣人として、よろしくお願いします」
「……怒らないんですか」
「怒りませんよ。林さんが引っ越すギリギリまで絡みに行くつもりなんで、覚悟しててくださいね?」
少し笑い声が混ざった加藤さんの言葉に、俺はゆっくり顔をあげる。
そこには出会った頃とそっくりな、人懐っこそうな笑顔が特徴の爽やかな青年がいた。
それから引っ越し直前まで、加藤さんは本当に今まで通り俺に接してくれた。
玄関ですれ違ったら挨拶して、しょうもない話をする。
帰宅が被ったら一日の疲れを労わり合う。
そして、金曜日にはベランダで酒とタバコ片手に駄弁る。
……ほんの少しだけ、その駄弁る時間が長くなったくらいだ。
やがて、俺が引っ越す日がやってきた。
今度は俺が加藤さんの部屋のインターホンを押す番だ。
俺は震える手で、ゆっくりとボタンを押す。
ピンポーン。
『はい、いらっしゃい林さん。調子はいかがです?』
「こんにちは、加藤さん。……引っ越しの挨拶にきました」
『……少々お待ちくださいね』
しばしの間があって、加藤さんの部屋の玄関が開かれる。
加藤さんは笑って言った。
「あはは。なんか、立場逆になっちゃいましたね」
「本当に。……これ、俺からの引っ越しの挨拶です。お菓子どうぞ」
「ああ、ありがとうございます。…………」
「…………」
これがきっと、加藤さんとの最後の会話になる。
最後の会話のはずなのに、言葉が、出てこない。
でも、伝えたいことはたくさんある。
だから俺は言葉を必死に振り絞る。
「……加藤さん」
「……はい」
「今まで……俺みたいな隣人の相手してくれて、本当にありがとうございました」
「それは僕の台詞ですよ。僕も、林さんと会えて良かったです」
「こんな人間でよければ、世の中いくらでもいますよ」
「ちょっと、そんなこと言ったらいけませんよ」
「またまた~」
「僕は本気ですよ」
「…………」
加藤さんの真剣な目つきに、俺は何も言えなくなった。
加藤さんはすぐに「へらっ」と笑ってみせ、俺にこう言うのだ。
「林さん。今まで本当にありがとうございました。……引っ越し先でも、どうかお元気で」
「……はい。ありがとうございます、加藤さん。加藤さんもどうかお元気で。俺も加藤さんとお会いできて良かったです」
「……あ~! これで金曜日のベランダがさみしくなるなあ」
「俺も。実家で飲むのもいいけど、やっぱりベランダで駄弁って飲む酒が一番美味いです」
「ね」
あははっ!
俺と加藤さんは、別れ際だというのに笑った。
「まあ……生きてれば、また飲む機会もあるんじゃないですかね」
「そうですね。僕は遠慮なく隣でタバコふかしてます」
「どうぞどうぞ。もう加藤さんがタバコやめられないの分かってるんで」
「ひどいなあ~」
「あはは。……じゃあ、そろそろ電車の時間があるので」
「そうですか。……名残惜しいですが、いったん。いったんね? いったんお別れということで」
「そうです。いったんお別れするだけです」
「そう思うとちょっと楽かも」
「でしょ? ……無限に話しちゃうな、これ」
「本当に! ……でも、さすがに送り出さないといけませんね。林さん、またお会いしましょう」
「はい。加藤さんとまたお会いできるの、楽しみにしていますね」
では、また。
そうして、加藤さんの部屋の玄関は閉じられた。
「……ふう」
話し込み過ぎたな。
俺は笑みを浮かべながら、実家に向かうための駅へと急いだ。
加藤さんとはいったん別れただけ。
生きていれば、また酒とタバコ片手に駄弁る日が来るかもしれない。
だから、人生から見たらほんの少しのお別れだ。
また会える日を楽しみにしていますよ、加藤さん。
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