天狼星人サトシくん|第7話:借りた傘の行く先
*これまでの「天狼星人サトシくんと駅裏『酔いの明星』にて」というシリーズタイトルを、長すぎるため、今回から「天狼星人サトシくん」に変更します。Sgt. Pepper’sほどではないですけど(笑)。
【このお話の前提(初めての方へ)】
私の同僚で、中途採用の「サトシくん」は、実は遠い星からやってきた、AGI(汎用人工知能)を搭載したヒューマノイドです。
しかし、私はその正体にまったく気づかず、彼を「特定の日本酒〈南部美人〉を飲むと、妙に完成度の高いSFのホラ話を語り出す、一風変わった、でも真面目な後輩」だと思っています。
今回は、日本の核保有という、普段はなかなか口にしづらいテーマを扱います。核保有を肯定、あるいは否定するための物語ではありません。居酒屋で交わされる二人の会話を通して、持つことの危険と、持たないことの危険、その両方を考えるフィクションとしてお読みいただければ幸いです。
七月の終わり。
西多摩の夜は、昼間にため込んだ熱をなかなか手放そうとしなかった。
駅前のアスファルトは日が落ちても生ぬるく、遠くで鳴っている雷まで、暑さに腹を立てているように聞こえた。
私は会社帰りに、サトシくんと駅裏の居酒屋「酔いの明星」に入った。
冷房の効いた店内で生ビールをひと口飲むと、ようやく今日という一日が終わった気がした。
カウンターで隣に座ったサトシくんは、おしぼりで丁寧に手を拭いている。
「最近、暑いというより、地球に近づきすぎた感じがするな」
「何がですか」
「太陽がだよ」
「地球と太陽の距離は、現在も許容範囲内です」
「冗談に数字で答えるなよ」
サトシくんは小さく笑った。
こういうところは真面目な後輩である。
私は生ビールを飲みながら、さっき電車の中で読んでいた記事をスマートフォンに表示した。
日本の非核政策と、周辺国の核兵器について書かれた記事だった。
「これを読んでいて思ったんだけどさ」
「はい」
「周りの国がみんな拳銃を持っているのに、日本だけ胸に『私は持ちません』って札を下げて歩いて、本当に安全なのかね」
サトシくんは画面へ目を落とした。
「核兵器を持たないことと、無防備であることは同じではありません。日本は同盟国の抑止力によって守られています」
「つまり、拳銃は持っていないけど、後ろにもっと大きな拳銃を持った用心棒がいるわけだ」
「かなり単純化すれば、そうです」
「非核を誇りながら、他人の核には守ってもらう。なんだか都合がいい話だな」
サトシくんは少し考えた。
「矛盾がないとは言いません。しかし、核兵器を増やさないことにも合理性があります」
「また模範解答だな」
ちょうど店員が注文を取りに来た。
私は焼き鳥の盛り合わせと冷ややっこを頼んだ。
サトシくんがメニューを見ながら言った。
「南部美人をお願いします」
私は思わず顔を上げた。
「今日は早いな」
「何がですか」
「いや、こっちの話だ」
やがて、透明なガラスの徳利と、赤と青の江戸切子風のグラスが運ばれてきた。
サトシくんは青いグラスを取り、私は赤い方を取った。
徳利から注がれた酒が、切子の模様の中で揺れた。
「先輩」
「なんだ」
「核兵器を正式に保有する国の定義は、第二次世界大戦の戦勝国であることではありません。条約上は、一定の時期より前に核実験を行った国です」
「一九六七年より前とかいう話だろ」
「ご存じでしたか」
「記事に書いてあった。だけど、その日付を決めたのも、すでに核を持っていた側じゃないのか」
サトシくんは青いグラスを口へ運んだ。
一口。
二口。
三口目を飲み終えたあたりで、彼の視線が私の肩を通り越した。
いつものことだった。
焦点の合わなくなった瞳が、店の壁よりも、駅裏の夜よりも、ずっと遠い場所を見ている。
「制度には、核兵器の拡散を抑制する機能があります」
声の温度も、少し下がっていた。
「でも同時に、制度が成立した時点の力関係を固定する機能も持っています」
「やっぱり、そういうことだろ」
「私は先輩に同意したわけではありません」
「今、かなり同意したんじゃないのか」
「機能を追加で確認しただけです」
「頑固だな」
焼き鳥の皿が置かれた。
私はねぎまを一本取り、サトシくんは六角形に折った箸袋をテーブルの端へ寄せた。毎回思うが、どうして箸袋をそんなに正確な形に折れるのだろう。
「結局さ」
私はねぎまをかじった。
「勝った国が正義で、負けた国が悪だった。正義には強い武器を持つ資格があるが、悪にはない。難しく説明しているけど、その程度の話じゃないのか」
「戦争の勝敗だけで、すべての制度が決定されたわけではありません」
「でも、勝者と敗者が逆だったら、今の正義もかなり逆になっていたと思わないか」
サトシくんは答えなかった。
「人間はさ、結局、動物なんだよ」
私は赤いグラスに酒を注いだ。
「縄張りを守って、餌を確保して、群れを大きくして、弱い相手を従わせる。昔は牙と爪でやっていたことを、今は国際法だの正義だのと言い換えているだけじゃないのか」
「人類は法律や制度によって、本能をある程度抑制してきました」
「理性で本能を抑えているんじゃなくて、理性を使って本能的な支配を正当化しているだけかもしれないだろ」
サトシくんの右手が、六角形の箸袋の上で止まった。
「人類は、牙を捨てたのではない」
その声は、焼き鳥を焼く音より静かだった。
「牙に法律という名前をつけた。その可能性はあります」
「可能性じゃなくて、かなりそうだろ」
「追加の観測が必要です」
「何万年観測したら納得するんだよ」
サトシくんは返事をせず、冷ややっこを正確に四等分した。
私は赤いグラスの南部美人を一口飲んだ。
「非暴力も同じだと思うんだよ」
「ガンジーですか」
「思想として意味がないとは言わない。暴力に暴力で返さないから、相手の良心や世論を動かせることもある。でも、それが誰にでも通用する万能薬みたいに言われると、違う気がする」
「どのような相手を想定していますか」
「自分を殺そうとしている殺人鬼が、目の前で銃を向けているとするだろ」
「はい」
「そこで『君にも悩みがあったんだろう。本当は悪い人じゃない。銃を下ろして、このおにぎりを食べなさい』って話しかけてみろ。その前に撃たれるんじゃないか」
サトシくんは、しばらく私を見た。
「殺害意図が確定している相手に、炭水化物による情動変化を期待するのは、成功率が低いでしょう」
「難しく言っただけで、撃たれるってことだろ」
「おにぎりの具によって、わずかな差は生じるかもしれません」
「具の問題じゃない」
私は吹き出した。
サトシくんの表情は真剣だった。
「非暴力は、相手に良心、世論、損得計算、将来への関心が残っている場合に機能しやすい」
彼は青いグラスを見つめた。
「それらを持たない相手、あるいは失うものがないと判断した相手に対しては、非暴力だけで攻撃を止めることは困難です」
「また、俺の方へ寄ってきたね」
「条件を限定しただけです」
「今日はずいぶん限定するね」
外で雷が鳴った。
店の窓がかすかに震えた。
「もし米軍が全部日本からいなくなって、アメリカも日本を核で守らないと言い、日本もその穴を埋める力を持たなかったら、周りの国は今と同じ態度でいてくれると思うか」
「同じとは限りません」
「だよね」
「周辺国の指導者は、日本の弱点と損得を冷徹に計算するでしょう」
「サトシくんさ」
「はい」
「相手の弱点と損得を冷徹に計算することを、日本語では『ずるい』とか『ずる賢い』って言うんだよ」
「では、ずる賢く計算するでしょう」
「律儀に言い直すなよ」
「ただし、それは特定の国民全体の性質を意味しません。国家の指導者や支配層が、権力の維持と自国の利益を優先するという意味です」
「分かってるよ。普通の人たちは、俺たちと同じだろ。家に帰って飯を食って、家族の心配をして、会社へ行きたくないと思っている」
「最後の項目は、すべての国民に共通するとは限りません」
「かなり共通していると思うぞ」
サトシくんは否定しなかった。
私はつくねに黒胡椒を振った。
「だから、日本も自分で核を持つことを、一度くらい本気で検討してもいいんじゃないかと思うんだよね」
「核兵器は、国家への尊敬を生むものではありません。恐怖を生みます」
「尊敬か恐怖かなんて、そんな綺麗に分けられるのか」
「少なくとも異なる感情です」
「それが恐怖だとしても、他国が日本の発言を簡単に無視できなくなるなら、発言力にはなるんじゃないのかな。尊敬されなくても、無視するコストが上がるなら、日本の扱いは変わる」
サトシくんは、私の赤いグラスと、自分の青いグラスを交互に見た。
「敬意ではありません」
「それは分かった」
「しかし、相手が日本を無視したり、従属的に扱ったりする際のコストを上げる効果はあり得ます」
「そう思うよね」
「核保有によって、交渉力の一部が増す可能性は否定できません」
「また、かなりこっちへ来たな」
「一部です」
「一部でも来たことには変わりないな」
サトシくんは徳利を持ち上げた。
中には、もうほとんど酒が残っていなかった。
「ただし、核保有には軍拡競争、外交的孤立、事故、誤認、誤使用などの危険があります。核兵器が存在する限り、人間の判断だけでなく、情報の欠落や機械の故障によっても破局は起こり得ます」
「それは分かる。でも、持つ危険ばかり話して、持たない危険を考えないのもおかしいだろ」
「日本が核保有を検討する場合、一人前の国になるためではなく、生存を守る最後の保険として――」
「ちょっと待て」
私は串を皿へ置いた。
「今、日本は一人前の国じゃないと言ったのか」
サトシくんの動きが止まった。
瞬きもしない。
焼き台から上がった白い煙が、私たちの間をゆっくり横切った。
「……不適切な表現でした。撤回します」
「撤回、早いな」
「国家としての成熟ではなく、戦略的自立性という意味です」
「それなら最初からそう言ってくれよ」
「申し訳ありません」
「揚げ足を取っているわけじゃないからね」
私は赤いグラスを置いた。
「日本は負けた。負けたから軍事的に弱くされて、アメリカに守られた。そのおかげで経済に力を注げたのも事実だろう。でも、戦争が終わって八十年以上たっても、世界の偉い席には当時の勝者が座ったままだ。日本は経済力も技術力もあるのに、どこか半人前として扱われているように感じるんだよ」
「日本は戦後秩序から利益も得ました」
「それは否定していないよ。安い防衛負担で経済成長できた。核の傘にも守られてきた。でも、だからといって、いつまでも借りた傘でいいかどうかは、別の話だろ」
サトシくんは、チェイサーには手をつけず、空になった青いグラスを見つめていた。
「現在の国際秩序は、敗戦国かどうかや、民族、人種の問題というより、既得権の問題として――」
「そこだよ」
私は少し強い口調で遮った。
「そうやって机の上で、人種の問題を薄めるなよ」
サトシくんが私を見た。
「欧米の国々は、大砲を積んだ船で世界中へ出ていった。アジアやアフリカや南北アメリカから、土地も資源も宝石も香辛料も労働力も奪った。肌の色が違う人間を下に置いて、それを文明化だと言った。今は公平や人権を掲げているが、昔の富も力も上下意識も、全部きれいに消えたわけじゃないだろ」
「すべての白人個人が、その思想を持っているわけではありません」
「そんなことは言っていない。個人の話じゃない。歴史と制度と富と、ものの見方の癖が重なっていると言っているんだ」
サトシくんは黙った。
右手が、六角形の箸袋に触れた。
六つの角のうち、一つだけを指先でわずかに押し、完全な左右対称に直した。
「私は人種を、生物学的な分類として処理しすぎました」
しばらくして、彼は言った。
「しかし人類は、人種を単なる外見の差ではなく、支配権を配分するための識別記号として使用した。軍事力、富、人種的序列が、長期間にわたり相互に補強された」
「そういうことだよね」
「現在の制度だけを解析し、それを生んだ暴力の履歴を軽視していました」
サトシくんは、どこか遠くを見るように目を細めた。
「文明という言葉は、ときどき、資源を奪った側が記録に付けた題名にすぎません」
私は赤いグラスを口元まで運び、そこで止めた。
サトシくんの声には、いつもの冷たさとは違うものが混じっていた。
昔を思い出しているような、遠い響きだった。
「以前、私が訪れた惑星でも、最初に滅びたのは、武器を捨てた都市でした」
私は黙って彼を見た。
「他の都市が同じように武器を捨てると信じたからです」
「それで、攻められたってことか」
「はい」
サトシくんは答えた。
「最後に滅びたのは、武器を捨てなかった都市です」
店の外で、もう一度、雷が鳴った。
「持っていても、滅びるのか」
「はい。相手が攻撃する可能性を恐れ、相手より先に攻撃しました。相手も同じ計算をしていました」
「救いがないよね」
「生存のために作られた武器が、生存への不安を増幅しました」
私は何も言えなかった。たとえ、それが作り話だったとしても。
核兵器を持てば安全になる。
そう言い切るほど、私は単純ではないつもりだった。
だが、持たなければ安全になるとも、どうしても思えなかった。
サトシくんが、ようやくチェイサーへ手を伸ばした。
その前に、私は尋ねた。
「結局、日本が核を持つことについては、どう思うんだ」
サトシくんは水の入ったグラスを持ったまま答えた。
「核保有が正しいとは結論できません」
「やっぱり逃げるのか」
「逃げてはいません」
サトシくんの目が、まっすぐ私を捉えた。
「核抑止について議論すること自体を、不道徳であるとして封じるのは非現実的です。日本が核保有を再検討することには合理性があります。安全保障上の発言力が増し、他国が日本を無視するコストを高める可能性もある」
私は黙って続きを待った。
「ただし、核兵器を持てば、自動的に尊敬や国際的地位が得られるわけではありません。拡散、事故、誤認、軍拡競争、外交的損失という大きな代償があります」
「じゃあ、結論は」
「核が善か悪かではありません」
サトシくんは言った。
「日本にとって、保有による利益が、その代償を上回るかどうかです」
「つまり、少しは俺の意見に賛同したということか」
「少しどころか」
サトシくんは、チェイサーを手にしたまま答えた。
「議論を始めた時より、かなり先輩側へ寄っています」
「南部美人は、理屈を現実側へ寄せる効果もあるんだな」
サトシくんは、チェイサーを一気に飲んだ。
それから何度か瞬きをした。
遠くへ抜けていた瞳の焦点が、ゆっくり戻ってくる。
「先輩」
「なんだ」
「僕は、何か変なことを言っていませんでしたか」
「いつもの壮大なホラ話だよ。いつもとは立場が逆転してたけど」
「すみません」
「気にするなよ。今日はおにぎりが世界を救えないことが分かった」
サトシくんは困った顔をした。
「おにぎりを頼んだんですか」
「頼んでない」
会計を済ませて店を出ると、雨が降っていた。
夕方までの熱気を押し流すような、粒の大きな雨だった。
私は傘を持っていなかった。
サトシくんが鞄から黒い折り畳み傘を取り出した。
「先輩、入りますか」
「助かるよ」
傘は二人で入るには少し狭かった。
私の左肩と、サトシくんの右肩がときどき雨に濡れた。
駅へ向かって歩いていたはずが、交差点でサトシくんが突然、右へ曲がった。
私は二歩ほどついていってから立ち止まった。
「おい。駅はそっちじゃないぞ」
「ちょっと野暮用を思い出して」
「いや、傘に入れてくれたんじゃないのか」
サトシくんはしばらく考えた。
それから傘の柄を私へ差し出した。
「では、先輩が使ってください。駅までは二十七・四メートルです」
「細かいな。目測でそこまで分かるか、普通」
「勘です」
サトシくんは傘の外へ出た。
「お前は濡れるだろ」
「この程度なら問題ありませんよ。すぐのところなんで」
雨の中を走り出した彼の肩で、雨粒が街灯の光を青白く弾いた。
私は借りた傘を差し、彼とは反対の方角にある駅へ向かった。
傘を差しているのに、なぜかさっきよりも雨が気になっていた。
<了>
