禍つ華(まがつはな) #1
【あらすじ】一月七日、秩父にあるミューズパークで女性の遺体が発見される。遺体の左上腕には薔薇と蛇のタトゥーがいれられていた。臨場した矢吹と秋川は犯人が残した詩を読む。詩には『森の詩人』と記されていた。二人はタトゥーショップを訪ね、被害者の名前が白石里奈であることを突き止める。彼女に薔薇と蛇のタトゥーを入れた彫り師・宇野光が失踪していることがわかる。里奈の自宅アパートを訪ねる矢吹と秋川。机の引き出しに仕舞われていた年賀状から、交友関係と里奈の祖父が高齢者施設に入居していることを掴む。さらに『スミルナ』というカルト宗教に参加していたこともわかる。里奈は祖父に「神が棲む森がある」と話していた。森に何があるのか。そして、また新たな事件が起こる。
第一章 暗い森からの誘い
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一月七日水曜日午前八時五十分
道は空いていた。水色の空が広がっている。矢吹は車でミューズパークに向かっていた。
また同じ夢を見た。由依は窓に手をかざしている。カーテンの隙間から差し込む光を捕まえようとしているかのように、ひらいた指を握る。小さな手から光がこぼれる。
「俺、ずっと殺人の捜査がやりたかったんです」
助手席に座っていた男が口を開いた。朝から興奮気味だ。
「つまり、あんたはきょう、初めて殺人の捜査にかかわるってことか」
「現場なら、交番勤務のときに何件か行ってます。その時から、ずっと刑事に憧れていました」
男の返答に矢吹はぞっとする。
「あんたが行った現場には、腐乱死体はなかったんだろうな。ウジがたかったり、どろどろになっちまった遺体を見た日には、まず十中八九後悔するよ。どうして俺は刑事になっちまったんだって」
「僕は後悔なんてしませんよ。現場の保存だけして、テープの前でじっと見てるだけなんて嫌だったんです」
武甲見広場までくると、黄色い規制線が道を塞いでいた。規制線の向こうにはパトカーとセダンが駐まっている。セダンのルーフには赤色灯が載っていた。一台は機捜、もう一台は県警の検視官のものだろう。
矢吹は規制線の五メートルほど手前に車を駐めた。
「あんた、秋元っていったっけ?」
「いえ、秋川です」
「いいか。一つ忠告しとくが、遺体のそばでは絶対に吐くなよ」
秋川を一瞥し、矢吹は車を降りた。風が冷たい。
ミューズパークは広大で、道路を挟んだ両側に広がっている。サイクリング・ロードや音楽堂、野外ステージのほかにプールもあり、一日では回りきれないほどだ。
矢吹が警察手帳を提示すると、制服警官がテープを持ち上げてくれた。草に覆われた左側の斜面の下からカメラのシャッター音が響いている。
手袋を嵌めながら、矢吹は斜面を下りはじめた。その後を秋川がついてくる。
「矢吹さんはどうして刑事になられたんですか」
「俺は子供の頃から探偵ごっこが好きだった。謎解きが趣味で、学生の頃はゾディアック事件や黄金州の殺人鬼の記事なんかを読み漁ってたな」
「ゾディアックなら、新聞社に送ってきた暗号文とあの独特の十字架マークを映画で見ましたよ。黄金州の殺人もアメリカの事件ですか」
「カリフォルニア州で起きた連続殺人事件だよ。少なくとも十二人を殺害し、五十人を暴行、強盗は百件以上働いたといわれてる。長いこと未解決事件だったが、数年前に犯人が捕まった。写真を見たが、どこにでもいそうなごく普通の男だったよ」
鑑識員が写真を撮っている向こうで、黒いスーツを着た二人組が初老の男性と話をしてた。スーツの二人はがっちりとした体格で、腕に『三機捜』の腕章を嵌めている。あの男性が第一発見者だろう。
「アメリカの未解決事件は十万件って何かで読みました。どうやって犯人を見つけたんですか」
「民間の家系図作成サイトを利用したのよ。そこは誰でも自由にDNAプロファイルをアップロードして検索できるらしい」
「凄いな。そんな最悪の事件でも、諦めなければ解決することができるんですね」
「いや。あれは運が良かったんだ。どうやったって解決しない事件はある」
厖大な時間を費やせば、いつか犯人を挙げられる。そう信じていたのは何年も前のことだ。
「矢吹さんみたいな刑事が、事件を解決するんですよ。きっと」
「俺にはそんな能力はねぇよ」
矢吹は吐き捨てた。由依はもう戻らない。矢吹はそれが事件だったと信じていたが、二十年以上たった今も真相はわからないままだった。
斜面を下り切った先に、捜査官がしゃがみ込んでいた。青い作業着にキャップをかぶっている。県警の検視官だ。
その奥に女性が倒れていた。喉元にナイフが刺さっている。大きく見開かれた双眸は空を見つめていた。その顔に傷はない。二十代か。金色に染められた髪はきれいに整えられ、胸の上で手を組み合わせている。
チェックの長袖シャツにブルージーンズというラフな格好だったが、左側の袖が切り取られているのが目を引いた。剥き出しになった上腕にタトゥーが入れられている。黒いインクで描かれているのは大輪の薔薇で、巻き付くように蛇がトグロを巻いていた。威嚇するようにこちらを睨みつけ、長い舌をうねらせている。
「あら、久しぶりね」
振り向いた検視官は春日真季だった。矢吹の六つ上で、階級は警視だ。草の上に広げられたアタッシェケースには歯や口腔内を調べるための開口器、瞼を開くためのピンセット、血液などの検査試料を採取するための注射器やメスなどが並べられている。
「死後どれくらいだ?」
春日とは一年ほど付き合っていたことがある。あれから三年が過ぎていたが、キャップの下から覗く瞳は生き生きと輝いて年齢を感じさせない。
「全身が最高度に硬直している。直腸温度は二十七度あったから、死後半日は経過してるわね」
「身元は判明しているんでしょうか」
秋川が手帳を開きながら問いかけた。いまのところ遺体を見て嘔吐を催している様子はない。
「所持品は見つかってないわ。でも、これを見てほしい」
春日は遺体の左腕をペンライトで照らした。薔薇と蛇のタトゥーが、よりくっきりと浮かび上がる。
「この薔薇、ほんとうにそこに咲いているみたいにリアルですね。被害者はロマンチストな詩人かな」
秋川はタトゥーに見入っている。
「かなり緻密よね。学生の頃、マンハッタンに住んでたときにずいぶんたくさんのタトゥーを見たけど、これはかなり高い技術を持った名人クラスの彫り師が入れたものよ。これだけのものを彫れる彫り師なら、ネット検索ですぐに見つかると思う」
春日の提案を受け、秋川がスマートフォンを取り出した。検索している間に矢吹は自分のスマートフォンでタトゥーを撮った。
「タトゥーショップってこんなにあるんですね。高評価を受けたショップがランキングで表示されてますよ。ホームページには彫り師たちのインスタグラムも載せているところも多いです」
秋川は検索結果を報告しながら、感嘆の声を漏らした。
「犯人は、このタトゥーを俺たちに見せるために服の左側だけ剥ぎ取ったんだな。切り取られた袖は見つかったか」
「ええ。被害者のすぐ横に落ちてたわ。血に染まったシャツなんて、持ち帰りたくなかったんでしょうね。警官に職務質問されたら一発でアウトだからね」
「でも、なかには臓器を切り取って戦利品として持ち帰る殺人鬼もいるんですよね ?」
「それはかなり希少よね」
春日は立ち上がり、斜面を下りてくる鑑識課員に合図した。二人がかりで担架を運んできた。
「この女性は、ここで殺されたのか」
「おそらくそうね。背中の死斑を確かめる必要はあるけど、どこかで殺されて運ばれたのなら車か台車がいるわ。しかも斜面を下らなければならない。地面には台車を押した跡や遺体を引きずった痕跡はなかった」
春日が説明する横で、鑑識課員が女性の両手と両足の指に袋をかぶせていく。右足首にタグを付けた。その後白いシーツで包んでから遺体袋に入れ、担架で運び出していった。
「あの女性は、一人でミューズパークへやってきたのか」
担架を目で追いながら、下足痕を採取している鑑識課員がいないか見回した。犯人のものと思われる下足痕があればコンクリートを流し込んで型を取る。だがそんな者は見当たらない。
「一人でここへやって来て、たまたま犯人と出くわし殺された可能性もなくはないわ」
春日は道具を手際よくしまっていく。
「あるいは二人は顔見知りで、この場所まで歩いてきたのかもしれません。そのうちに何か言い争いになり、女性は殺された。喉に刺さっていたナイフは、二人のうちのどちらかが護身用に持ち歩いていたのかもしれない」
秋川はスマートフォンを握ったままつぶやいた。
「でも、自分の身を守るために相手を刺したのなら、腕や顔を切りつけて逃げるでしょうね。喉元にナイフを刺したままにしたのは、血が吹き出ないようにするためよ。犯人には多少の知識があった。返り血を浴びないためにはどうしたらいいのか」
春日はアタッシェケースに詰め終わると立ち上がった。証拠品袋はケースに入れず、右手に抱えている。
「衝動的な犯行じゃないってことか」
矢吹の視線に春日が頷いた。
「犯人がこの女性を殺すつもりだったのか、誰でもいいから殺したかったのかはわからないわ。でも、初めからここで殺すつもりだったのよ」
春日は右手に持っていた証拠品袋を矢吹に渡した。袋のなかを覗くと、白い紙が入っていた。二つに折ってある。紙を取り出して広げた。A4サイズで、中央にワープロ文字で短い文が記されている。
したたる雫は大地に落ちて
衝撃とともに飛び散っていく
それは花びらのようだ
同じ花は二度と描かれない
その花は鮮やかな赤い血から生まれる
森の詩人より
「これ、どこにあった?」
「女性が組み合わせた手の下よ」
「血から生まれる花なんて、なんだか不気味ですね。こんな詩を残していくなんて、犯人はかなり自己顕示欲が強いと思います」
横から紙を覗き込んでいた秋川は眉を寄せた。
「そうね。こんな物騒なメッセージをわざわざ現場に残していくなんてかなりイカれてる。ところであなたは新顔ね」
春日が秋川を見る。
「東松山署管轄から異動してきました秋川新一といいます。検視官の春日警視ですよね。交番勤務時代に現場で何度かお見かけしたことがあります」
「そう。じゃあ、あなたはこれから矢吹くんにみっちりしごかれるのね」
春日は爽やかな笑顔で嬉しそうに答えてから、矢吹に視線を向けた。
「いつもの相棒は来てないの?」
「上村は刑事を辞めたんだ」
理由は口にしなかった。詩の書かれた紙を袋に戻し、春日に渡す。春日は袋を受け取ると、それ以上訊かなかった。
車に戻る前に第一発見者の男性から話を聞いた。武甲見広場の手前の林は、休日でも人気がないという。毎朝犬の散歩に訪れるが、今朝は飼い犬がリールを強引に引っ張って吠え立てるので斜面を覗き込んだようだ。
駆けつけた警官によると、公園内の駐車場に残された車はないとのことだった。音楽堂やテニスコートなどの施設利用は有料だが、公園は入場も駐車場も無料で、監視カメラの設置場所も限られているという。
犯人と被害者はここまでどうやって来たのか。車以外ならバスを利用したとも考えられるが、本数が少ない。
交通手段の確認を急ぐべきだが、被害者の名前もわからない状態では捜査は進まない。周辺の監視カメラ映像の回収は機捜と制服警官に任せ、矢吹は秋川とタトゥーショップを当たることにした。
秋川によると、被害者が入れていたのと同じ図柄は見つからなかった。だが、かなり作風が似ている彫り師が一人いた。
彫り師の名前は宇野光という。人気店らしく、要予約と表示されていた。ショップは高田馬場にある。ほかの人気店も新宿、渋谷と都市部に集中していた。
矢吹はカーナビに高田馬場のショップ住所を打ち込んだ。
「矢吹さんは、薔薇と蛇の組み合わせが持つ意味をご存知ですか」
「その組み合わせで連想するのはビジュアル系ヘビメタだな」
シフト・レバーをドライブに入れる。
この捜査に尾崎や黒木は来ない。矢吹と秋川を除くほかの秩父南署の刑事たちは、二日前に起きた強盗殺人の捜査にいっていた。捜査本部が設置され、一課と共にきょうもかけずり回っている。矢吹もその一員だったが外された。
〈今朝、ミューズパークで若い女性の遺体が発見された。だが、こっちは手一杯なのはわかってるな?〉
尾崎が矢吹を見た。これは問いかけではない。矢吹は黙って頷くしかなかった。
「蛇は『知性』を表します。アダムとイブは蛇にそそのかされて知性の実を食べました。でも、そのせいでエデンの園を追放されてしまいました」
「知性がないほうが幸せってことだな」
車が走り出すと、矢吹はアクセルを踏み込んだ。考えないほうが上手くいく。由依が亡くなったのは事故だった。あるいは自殺だった。そう思うほうがいい。だから義父と母親は考えるのをやめた。
「そうです。だから蛇には『誘惑』という意味もあるんです。薔薇はどう思いますか」
「ゴージャスって言葉がぴったりだな。俺とは無縁の花だ」
「あのタトゥーはモノクロだから何色を表しているのかわかりませんが、赤なら『情熱』を表しています。『愛情』とか。黄色は『友情』や『平和』という意味で、白なら『純潔』や『相思相愛』という意味があるみたいです。ちなみに黒い薔薇だと、『永遠の愛』を表すようです」
秋川はスマートフォンを眺めながら講釈を並べていく。
「もしかすると、被害者の腕に入れられていた蛇は、大切な愛を知性で守っていたのかもしれませんね。だから薔薇が奪われないように神経を尖らせて、あんな怖い顔をしていたのかも」
秋川はドリンク・ホルダーからミネラルウォーターのボトルを掴んだ。薄いペットボトルが乾いた音を立ててへこんだ。
