母がいなくなってから、わかること #4
生きていたときと、今と、何が違うんだろう
2026年5月19日、母が旅立った。
肺がんだった。
家族以外には病気のことをほとんど話していなかった母。
最後まで周りを心配させまいとしていた結果、
人生最大のドッキリを残して旅立っていった。
母がいなくなってから、友人たちの話や、
遺されたものや、最後の数日を思い返しながら、
私は少しずつ母のことを知り直している。
これは、その記録です。
私は、この一年で身近な命がふたつ消えるのを見届けた。
ひとつめの命は、愛犬umu。
彼女は、一ヶ月の余命宣告を受けたあとも、たくさん笑い、歩き、最期まで「今」をとことん生きた。
眠った顔は、長い旅をやり遂げたヒーローのように誇らしげだった。
その顔を見て私は、
私も「今」を、ちゃんと生きたいと思った。
ふたつめの命は、母。
母は、まだ生きる、まだ生きたいと願っていた。
けれど、その思いとは裏腹に、身体は思うようには動かなくなっていった。
溺れているかのような苦しい呼吸の中でも、最後の最後まで弱音を吐かなかった。
自分のことより、私たちのことを案じていた。
そして、驚くほどの速さで、その生涯に幕を閉じた。
どちらも、私にとってかけがえのない命。
もう笑った顔を見ることもできない。
話すことも、
触れることも、
喧嘩することもできない。
それでも。
消えてしまったはずのふたつの命は、
今も確かに私の中にある。
こう書くと、よく聞く話だと思う人もいるかもしれない。
「亡くなった人は、心の中で生き続ける」
私だって、ここまで読んだらそう思うだろう。
けれど、私がこの一年で感じたのは、そんな言葉だけではうまく言い表せない感覚だった。
ただ漠然と、思い出の中にいるわけではないということ。
umuは、出会ってからずっと私に生き方を教えてくれた。
一日一日を大切に過ごすこと。
風を感じること。
歩くことの楽しさ。
道端の小さな花や、空の色や、季節の匂いに気づくこと。
隣からいなくなった今も、
新しいことを思いつくとき、
何かを始めようとするとき、
その根っこを辿ると、そこにはumuがいる。
今も私のインスピレーションの源で、
今も私の背中を押している。
そして、母。
几帳面で、丁寧で、真面目で、優しい人だった。
それに比べて私は、管理や整理が得意ではない。
きれいに積み上げていくより、感覚で走るほうがずっと得意。
私たち親子は、どちらかといえば正反対の性格だったと思う。
けれど、母が亡くなったあとの手続きや整理をしているうちに、
私は、母が長い時間をかけて積み重ねてきたものに触れることになった。
書類の残し方。
物のしまい方。
ひとつひとつをきちんと終わらせていくこと。
そこには、生前の母そのものがあった。
そして不思議なことに、それらに触れてから、
私は少しずつ、自分の生活を整えるようになっていった。
ほんの些細なことだ。
片付ける。
管理する。
後回しにしない。
きちんとしまう。
以前の私なら面倒だと投げ出していたようなことを、少しずつやるようになった。
そんな自分を見つけるたびに思う。
ああ、私の中に母が生きているんだな、と。
umuから受け取ったものと、
母から受け取ったものはまるで違う。
umuは私を外へ連れ出した。
歩いて。
見て。
感じて。
今日を生きて。
そう教えてくれた。
母は、私の暮らしの内側に入ってきた。
整えて。
丁寧に。
ひとつずつ。
そんなふうに言われている気がする。
この一年で、私はふたつの命を失った。
なのに不思議なことに、
自分の中には、ふたり分の生き方が増えた。
これが「命を受け継ぐ」ということなのかもしれない。
私と妹は、今でもumuや母の話をよくする。
「umuなら、もっと歩きたがるね」
「お母さんならこう言うよね」
「これ、お母さんっぽい」
そんな、たわいもない話。
けれど、その話をしているとき、
私たちの頭の中にいる彼女たちは、生前となにも変わらない。
umuはumuのままだし、
母は母のままだ。
考え方も、
好き嫌いも、
言いそうなことも、
驚くほど鮮明にわかる。
そうすると、不意にわからなくなる。
生きていたときと、今と、
いったい何が違うんだろう。
もちろん、違う。
そんなことはわかってる。
触れることはできない。
声を聞くこともできない。
一緒に歩くことも、
喧嘩をすることもできない。
その違いはあまりにも大きい。
それでも、彼女たちは今も私たちの会話に現れて、
私たちの判断に入り込み、
ときには私の行動まで変えている。
身体がなくなることが、死なのだとしたら。
誰かの中にその人の生き方が残り、
その人がいたことで未来の行動まで変わっていくことを、
いったい何と呼べばいいんだろう。
お盆休みの最終日。
三島大社祭の囃子を聞いた。
太鼓の音。
笛の音。
人の声。
街中から溢れてくる音が、
まるで「生きているぞ」と主張しているようだった。
ものすごい生命力だった。
その中で私は、
もうここにはいない人たちを思い浮かべた。
少しだけ、寂しくなった。
あの音を聞きながら、
生きているということは、いったい何なんだろうと思った。
息をすることなのか。
身体が動くことなのか。
誰かと言葉を交わせることなのか。
私はまだ、その答えを知らない。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
命は消えてしまっても、
そこにいたことまでは消えない。
私たちが生きている限り。
歩くたびにumuがいて、
暮らしを整えるたびに母がいる。
そうやって彼女たちは、
以前とは違う形で、
今日も私の人生に参加している。
だから時々、
生と死の境が、
思っていたよりもずっと曖昧なものに感じられるのだ。
