見出し画像

創作大賞の応募が終わった

創作大賞の応募が終わった。

昨年は勝手が分からず、「エッセイ部門」のハッシュタグすら付けずに投稿した記事があった気がする。以前からnoteの存在は知っていたものの、どうしてもnoteといえば、感動ポルノとスタバでマックブックをこれ見よがしに広げる意識高い系の起業家ばかりに思え、虫酸が走るといえばいいのか、積極的に使おうとは思っていなかった。

それでも文章を書くならやはりnoteが向いていると、ChatGPTの助言を受け、とりあえず始めてみたのが、確か七月の今頃。すでに創作大賞の募集が始まっていた。今年が早まったのか、或いはこれがいつもの年でたまたま昨年が遅かったのかはわからないが去年はまだ募集をしていた。

ただ、結果としてこのタイミングが自分にとっては本当によかった。もし創作大賞が終わった直後にnoteを始めていたら、そもそもアカウントすら作らず、拍子抜けしてそのまま終わっていたかもしれない。

もちろん、去年も今年も入選できるなどとは思っていない。だいたい私はエッセイどころか、文章の書き方のイロハすら知らない。誰かに教わったことも、体系的に学んだこともない。高校時代、現代文の授業はほとんど昼寝の時間だった。

それでも覚えていることがある。高一の現代文の教科書に、漱石の『こゝろ』が載っていた。

教師は繰り返し、この作品の奥深さや人間心理の巧みな描写について熱心に語っていた。今にして思うと、彼は現代文の教師よりも先に熱烈な漱石ファンだったのではないかと思うほど、『こゝろ』についてを熱く語っていた。

しかし、私にはその良さがまるで分からなかった。熱く語られれば語るほど、教師への反発もあってか益々興味が薄れていくのがわかった。

これが『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』ならまだ娯楽物として読める。だが、『こゝろ』になると、いったい何を描こうとしているのかさっぱり理解できず、ただ困惑するばかりだ。教科書には『こゝろ』のほんの一部が二十数ページにわたって抜粋されていただけで、作品全体を把握しにくかった。それを差し引いても、当時の私には読む力が決定的に欠けていた。

読むことすら満足にできない人間に、書けというほうが土台無理な話だ。必然的に現代文という受験科目には苦手意識を抱くようになり、それは今も変わらない。

そんな自分が四十年近く経って、文章を書くことが楽しいと感じているのだから不思議なものだ。苦手だからといって嫌いなわけではないをこの年になってやっと知った。まさに隔世の感。

noteを眺めていると、ときおり文章術を語る記事やアカウントを見かける。感心させられる一方で、それほど文章に自信があるのなら、さぞや立派な経歴や実績があるのだろうと思ってプロフィールを開いてみる。

ところが、不思議なことに、そうした実績らしいものはほとんど見当たらない。新聞社で記者をしていたわけでも、文藝春秋に連載を持っていたわけでもなさそうだ。きっと奥ゆかしい性格なのだろう。あえて華々しい経歴は伏せているに違いない。そうだ、きっとそうに決まっている。

正直、あの手の記事を読むたび、「これくらいなら俺にも書けそうだ」と思ってしまうことがある。「生成AIに書かせたコタツ記事ではないか、クソみてぇ」と疑ってしまうことも、ないとはいえない。

いや違う、能ある鷹は爪を隠すともいう。きっと私のような駄文しか書けない人間にも伝わるよう、彼らは立派な肩書きを伏し、あえて平易な文章で書いてくれているのだろう。ありがたい話である。

とはいえ、せっかくのご指南ではあるものの、どぶのようなにおいが漂ってそうで、どうにもこうにも彼らの説く文章術とは、『こゝろ』以上に相性が悪いように思えてならない。結局のところ、我流で書くしかないと半ば諦め、今日も飽きずに今のスタイルで文字を紡いでいる。

でも、別にそれでいいのではないかと開き直っている部分も少なからずある。ありきたりで熱量の感じられない無機質な文章を垂れ流すくらいなら、国語の決まり事をことごとく無視した乱筆であっても構わない。ひとりでも、ふたりでも、どこかで笑ってくれる人がいるのなら、それだけで十分だと思う。

そして、相変わらずスキはつかない。

いいなと思ったら応援しよう!