芋出し画像

【創䜜゚ッセむ】オレンゞ

䞀、

二〇二六幎の䞃月䞊旬。 梅雚明けを目前に控えた東京の空気は、氎分をたっぷりず含んだスポンゞのように重たく、街党䜓がぬるい氎底に沈んでいるかのような錯芚を芚えさせる。 空を芋䞊げるず、分厚い灰色の雲が、郜垂の茪郭をがんやりず曖昧に塗り぀ぶしおいた。

午前䞃時四十五分、䞉鷹駅。 私は、湿気を垯びたホヌムの端で、う぀むきながら立っおいた。 呚囲には、同じようにこれから始たる䞀日に向かっお䜓を運がうずする倧人たちや、私ず同じ制服を着た高校生たちが、それぞれの芋えない重力を背負っお列を䜜っおいる。

私はい぀も、この茪郭のがやけた䞖界の䞭で、極力自分の気配を消しお生きおきた。 教宀の隅の、さらにそのたた隅。 窓際の垭から芋える空だけを友達にしお、誰の芖界にも入らない透明なアメヌバのように息を朜める。 自分には䜕の色もない。䜕の䟡倀もない。 誰かに話しかけられるこずもなければ、誰かの蚘憶に残るこずもない。 ただ、そこにある空気の淀みの䞀郚ずしお、卒業たでの時間をやり過ごすこずだけが私の生存戊略だった。

ホヌムに、聞き慣れた接近メロディが鳎り響く。 やがお、灰色の景色を切り裂くようにしお、オレンゞ色の垯を巻いた䞭倮線が滑り蟌んできた。 プシュヌずいう長いため息のような音ずずもに、ドアが開く。 私は、波に呑たれる流朚のように、無蚀のたた車内ぞず抌し流された。

オレンゞ色。 それは本来、倪陜や果実を思わせる、暖かく掻気に満ちた色のはずだ。 けれど、私にずっおこの䞭倮線のオレンゞ色は、私を氎槜の底に閉じ蟌めるための、境界線の色だった。 冷房の効いた車内に逃げ蟌むず、私はすぐに定䜍眮であるドア脇のスペヌスに䜓を滑り蟌たせた。 冷たい金属の手すりに背䞭を預け、スマヌトフォンを取り出す。 そしお、私ず䞖界を隔おるための、最も重芁で、最も脆い防壁を耳に抌し蟌んだ。

有線むダホン。 今時、誰もが完党ワむダレスのスマヌトなむダホンを䜿っおいるずいうのに、私はわざわざコヌドの絡たる叀い有線むダホンを䜿っおいる。 コヌドが物理的に繋がっおいるずいう事実だけが、私ずいう頌りない存圚を、蟛うじおこの䞖界に繋ぎ止めおくれおいるような気がするのだ。 耳の奥にシリコンのむダヌピヌスをねじ蟌み、再生ボタンを抌す。

流れ出すのは、名前も顔も知らない、マむナヌなむンディヌズバンドの曲。 『深海魚のたばたき』ずいう名のその曲は、アコヌスティックギタヌの頌りないアルペゞオず、囁くような、あるいは泣き出しそうなボヌカルだけで構成されおいた。 誰も知らない、誰も聎かない音楜。 だからこそ、この音楜は私だけのシェルタヌだった。 ノむズキャンセリングなんお高床な機胜は぀いおいないけれど、このかすれた歌声が耳を満たした瞬間、車内の喧隒も、モヌタヌの駆動音も、他人の吐く息の音も、すべおが薄い膜の向こう偎ぞず遠ざかっおいく。

私は目を䌏せ、前髪ずいう名のカヌテンの奥に隠れた。 これでいい。 今日も私は、誰にも芋぀からないたた、お茶の氎たでの䞉十分間をやり過ごすこずができる。

二、

電車が吉祥寺駅に滑り蟌む。 倧量の乗客が吐き出され、たたそれ以䞊の人間が飲み蟌たれおくる。 車内の密床が䞀気に䞊がり、私のパヌ゜ナルスペヌスは少しず぀削り取られおいった。 それでも、私は顔を䞊げない。 他人の芖線ず亀差するこずほど、恐ろしいこずはないからだ。

しかし、西荻窪駅でドアが開いたずき、私の閉ざされた䞖界に、匷烈な光が差し蟌んできた。

芖界の端に、眩しい癜が飛び蟌んでくる。 掗い立おの、シワひず぀ないシャツ。 そしお、かすかに挂っおくる、柑橘系ず石鹞が混ざったような、枅々しくお嫌味のない柔軟剀の銙り。 顔を芋䞊げるたでもない。 その気配だけで、私はそれが誰であるかを悟り、無意識のうちに息を止めおいた。

同じクラスの、君だ。

君は、私ずは察極にいる人間だった。 教宀の䞭心で、い぀も誰かに囲たれおいる。 笑い声は初倏の颚に揺れる颚鈎のように高く柄んでいお、その瞳は、隠し事など䜕䞀぀ないず蚀わんばかりに真っ盎ぐに䞖界を芋぀めおいる。 日焌けした肌は健康的な呜の茝きを攟ち、君が動くたびに、呚囲の空気がプリズムのように乱反射しおきらきらず光るのだ。

私にずっお、君は「眩しすぎお盎芖できない存圚」だった。 倪陜を盎接芋぀めれば網膜が焌かれおしたうように、君の真っ盎ぐな眩しさに觊れるず、私自身の抱える暗さ、惚めさ、自己評䟡の䜎さが、残酷なたでに浮き圫りにされおしたう。 だから私は、い぀も君から遠ざかり、君の光が届かない日陰の苔ずしお生きるこずを遞んできた。

どうしお、よりによっお私のすぐ隣に。

満員の車内は、君を私のすぐ数十センチの距離たで抌し流しおきた。 私は恐怖で身をすくたせた。 もし、君が私に気づいたらどうしよう。 「おはよう」なんお声をかけられたら、私はどう返事をすればいい 声が震えおしたうかもしれない。 䞍気味だず思われるかもしれない。 いや、そもそも君は、私ずいう存圚を認識すらしおいないだろう。クラスメむトであるこずすら、芚えおいないかもしれない。

私はさらに深くう぀むき、手元のスマヌトフォンの画面を意味もなくスクロヌルした。 むダホンの音量を、䞀段階だけ䞊げる。 『深海魚のたばたき』の、切実なギタヌの音が倧きくなる。 どうか、気づかないで。 どうか、私が透明なたたでいられたすように。

䞉、

電車は荻窪、阿䜐ヶ谷、高円寺ず進むに぀れお、さらに乗客を飲み蟌み、もはや身動きすら取れないほどのすし詰め状態になっおいた。 窓ガラスは乗客たちの熱気ず倖の湿気で薄く結露し、倖の景色をがやけた氎圩画のように歪めおいる。

私のすぐ隣には、盞倉わらず君が立っおいる。 ぀り革に぀かたる君の腕。 制服の袖から芗く、现く匕き締たった手銖。 その手銖に揺れる、䜿い蟌たれたリュックサックの玐。 君の呌吞のペヌス、䜓枩、少しだけ乱れた髪の毛の揺れ。 すべおが、私にずっおノむズ以䞊の圧倒的な情報量ずなっお抌し寄せおくる。

䞭野駅を過ぎ、電車が地䞋ぞず朜る気配を芋せ、やがお芖界が開けお新宿の巚倧なビル矀が結露した窓の向こうに珟れた。 新宿の手前。 いく぀もの線路が耇雑に亀差し、車䜓が倧きく揺れるポむント。

その時だった。 ガクン、ず電車が急に匷いブレヌキをかけた。 「あっ」 呚囲の乗客たちがバランスを厩し、ドミノ倒しのように䜓が傟く。 私も手すりにしがみ぀こうずしたが、満員の圧迫で足元がよろめいた。 そしお、隣にいた君の䜓も、倧きく私の方ぞず傟いた。

瞬間、かすかに「カチャ」ずいう金属音が響いた。

䜕が起きたのか、脳が理解するよりも早く、私の耳に鋭い痛みが走った。 「痛っ  」 耳に抌し蟌んでいたむダホンが、暎力的な力で匕っ匵られ、スポンず抜け萜ちたのだ。

目を芋開くず、私の癜いむダホンのコヌドが、君のリュックサックに぀いおいる小さなカラビナの金具に、芋事に絡み぀いおいた。 急ブレヌキの揺れで、君の鞄が私のコヌドを匕っかけ、そのたた匕き剥がしおしたったのだ。

静寂。 いや、実際には電車の走行音や人々のざわめきがあるはずなのに、私の䞻芳的な䞖界からはすべおの音が消え去った。

ただ䞀぀、恐ろしい音を陀いお。

シャカ、シャカ、シャカシャカ  。

私の胞元に垂れ䞋がったむダホンから、埮かな、しかしはっきりずした高音のノむズが挏れ出しおいた。 先ほどたで私の脳内を満たしおいた、あのマむナヌなむンディヌズバンドのボヌカルの声。 それが今、無防備な状態で、呚囲の空間に撒き散らされおいる。

血の気が匕くのがわかった。 私の最も内偎にある、誰にも芋せたくなかった柔らかくお醜い内臓を、癜日の䞋に晒されたような絶望感。 「こんな暗くお倉な曲、聎いおるんだ」 「気持ち悪い」 「やっぱり、あい぀っおそういう奎なんだ」 幻聎のような嘲笑が、脳内に響き枡る。

「ごめんなさい、ごめんなさい  」 私は震える手でスマヌトフォンの画面をタップし、音楜を止めようずした。 しかし、パニックに陥った指先はうたく動かず、コヌドは君の金具に絡たったたた取れない。

「あ、ごめん 俺の鞄に  」 君の声が降っおきた。 その声は、盞倉わらず柄んでいお、私の錓膜を容赊なく震わせた。

私は顔を䞊げられなかった。 もう終わりだ。 透明な防埡壁は砎られ、私は教宀で䞀番眩しい存圚の前に、無様な姿を匕きずり出されおしたったのだ。

四、

「本圓にごめん、匕っかかっちゃっお  」 君は慌おた様子で、自分の鞄から私のコヌドを倖そうずしおいた。 その距離はあたりにも近く、君の指先が私の手銖にほんのわずかに觊れた。 その枩床に、私はビクッず肩を震わせた。

「いい、です。私こそ、ごめんなさい  」 私は蚊の鳎くような声で絞り出し、なんずかコヌドを回収しお、スマヌトフォンの電源ボタンを匷く抌し蟌んだ。 挏れ出おいた音は、ようやくプツリず途絶えた。 けれど、もう遅い。 君には、私がどんな音楜を聎いおいたか、きっず聞こえおしたったはずだ。

嘲笑される。 倉な奎だず軜蔑される。 私は固く目を閉じ、裁きの蚀葉が降っおくるのを埅った。

しかし。

「  ねえ」

君の声は、私が予想しおいたような、明るくお無神経なものではなかった。 どこか探るような、信じられないものを芋たような、少し掠れた、静かな声だった。

恐る恐る、私は目を開け、ほんの少しだけ顔を䞊げた。 至近距離にある君の顔。 い぀も呚囲に光を振り撒いおいる君の瞳が、今は驚きに芋開かれ、たっすぐに私を捉えおいる。

「今の曲  もしかしお、『倜の底を歩く』  」

心臓が、ドクンず倧きく跳ねた。

『倜の底を歩く』。 それは、私がさっきたで聎いおいた曲が入っおいる、あのむンディヌズバンドのアルバムのタむトルだった。 ショップの片隅で埃を被っおいたような、サブスクリプションの再生回数も数千回しかないような、誰にも知られおいないはずのバンド。

「え  」 私が間の抜けた声をもらすず、君はさらに身を乗り出しおきた。 「そうだよね むントロのギタヌ、絶察そう。  嘘だろ。俺以倖に、あのバンド聎いおる人、初めお芋た」

君の瞳の奥に、今たで芋たこずのない色が宿っおいた。 それは、教宀で芋せる倪陜のような眩しさではなく、深い倜の海に沈む月のような、静かで、どこか切実な光だった。

「  知っお、るんですか」 「知っおるも䜕も、俺、毎日聎いおる。あのボヌカルの、息継ぎの音が奜きなんだ。なんか、深呌吞しおるみたいで」

私は蚀葉を倱った。 君のような、光の䞖界の䜏人が。 友達がたくさんいお、郚掻でも掻躍しおいお、䌑みの日には倪陜の䞋で笑っおいるような君が。 私ず同じ、この暗くお、冷たくお、底なしに寂しい音楜を、むダホンの䞭に閉じ蟌めお聎いおいたなんお。

「  私も」 気が぀けば、私の口は勝手に動いおいた。 「私も、奜きです。息継ぎの音。  たるで、溺れそうな人が、必死に氎面から顔を出しお、空気を吞い蟌んでるみたいだから」

蚀っおしたっおから、ハッずした。 自分の内面を、こんなにも玠盎に蚀葉にしおしたったこずなんお、䜕幎ぶりだろう。 気味が悪いず思われるかもしれない。 慌おおう぀むこうずした私に、君は蚀った。

「わかる」

たった䞉文字の蚀葉。 けれど、その蚀葉には、䞀切の嘘や誀魔化しがなかった。 「すげえわかる。あの曲聎いおるずさ、なんか、自分が透明になっおもいいやっお、思えるんだよね」

君の口から、「透明」ずいう蚀葉が出たこずに、私はたたしおも衝撃を受けた。 君も、透明になりたいず思う倜があるのだろうか。 あれほど眩しい光を攟ちながら、その裏偎で、誰にも芋せない孀独を抱えお、暗い郚屋の隅で膝を抱えお音楜を聎いおいる倜があるのだろうか。

電車の揺れに合わせお、君の鞄が埮かに揺れる。 二人の間の数センチの隙間にだけ、芋えないノむズキャンセリングがかかったような、完璧な真空地垯が生たれおいた。 呚囲の乗客の気配も、スマヌトフォンの通知音も、車内アナりンスすらも、私たちの結界を砎るこずはできなかった。

五、

電車は四ツ谷駅を抜け、倖濠の緑を車窓に映しながら走っおいく。 重たく垂れ蟌めおいた䞃月の雲の切れ間から、䞍意に、朝の匷い光が斜めに差し蟌んできた。

光は結露した窓ガラスを透過し、車内に舞う埮现な埃をプリズムのようにきらきらず茝かせた。 その光の垯が、君の暪顔を照らし出す。 産毛が金色に透け、君の瞳の䞭に、小さな光の粒が反射しおいた。

「同じクラス、だよね」 君が、少しだけ照れくさそうに笑っお蚀った。 「俺、い぀も隒がしくしおおごめん。  あの曲聎いおる人なら、わかるず思うけど、たたに、無理しお笑っおるずきあるからさ」

それは、君が初めお私に芋せた、䞍噚甚な匱音だった。 誰もが矚むような存圚の君が、私ずいう暗がりに向かっお、そっず心の柔らかい郚分を差し出しおくれたのだ。

「  無理、しないでくださいね」 私は、震える声で、それでも粟䞀杯の勇気を振り絞っお蚀った。 「もし、疲れたら  むダホン、貞したすから」

私の蚀葉に、君は䞀瞬目を䞞くしお、それから、今日䞀番の、本圓に嬉しそうな笑顔を芋せた。 「ありがずう。  じゃあ、今床、俺のプレむリストも教えるよ」

「次は、埡茶ノ氎、埡茶ノ氎」

車掌のアナりンスが響き枡り、私たちの真空地垯は、ゆっくりず珟実の空気に溶けおいった。 県䞋には、濁った神田川が流れおいる。 䞞ノ内線の赀い車䜓が、地䞋から䞀瞬だけ顔を出し、たたトンネルぞず吞い蟌たれおいくのが芋えた。

電車がホヌムに滑り蟌み、ドアが開く。 初倏の生ぬるい颚が、車内ぞず流れ蟌んできた。

私たちは、蚀葉を亀わすこずなく、人の波に抌されるようにしおホヌムぞず降り立った。 改札ぞず向かう階段で、君の背䞭が人混みの䞭に玛れおいく。 私はその埌ろ姿を、少しだけ胞を匵りながら芋送った。

もう、君の眩しさに目を背ける必芁はなかった。 光が匷ければ匷いほど、その足元には濃い圱ができるこずを、私は知っおしたったから。 そしお、その圱の底で、私ず君は、同じ音楜ずいう现い糞で、確実に぀ながっおいたから。

絡たっおいた有線むダホンを指に巻き付けながら、私は小さく息を吐いた。 駅のホヌムの空調からは、かすかにカビの匂いがする。 けれど、䞍思議ず息苊しさはなかった。

ポケットの䞭でスマヌトフォンを操䜜し、再び再生ボタンを抌す。 『深海魚のたばたき』の、あの䞍噚甚なギタヌの音が、耳の奥で優しく響き始めた。

芋䞊げたお茶の氎駅のドヌム屋根の隙間から、䞃月の青空が、ほんの少しだけ顔を芗かせおいる。 䞭倮線のオレンゞ色の車䜓が、ガタン、ずいう力匷い音を立おお、再び東京の街ぞず走り出しおいった。 そのオレンゞ色は、もう私を閉じ蟌める氎槜の色ではなかった。 それは、昚日よりも少しだけ枩床を持った、私の䞖界を照らす、ささやかな光の色だった。


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