電脳街の美しき伽藍(がらん)②
第2章:伽藍堂の乙女と絡繰(からくり)の哲学
万世橋署の刑事課は、安っぽい正義感と、それ以上に安っぽい煙草のヤニの臭いに満ちていた。 蛍光灯の冷たい光が、雑然と積まれた書類の山や、疲労で土気色になった刑事たちの顔を無慈悲に照らし出している。
その部屋の中心で、卯月正義警部は肥満した体を反り返らせ、勝利の凱歌を上げていた。
「どうだ、乙山! 鑑識からの報告と、中島からの報告がピタリと一致したぞ!」 卯月は、被害者である須藤の手帳のコピーをバンバンと指先で叩いた。
「被害者の胃の内容物および血液から、致死量のシアン化合物が検出された。いわゆる青酸カリだ。そして中島の調べによれば、容疑者である沢田は、昨晩から行方をくらましている。沢田が須藤を呼び出し、隙を見て毒入りの飲料を飲ませた。苦しむ須藤を置き去りにして逃走し、須藤は怨敵の名を壁に血で書き残した……。完璧だ。もはやパズルのピースは全て埋まった!」
同僚の刑事たちが、おお、と感嘆の声を上げる。 乙山寿は、自分のデスクのパイプ椅子に深く腰掛けたまま、無表情にその狂騒を眺めていた。安物のボールペンを右手に持ち、こめかみをコツ、コツ、と一定のリズムで叩く。
(パズルだと?)
乙山の冷徹な論理回路が、卯月の浅薄な言葉を解剖していく。 パズルというものは、出題者が定めた論理的な枠組みの中に、全てのピースが矛盾なく収まるからこそ美しいのだ。卯月が声高に叫ぶ推理は、ピースの形を力任せに歪め、無理やり枠にねじ込んでいるに過ぎない。
「警部」 乙山は、極力感情を交えない、平坦な声で口を開いた。
「遺体の第一発見時、部屋の空調の設定温度は『三十二度』の暖房でした。サーバーラックが発する莫大な熱量と相まって、室温は四十度を超えていたはずです。なぜ、犯人はそのような異常な環境を作ったのでしょうか」
「ええい、理屈っぽいぞ乙山! そんなものは、沢田が逃走する際に、証拠隠滅のために室温を上げて遺体の腐敗を早めようとしたか、単に慌ててスイッチを押し間違えたに決まっておろう!」
「……青酸カリによる中毒死の場合、胃酸と反応して青酸ガスが発生しますが、即効性が高すぎます。被害者が扉のサムターンを回して内鍵をかけ、壁に明瞭な文字を書き残す時間的猶予があったとは考えにくい」
「火事場の馬鹿力という言葉を知らんのか! 人間、死の淵に立てば普段以上の力を発揮するものだ! 貴様のように理屈ばかりこね回す東大出の頭には、人間の情念というものが理解できんのだ!」
これ以上の対話は無意味だった。 乙山は小さく会釈し、「沢田の周辺を洗ってきます」とだけ言い残して、逃げるように刑事課を後にした。
人間の情念。その言葉が、乙山の脳内にこびりついて離れなかった。
人間が感情という不合理なバグを抱えた生物であることは理解している。しかし、あの密室は違った。あの現場には、泥臭い人間の情念など微塵も存在しなかった。 あるのは、冷徹なまでに計算し尽くされた物理法則と、それを支配する何者かの「悪意ある美意識」だけだ。
そしてその美意識は、あの一階の薄暗い工房にいた女――天野百合子の眼差しと、酷似していた。
夜の帳が下りた秋葉原は、昼間よりもさらに凶暴な光と音の渦と化していた。
雨上がり特有の、アスファルトから立ち昇る土の匂いと、行き交う人々の湿った体臭。そこに電子部品を焦がしたようなオゾンの匂いが混ざり合い、街全体が巨大な肺となって呼吸しているかのようだった。巨大ビジョンの極彩色の光が水たまりに反射し、現実と虚構の境界を曖昧にしている。
乙山は、コートのポケットに両手を突っ込み、一直線にあの雑居ビルへと向かった。 上の階には立ち入り禁止の黄色いテープが張られているが、一階の奥、重厚な木開きの扉からは、薄ぼんやりとしたランプの光が漏れ出していた。
カラン。 鈍い鐘の音とともに扉を開けると、そこはやはり、外界から完全に隔絶された深海のような空間だった。
壁を埋め尽くす無数の古時計。チクタクという一定のリズムが、幾重にも重なり合い、圧倒的な多声性(ポリフォニー)をもって空間を支配している。空気は乾燥しており、古い真鍮と、松脂(まつやに)の匂いが鼻腔をくすぐった。 視覚、聴覚、嗅覚。その全てが、この『伽藍堂』という小宇宙の法則に書き換えられていく。
「いらっしゃい。……今日は、ずいぶんと迷える足音ですね、刑事さん」
店の奥、作業机の前に座っていた天野百合子が、虫眼鏡を外して乙山を見た。 相変わらずの、蒼白く美しい顔立ち。黒い瞳は、光を反射することなく、乙山の内面を覗き込むように深く沈んでいる。
「……わかるんですか、足音で」
「ええ。人間は、自身の精神状態を筋肉の収縮という物理運動に変換して歩きます。あなたの今日の歩調は、ひどくアンバランスだ。左足に僅かな躊躇いがある。まるで、論理(ペルソナ)と感情(シャドウ)が、足の引っ張り合いをしているような」
百合子は微かに口角を上げると、机の上に置かれていたものに視線を戻した。
それは、江戸時代に作られたであろう、精巧な茶運び人形の内部機構だった。真鍮の歯車とゼンマイが、複雑に絡み合っている。そのすぐ横には、現代のスマートフォンに使われるようなマイクロチップと、緑色の基盤が置かれている。
「時計や絡繰(からくり)は、美しいと思いませんか」 百合子は、極細のピンセットで小さな歯車をつまみ上げながら言った。
「設計者の意図した通りに、物理法則にのみ従い、寸分の狂いもなく動く。そこには、迷いも、苦悩も、見苦しい自己顕示欲もありません」 「……人間は、そうではないと?」 「人間など、出来損ないの生体機械(オートマタ)に過ぎませんよ」
百合子は、氷のように冷たい声で断言した。
「百五十億個のニューロンが電気信号をやり取りし、神経伝達物質という化学薬品によって『喜怒哀楽』という錯覚を引き起こしているだけです。愛も、憎しみも、悲しみも、全ては化学式(フォーミュラ)のバグ。……上の階で死んだ男も、彼を殺した人間も、そのバグに踊らされた哀れな機械です」
乙山は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
彼女の言葉は、乙山自身が心の奥底に封じ込め、決して人前では語らない「人間に対する究極の虚無主義」そのものだった。 東大理Ⅰを卒業しながらキャリア官僚の道を捨て、あえて泥臭い現場の刑事という道を選んだのは、己の内に潜む『人間をただの物質としてしか見られない冷酷な怪物』を、組織という枠組みの中で飼いならすためだった。
しかし、目の前の女は違う。彼女は、その怪物を隠そうともせず、むしろ至高の芸術として愛でている。
「あなたは、人間を解体しようとしているように聞こえる」 「解体? いいえ、私はただ、事象を正しく観察しているだけです。刑事さん、あなたは上の階の『密室』を、どう解釈しましたか?」
唐突な問いに、乙山は目を細めた。 「……私たちの組織は、被害者が自ら鍵を閉めたと判断して動いています。しかし、私は疑問だ。現場は異常な熱気に包まれていた。まるで、わざと室温を上げるための巨大なオーブンのようだった」
百合子の手が、ピタリと止まった。 彼女はゆっくりと顔を上げ、乙山を真っ直ぐに見つめた。その漆黒の瞳の奥に、初めて微かな「歓喜」の光が点ったのを、乙山は見逃さなかった。
「素晴らしい。あなたの目は、やはり節穴ではないようだ」
百合子は立ち上がり、アンティークのキャビネットから小さなアルコールランプと、ガラスのフラスコを取り出した。
「刑事さん。化学において『熱』とは何でしょうか?」 「分子の運動エネルギーの増大、ですか」
「その通り。熱は、あらゆる反応を加速させ、状態を変化させる。固体は液体に、液体は気体に。……たとえば、ある種の特殊な化学物質は、常温では無害な固体ですが、特定の温度を超えると急速に昇華し、致命的な毒ガスを発生させます。そして、そのガスは空気より軽く、密閉された空間でなければ、致死濃度に達する前に換気扇から逃げてしまう」
チクタク、チクタク。 周囲の時計の音が、乙山の脳内で一気に加速した。
――密室。 それは犯人の侵入経路をごまかすためのトリックなどではない。 発生した毒ガスを部屋の中に充満させ、被害者を確実に殺害するための「密閉容器」だったのだ。サーバーの排熱と暖房は、固体の毒物を気化させるための起爆装置。
「……犯人は現場にいなかった。被害者が部屋に入り、自ら内鍵をかけた後で、室温の上昇とともに毒ガスが発生するように仕組まれていたんだ」
乙山が呟くと、百合子は満足そうに微笑み、アルコールランプに火を灯した。青白い炎が、彼女の顔を妖しく照らし出す。
「物理的接触を伴わない、純粋な論理と化学式による殺害。……それを成し遂げた犯人は、ひどく冷酷で、そして美しい精神の持ち主だと思いませんか?」
彼女の問いかけは、悪魔の囁きのように甘美だった。 乙山は、無意識のうちに右手を上げ、ボールペンでこめかみを強く叩いた。一回、二回、三回。 恐ろしいことだ。乙山は今、猟奇的な殺人犯の思考回路に、圧倒的なまでの「共感」と「美しさ」を抱いてしまっている。
天野百合子。この女が、あの幻惑の密室を作り上げた真犯人であることは、もはや直感のレベルで確信できた。 だが、決定的な証拠がない。彼女の言う通り、これは物理的接触を一切排除した、悪魔の証明のような殺人事件なのだ。
「……あなたの時計は、狂いがない」 乙山は、搾り出すような声で言った。 「しかし、どれほど精巧な機械でも、いつかはゼンマイが切れ、停止する。私は、刑事としてその『停止の瞬間』を見届けさせてもらう」
「ふふっ」 百合子は、鈴を転がすような、冷たい笑い声を立てた。 「楽しみにしていますよ、刑事さん。私の仕掛けた絡繰(からくり)を、あなたのその美しい論理で、どこまで解体できるのか」
乙山は逃げるように伽藍堂を後にした。
夜の秋葉原のノイズが再び彼を包み込む。しかし、もはやあの極彩色のネオンも、アイドルソングの騒音も、彼の意識に届くことはなかった。 脳裏に焼き付いているのは、蒼白く美しい女の顔と、チクタクという永遠に狂わない秒針の音。
天才的な頭脳を持つがゆえの孤独。その孤独な魂が、初めて自分と同質の「怪物」に出会ってしまった。乙山は、自分が底知れぬ深淵の淵に立ち、そして自らその暗闇へと足を踏み出そうとしていることを、絶望とともに自覚していた。
※だれかのエッセイ100話セット、1話あたり10円です。
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