「⑧上行への付嘱の意味――教主交代の思想」について
宮田幸一氏のホームページに掲載されていた以下の論考の矛盾点を考えてみたい。
『須田晴夫 「宮田論文への疑問――日蓮本仏論についての一考察(修正版)」へのコメント(2024.10.22up)』
宮田氏は、須田氏の「上行菩薩(日蓮大聖人)への教主交代」の論証に対し、「釈尊本尊論の否定であって釈尊本仏論の否定ではない」「大聖人の内証が久遠元初自受用報身であるという日寛上人の論とは関係ない」「天台の四節三益の釈から見れば、地涌の菩薩は釈尊に下種された存在である」と批判しています。
しかし、この宮田氏の批判は、日蓮大聖人の仏法における最大の眼目である「文上と文底の立て分け(種脱相対)」および「人法一箇」の深義を全く理解できず、文上の活字(天台の教相)に縛られた教条主義的な妄難に過ぎません。
1. 「本仏」と「本尊」を分断し、大聖人の「内証」を否定する根本的な誤り
宮田氏は「末法における救済理論としての釈尊本尊論の可不可にあり、釈尊が上で上行が下であるという本仏論の議論ではない」「末法の教主が日蓮であることと、内証が久遠元初自受用報身であることとは関係がない」と主張しています。
仏法において、「法を体現した人(本仏)」と「信仰の対象(本尊)」を切り離すことはできません(人法一箇)。末法において釈尊が「本尊」となり得ないのは、釈尊が末法の衆生を救済する「本仏」としての力を失っている(熟脱の仏である)からです。
大聖人が釈尊ではなく「南無妙法蓮華経」を本尊とされたのは、「仏は所生、法華経は能生」(本尊問答抄)だからです。釈尊をも成仏させた根源の法(本因)が南無妙法蓮華経であり、大聖人はその根源の法をご自身の身に体現されたからこそ、「末法下種の教主(御本仏)」となられたのです。
外用(外面の振る舞い)は「上行菩薩」であっても、その内証(奥底の境涯)は宇宙根源の法を体現した「久遠元初の自受用報身如来」であるとする日寛上人・創価学会の論こそが、教主交代の必然性を説く唯一の論理です。宮田氏のように「本仏は釈尊だが、末法では上行が救うから教主だ」とするのは、大聖人を単なる「釈尊の使いの菩薩」に貶める浅薄な理解に他なりません。
2. 「三十二相論」や「古仏論」は、上行菩薩の「内証(仏)」を明かす必須の議論である
宮田氏は、須田氏が上行菩薩の偉大さを三十二相や古仏の論で展開したことを「不必要な議論」と切り捨てています。
地涌の菩薩の姿がなぜ重要かといえば、それが「上行菩薩=菩薩仏」であることを示しているからです。涌出品で出現した地涌の菩薩は、「身皆金色にして、三十二相、無量の光明あり」と、明らかに「仏」の特徴を備えて出現し、釈尊をも凌ぐ荘厳な姿でした。
池田先生は「神力品の結要付嘱の儀式は、本来は『仏』から『仏』への儀式なのです」「内証は仏でありながら、弟子の『修行』の立場を貫いている。菩薩仏です」と指導されています。
「因果倶時」の仏として、九界(菩薩の姿)の中に仏界の果徳を備えて出現した上行菩薩の姿こそが、「無始無終の宇宙と一体の根本仏(久遠元初の自受用報身)」を指し示す鍵なのです。宮田氏はこの「本因妙」のダイナミズムを全く理解できていないため、「不必要だ」と的外れな批判をしているのです。
3. 「四節三益」を盾にした批判は「文上」と「文底」の混同である
宮田氏は、天台の『法華文句』の「四節三益」を引き、「地涌の菩薩は久遠実成の釈尊に下種されたのだから、釈尊が上で上行が下だ」と主張しています。
これは法華経の「文上(表面の文字)」の教相にとらわれた最大の誤りです。たしかに文上(脱益の仏法)の立場から見れば、釈尊が久遠の昔から地涌の菩薩を教化してきたことになります。
しかし、『百六箇抄』に「久遠名字の時・受る所の妙法は本・上行等は迹なり」と仰せの通り、日蓮大聖人の「文底(下種の仏法)」の眼から見れば、上行菩薩の本地は久遠元初において南無妙法蓮華経を受持した「本仏」です。
五百塵点劫に成道した久成の釈尊といえども、あくまで久遠元初の妙法を因として仏果を得た「果分の仏(迹仏)」に過ぎません(百六箇抄講義)。根源の法(本仏)から見れば、釈尊も地涌の菩薩も、南無妙法蓮華経の「影(迹)」として法華経の会座に出現したのです。「釈尊が地涌の菩薩に下種した」というのは、あくまで法華経の儀式上の「迹の姿」に過ぎず、宮田氏の批判は文底の「本因妙」の仏法を知らない天台宗レベルの浅い解釈に過ぎません。
宮田氏の論考は、「釈尊本仏論」という前提を死守しようとするあまり、日蓮大聖人が「凡夫こそ体の三身にして本仏(諸法実相抄)」と明かされた「凡夫即極」「本因妙」の法理を完全に否定してしまっています。
須田氏が上行菩薩の真の姿や仏教史の展開を通して「釈尊から日蓮への完全なる教主交代(種脱相対)」を論じたことは、池田先生や日寛上人が明かしてきた日蓮仏法の真髄に合致する極めて正当な論理であり、宮田氏の批判は「文理淵底」を知らない浅はかな難癖であります。
