「⑤-2曼荼羅本尊の相貌に表れる日蓮の真意」について
宮田幸一氏のホームページに掲載されていた以下の論考の矛盾点を考えてみたい。
『須田晴夫 「宮田論文への疑問――日蓮本仏論についての一考察(修正版)」へのコメント(2024.10.22up)』
須田氏の「曼荼羅本尊の相貌(中央の『南無妙法蓮華経 日蓮』)こそが日蓮本仏論の証明である」という主張に対し、「『観心本尊抄』には『日蓮』と書くという言及がない」「大石寺教学(日寛教学)では曼荼羅(法)と御影(人)があって初めて人法一体となるのに、創価学会は御影本尊論を無視している」と批判するものです。
しかし、この宮田氏の批判は、日蓮大聖人の仏法の真髄である「人法一箇」の法理を全く理解しておらず、日興上人の「曼荼羅正意」の精神にも背く、極めて教条主義的で的外れな難癖です。
1. 『観心本尊抄』の文字にのみ執着し、「事の現証」を無視する浅薄さ
宮田氏は『観心本尊抄』の文章内に、中央下部に「日蓮」と配置するとの言及がないことを理由に批判しています。
大聖人の仏法は、理屈(文)ではなく「事(現実の振る舞いや現証)」を重んじる仏法です。大聖人は「経王殿御返事」において、「日蓮がたましいをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給え。仏の御意は法華経なり、日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」と厳然と仰せです。 『観心本尊抄』の文面に文字としての指定がなくとも、大聖人が実際に顕された数々の御本尊において、中央に「南無妙法蓮華経」と「日蓮」の御名が一体不可分で大書されているという「事の現証」こそが、大聖人の究極の真意(人法一箇)です。現実の御本尊の相貌を無視して「経文(御書)の字面にないから」と批判するのは、仏法を頭でっかちにしか捉えられない浅薄な読み方です。
2. 「日蓮本仏論=御影本尊論」というすり替えと、日興門流への完全な無理解
宮田論文の最大の誤りは、「日蓮本仏論には、大聖人の木像や絵像を本尊とする『御影本尊論』が不可欠である」と独自に定義し、それを継承しない創価学会を批判している点です。
これは、大聖人の直弟子である日興上人の精神に真っ向から背く「謗法」の論理です。日興上人は『富士一跡門徒存知の事』において、他門流が釈迦仏の仏像を本尊としていることを破折し、次のように明確に宣言されています。 「全く絵像・木像の仏菩薩をもって本尊となさず、ただ御書の意に任せて妙法蓮華経の五字をもって本尊となすべし。即ち御自筆の本尊これなり」。 日興門流の正統な信仰とは、絵像や木像(御影)ではなく、大聖人御自筆の「文字曼荼羅」のみを究極の本尊と仰ぐことです。後世(日有以降)に宗門内で強まった「御影本尊論」を基準とし、それに従わない創価学会を「不十分」と批判することは、日興上人の「曼荼羅正意」の精神への完全な無知と忘恩を自ら暴露しているに過ぎません。
3. 日寛上人の「人法一箇」をも曲解する矛盾
宮田氏は、日寛上人が「曼荼羅(法の本尊)」と「御影(人の本尊)」の両方を立てて「人法一体」としたと主張していますが、これは宮田氏自身が引用している日寛上人の文章と完全に矛盾しています。
宮田氏が引用した『観心本尊抄文段』の冒頭には、大曼荼羅本尊そのものについて「この本尊に人あり法あり。(中略)法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり」と明記されています。すなわち、日寛上人は「大曼荼羅それ自体が完全なる人法一箇の本尊である」と説いているのです。
池田先生も指導されている通り、「南無妙法蓮華経は法であるが、同時に仏身なのです。人法一箇です。ここが大事なところです。『法』といっても『人(仏)』を離れた法は、『理』だけの存在です」。
曼荼羅の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」と認められていること自体が、法(南無妙法蓮華経)と人(日蓮大聖人)が完全に一体となった「人法一箇」の究極の証明です。わざわざ曼荼羅の前に木像(御影)を置かなければ人法一体にならないなどというのは、大聖人が魂を込めた文字曼荼羅の絶対的功力を信じきれない、形式主義への堕落です。
したがって、宮田氏の論考は、後世の宗門に混入した「御影信仰」や「文面のみへの執着」にとらわれ、大聖人が魂を墨に染め流して顕現された「文字曼荼羅(人法一箇)」の絶対性を見失った邪義です。池田先生・創価学会が文字曼荼羅の中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」をもって人法一箇・日蓮本仏義の論拠とすることは、大聖人の真意および日興上人の遺意識に完全に合致する正義です。
