「③日蓮が末法の教主(本仏)である所以」について
宮田幸一氏のホームページに掲載されていた以下の論考の矛盾点を考えてみたい。
『須田晴夫 「宮田論文への疑問――日蓮本仏論についての一考察(修正版)」へのコメント(2024.10.22up)』
宮田幸一氏の論考は、須田氏が「釈尊は南無妙法蓮華経を説いていない」「法華経の教説にあろうとなかろうと成立する」と主張したことに対し、「日蓮自身は法華経の結要付嘱で釈尊が南無妙法蓮華経を説き、上行に付嘱したと解釈しているのだから、須田氏の主張は日蓮の歴史認識から逸脱している」と批判するものです。
しかし、この宮田氏の批判は、日蓮大聖人の仏法の最深の法理である
「文上と文底」「本因と本果」そして「本と迹」の立て分けを全く理解できず、経文の表面的な記述(文上)だけにとらわれた極めて浅薄な曲解に過ぎません。
1. 「釈尊は南無妙法蓮華経を直接説いていない」のは日蓮仏法の事実である
宮田氏は、日蓮大聖人が「釈尊が結要付嘱で妙法五字を説き、上行に付嘱した」と考えていたと主張し、須田氏を批判しています。しかしこれは「文上(表面の文字)」と「文底(奥底の真意)」の混同です。 たしかに釈尊は法華経の寿量品において、五百塵点劫の昔に成仏したという「久遠実成」を説き明かしました。しかし、それはあくまで「私はこのように仏になった」という「結果(本果妙)」の姿を示したに過ぎません。五百塵点劫に成道した釈迦はあくまでも久遠元初の妙法を因として仏果を得た果分の仏にすぎないのであります。釈尊は、自らが成道し得た肝心の久遠元初の本因(南無妙法蓮華経)については、最後まで明かされなかったのであります。
つまり、「文上の法華経」には、釈尊を成仏させた根源の種子である南無妙法蓮華経そのものは説かれておらず(文底に秘し沈められており)、釈迦仏は南無妙法蓮華経の教主ではないとする須田氏の主張こそが、大聖人の仏法における正確な教判なのです。
2. 「結要付嘱」の儀式は、妙法を証明するための「迹(証明書)」に過ぎない
宮田氏は、須田氏が「南無妙法蓮華経は法華経にあろうとなかろうと成立する真理である」としたことを、「法華経の教説(上行への結要付嘱)を無視しては論拠を失う」と批判しています。しかし、ここにも仏法の本質への決定的な無理解があります。 池田先生は講義の中で、「久遠名字の時・受る所の妙法は本・上行等は迹なり」との百六箇抄の文を引かれ、南無妙法蓮華経の法体そのものが「本」であり、法華経の経文上の上行菩薩等の儀式は「迹(影)」であると解説されています。経文は、大聖人が事実として妙法を広宣流布されるための「予証(あらかじめ出す証拠)」であり「文証」なのです。 南無妙法蓮華経は宇宙根源の大法であり、法華経という経典が存在する以前から存在する永遠普遍の真理です。大聖人は、その真理を末法の衆生に信じさせるための「証明書」として法華経の虚空会の儀式(結要付嘱)を用いられたのであり、宮田氏のように「法華経の経文(儀式)がなければ妙法の論拠が失われる」と考えるのは、「本(妙法)」と「迹(証明のための経文)」を取り違えた本末転倒の批判です。
3. 久遠実成の釈尊を「迹仏」と下すのは大聖人御自身の明言である
宮田氏は、須田氏が「久遠実成の釈迦仏といっても(中略)架空の存在でしかない」「釈迦仏をも迹仏であると断じている」と述べたことを異端視しています。 しかし、須田氏が引用している通り、日蓮大聖人御自身が『諸法実相抄』において、「釈迦・多宝の二仏というも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御座しまし候え。(中略)凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」と明確に断言されています。 大聖人の仏法においては、三十二相八十種好で飾られた「完全なる仏」というのは想定はできるが、現実には「目標」にすぎず、凡夫という「九界」を離れた「仏」は実在しないとされます。人間以上の仏は、にせものであり、方便なのです。
すなわち、文上の法華経に描かれる超越的な「久遠実成の釈尊」は、衆生を導くために仮に設けられた「用の仏(迹仏)」であり、真実の本仏とは、南無妙法蓮華経という永遠の法をその身に体現し、現実の苦難の中で広宣流布に戦う「凡夫(日蓮大聖人およびその門下)」なのです。
宮田氏の批判は、日蓮仏法の真髄である「種脱相対(下種の仏と熟脱の仏の違い)」や「文底秘沈(文上に説かれない南無妙法蓮華経)」、「凡夫即極(凡夫こそが本仏)」という深遠な法理を全く理解できず、法華経の表面的な「経文(文上)」にのみしがみついた教条的な難癖に過ぎません。
須田氏の主張は、池田先生や日寛上人が説き示してきた日蓮仏法の本義(本因妙の仏法)を正確に述べており、宮田氏の批判は完全に論破されます。
